07 言葉には力がある
「何故そのようなことを言う。俺がお前を信じて何が悪い。お前は、美しいと讃えれば気に入らぬと言ったが、同じように怒るのか。俺がお前に惹かれていると言えば」
「お前は幼子だ、ヴェルフレスト」
魔女は怒らなかった。その代わり、静かに言った。
「見知らぬものに出会い、見知らぬ世界を垣間見て、それに興味を引かれただけのこと」
「カリ=スのようなことを言う」
王子は、ふんと笑った。
「あの男はお前をよく知っている。砂漠の男がそう言うのならば、私の指摘も合っているだろう」
アドレアは息を吐いた。
「もうひとつ、勘違いの理由を教えてやる、ヴェルフレスト」
「勘違いだと?」
彼は片眉を上げた。
「お前に惹かれていると思うのが、勘違いか」
「そうだ」
アドレアは簡潔に答えた。王子は苦笑する。
「では、俺は何を勘違いした。納得のいく答えを寄越さねば、許さぬぞ」
冗談混じりに彼が言うと、魔女はそれを遮るかのように片手を上げた。
いや、そうではない。片手を示した。
その左手の薬指にはまる、これまでヴェルフレストの目に触れたことのない、紅石の指輪を。
「アドレア。それは」
「そうだ」
彼女はまた言った。
「〈風見の指輪〉。エディスン王家に――お前に属するものだ、ヴェルフレスト・ラエル・エディスン」
「本当に……お前が持っていたのか。しかも、ずっとその指にはめていたと? これまで、俺の前に姿を見せたときも」
「そうだ」
アドレアは三度言った。
「遠い昔、これをエディスン王家から奪ったのは私だ。そのときから、これはずっとこの指にある」
「お前が?……確かに、かつて指輪が伝わっていたかもしれぬという話を聞いたが、それはずっと昔で、長いことエディスンには〈風読みの冠〉が」
「その『ずっと昔』なのだ、ヴェルフレスト」
アドレアは目を細めた。遠い遠い記憶を探るかのように。忘れてしまえぬ、甘く痛い思い出を探るかのように。
ヴェルフレストは、アドレアの生きた年月に思いを馳せた。まさか、と思う。
嘘だと思うのではない。真実なのだろう。ならば、彼女はどれだけの月日を送ったと? 彼は首を振った。判らない。判るはずもない。何十年、何百年という数字のことではない。それだけの生を送ると言うことが、判らない。
彼は、たったの十九年をしか、生きていないのだ。
「アロダは、よい目を持っているのだな」
ヴェルフレストがようよう言ったのは、そんな言葉だった。
「誰だと?」
「ヒサラの代わりにやってきた魔術師だ。あれは、お前が指輪を持つと言い、ずっとその指にはめているだろうと。女ならばそうするだろうとな」
「女、か」
魔女は薄く笑った。
「私は長いこと、魔女でありすぎた。『女』であった日々など、忘れてしまった」
アドレアは嘘をついた。それともそれもまた真実であったろうか。あの日々の忘れ得ぬ記憶が本当に現実であるのか、自分が好きに作り替えたものではないのか、誰に判ろう?
「このようなことを言ってもはじまらぬが、私は自ら望んでこの指輪を手にした訳ではない。ずっと、お前たちに返したいと思ってきた。だが、それは魔術の制約で為せぬこと」
ヴェルフレストは驚いた。意外な話にではない。アドレアが本当のことを正直に語っていると気づいたため。
「私はこれを私のものにするよう命じられ、いまでもその命令は私のなかに生きている」
「俺を風司にしたいと言い、その風具を持ちながら、俺に渡すことができぬと」
「信じられぬであろう?」
魔女は笑った。乾いた笑いだった。
「前言を撤回するならいまだよ、王子。アドレアの言葉など信じられぬと、そうお言い」
「俺は〈逆さま精霊〉の申し子で、そして〈意地っ張り〉だぞ、アドレア」
王子は唇を歪めた。
「俺はお前を信じる。お前がその命令とやらに逆らえぬなら、そうだな。俺にそれを渡しても、それはお前のものということだ。それでかまわぬ」
「……何と」
アドレアは目を瞠った。
「ローデンは、そんなことを教えたのかい」
「何だと?」
「言葉の網のすり抜けだ、王子」
「何だと?」
ヴェルフレストは繰り返した。
「判らないのかい。偶然に、そのようなことを?」
言いながら、アドレアは〈風見の指輪〉に手を触れた。白い指に白い手を這わせ、彼女はそれを抜き取る。
「お前が持っているといい」
アドレアは紅石の光る細い指輪を差し出した。
「お前が持っていても私のものだと、お前は口に出して認めた。私はこの網をすり抜けて、お前にこれを渡すことができる」
「まるで、言葉遊びのようだが」
王子は唸った。
「言葉には力があるのだ。手を出せ、ヴェルフレスト」
何だか納得がいかない気持ちを覚えながら、ヴェルフレストは言葉に従った。
長い、それはとても長い間、彼女の薬指を飾っていた深紅の装飾品は、継ぐべき血筋たる王子の手に戻った。
その瞬間。
「――何だ、これは!」
ヴェルフレストは本能的に目を閉じた。現実ではない風が王子を襲った。室内にこのような突風が吹くはずなどないと彼が思い至る前に、それは、消えた。
「いまのは」
彼は少し呼吸を荒くしながら呟いた。
「何だ。ああ、ではこれが、ムールやリエスが言っていた……風か」
「お前は、指輪の継承者として認められた」
それをじっと見守っていた魔女は言った。
「これでよかったのかは、判らぬ。お前は力を手にすることになるが、リグリスはお前を追う。いや、以前から追っていたが、これではっきりとお前の命を狙うことにもなる」
「お前の命が狙われるよりは、よい」
彼は即答した。
「愚かなことを言うでない」
「何だと? 不思議な道具ではあるが、こんなもののために」
ヴェルフレストは指輪を投げ上げ、中空で受け止めた。
「俺が『勘違い』をしたのだと、まだ言うのか?」
「それだけはっきりと結びつきを感じておきながら違うとは言わせぬが」
アドレアは少し笑んだ。その笑みはまた、幼子を見るようだった。
「私が言うのはそうではない。私には魔力がある。だがお前にはない」
「どうであろうとかまわぬ。俺の命が狙われようと狙われまいと、エディスンに伝わるこれを奴らが追うなら、俺は戦う」
王子の言葉に、魔女は彼の父親が告げた同じ言葉を思い出していた。
「ならば、何だか判らぬが、力とやらはある方がよい」
ヴェルフレストはアドレアの心に蘇ったものなどは無論知ることなく、にやりとして続ける。
「それに、お前のものなのだからな。奪わせる訳にはいかん」
アドレアはそれには何も答えなかった。
「――時間を取った」
「行くのか」
はっとなってヴェルフレストが問えば、アドレアはうなずいた。
「戻って、くるのだぞ」
彼は言った。
「俺のためでなくてもよい。仕方がない。だが、よいか」
王子は薔薇の飾りがついた指輪を二本の指でつまみ上げた。
「これを俺が返せるように、必ず、戻ってこい」
アドレアはじっと彼を見た。数秒の沈黙が続き、それから彼女は小さくうなずくと、エディスンの王子に背を向けた。




