12 少しだけ、残念ね
「ユファス、俺」
「首飾りを取ってきたら決闘をすると約束したのよ」
夜闇からすうっと姿を現した、それは金の髪をした女だった。
「メギル」
その名を呼んだのは弟だったか兄だったか。
「どうしようかと思ったのだけれど、雲行きが怪しいようだから」
メギルは夜空を仰ぎ見て言った。実際、天は薄雲に覆われ出している。
「雪にはならなさそうね。昨日は降るかと思ったものだけれど、三姉妹は供物を受け入れたという辺りかしら」
のんびりと天気の話などしながら、魔女は数ラクト離れている兄弟の間に立った。
「駄目よ、ティルド。約束したでしょう。風謡いを追うと」
「てめえの言いなりになるなんてお断りだ」
「私を殺したいのなら、ちゃんと約束を守ってもらわなくちゃ」
にっこりとメギルが言えば少年はそれを視線で殺そうとでもいうように睨みつけ、青年はふたりを見比べて苦い顔をした。
「成程ね。弟の秘密が判ったようだよ」
「あら、内緒だったの。風読みと風謡いを賭けて私たちが勝負をするという約束は」
「別に隠してた訳じゃ」
ティルドはもごもごと言った。
「隠してたと言うと思うね。さっきの説明と違うじゃないか」
ユファスは呆れたように言う。
「僕がとめると思ったのか?」
「薦めやしないだろ」
「避けられるに越したことはないし、メギルの主人が冠を手放す危険を冒すとは考えられないことは変わらない」
ユファスはすっと歩を進めると、そのまま、何とも自然な動作で、左腰の剣を抜いた。
「兄貴?」
ティルドは驚いてそれを見た。
「悪いけどティルド。約束なら僕が先だ。――次は斬ると言ったね」
「ユファス、何を」
「そうね、忘れてないわ。けれど、あとにはしてもらえないかしら? 弟くんにお願いがあるのよ」
「お願いなんか知るかよっ」
「あなたの好きにさせないためだ」
「じゃあ、試してみる? 私を愛した朝には、できなかったことを」
「おかしな言い方するなっ」
叫ぶのは、ティルドである。
「人の兄貴に変な真似しやがって」
「あら」
メギルは笑った。
「どちらかって言うと、したのはお兄さんが私に」
こほん、とユファスが咳払いをした。
「その話題はやめてもらえるかな」
「嫌な思い出という訳ね。残念だわ」
もっとも、と魔女は続けた。
「その方が陥とし甲斐があるというものだけれど」
艶然と女が微笑めば、男は目眩でも覚えたように顔をしかめ、ぴたりとさせていた剣の切っ先をふらつかせた。それに気づいた少年ははっとなる。
「兄貴に、術なんか使うんじゃねえっ」
言うなり彼はすらりと剣を抜く。町なかだろうと、王子の許可がなかろうと、知ったことか!
「ではあなたにならいいの、坊や?」
メギルはやはり笑いを浮かべてさっと手を振る。
もわり、とした感触が少年を包んだ。これには覚えがある。まるで泥の風呂に入れられたような――この感覚は。
ぼっというような奇妙な音とともに、背後からくぐもった悲鳴のようなものが聞こえた。ティルドが振り返れば、あとにしてきたばかりの酒場の戸が燃えている。
「てめえ!」
「あなたに効かないことは判っているもの。ただの挨拶よ」
「消せ、すぐに!」
「どうして? いいじゃないの。火はきれいよ。これだけ空気の乾いた季節ならば、木造の建物はよく燃えるでしょうね。ここの冬至祭は終わってしまったけれど、祭りの終わりに燃やすかがり火みたいで、美しいじゃない?」
「ふざけんな! なかに、人がいる!」
「どうして?」
魔女はまた言った。
「あなたを不審そうな目で見た田舎者ばかりじゃないの。死んで悲しいような人がいて?」
「そういう問題じゃ、ねえっ」
少年が叫ぶ間にも、魔女の言ったように乾いた木は火を迎え入れるように燃え広がる。ティルドは迷った。魔女に斬りつけて消させるべきか、火事だと叫んで町びとたちを消火に当たらせるべきか。
動いたのは、兄だった。
はっとなったメギルは、ユファスが挑んでくる軌跡を読もうとするかのように彼を見て、だが驚いたように目を瞠った。青年は素速く剣をしまい、魔女にではなく、酒場に向かった。
「ティルド、手を!」
「何?」
「いいから、早く」
弟のもとまで駆け寄った兄は、有無を言わさず少年の左手を取った。そして自身のもう片方の手に捕まらせる。
いや、手ではない。
素早く取り出した、翡翠製の腕輪に。
「兄貴?」
少年の疑問に答えることなく、ユファスはそれをかざすようにすると弟の手から離した左手を前に突き出した。ティルドは、腕輪を握る指先が瞬時、熱くなるのを覚える。
「離すな」
同じものを感じたか、ユファスは短く言った。ティルドはうなずく。判らないが――重要なことだ。
ユファスは酷い頭痛でも堪えるかのように顔をしかめた。ティルドは身体の力が抜けそうになったが、やはり、堪える。
もう一度、腕輪が熱くなった。と思うと、酒場をみるみる包み込もうとしていた火は、まるで幻であったかのように、不意に消えた。
幻でなかった証は、黒くなった木材と焦げる香り、そして煙。
「……兄貴、何で」
「判らない。でも、こうすればいいと……判ったんだ」
呆然と言うユファスの言葉を聞きながら、ティルドもまた思い出していた。
神官サーヌイがカリ=スに放った火を消したこと。
それによって作られた火傷を癒したときのこと。
判らないが――こうすればいいと、判った。
「驚いたわね」
魔女の声がした。ふたりははっとなって振り返る。
「継いだの。風司を。早かったのね。いえ、そうでもないのかしら。継承者の資格を得てからもう何月も経っているのだものね」
「継いだ?」
「イルサラを?」
「そう」
魔女は笑んだ。
「あなたは〈風食みの腕輪〉の風司となったわ、ユファス・ムール」
「どうして、そんな」
「判らない訳じゃないでしょう? そんな力を放っておいて」
兄弟の背後で、燃え落ちなかった扉から誰かがおそるおそる顔を出したが、件の少年兵士が兄と見知らぬ女に向き合っていると見て取ると、慌てたようになかへ引っ込んだ。
だが彼らはそんなことに構っていられなかった。
ユファスが風司となった。メギルはそう言った。確かに、彼がいま、尋常ではない力を操ったことは事実。
「このときを待っていたの。でも少しだけ、残念ね」
メギルはわずかに首を振った。
「ユファス。あなたを――殺さなくてはならなくなるから」




