06 何も知らぬ
「守るためぞ、王子」
魔女は視線を落とした。
「お前にはエディスンへ戻ってもらいたいが、私はお前に術を施さぬ。だがこうなっては、砂漠の男の守りのもと、お前の街へ急がせるというのも難しい」
「『こうなっては』」
彼はまたアドレアの言葉を繰り返す。
「どうなったと?」
問われたアドレアはヴェルフレストを見た。そこに浮かぶのは、迷いか。
「ここは閉ざされた町なのだ、王子。私はかつてここを示され、長きを過ごし、そしてここを出た。それもまた昔のこと。そして、再訪した私をここは受け入れた。それはつまり――私が逃げているから」
「……さっぱり判らぬな」
ヴェルフレストは正直に言った。アドレアは首を振る。
「判らずとも、よい」
魔女の返答に王子は肩をすくめた。「魔術的」なことだというあたりか。
「お前が判らねばならぬのは、私はお前をエディスンへ連れてはいかぬということ。そして、ここから出てはならぬということ」
「では、お前がエディスンではない何処かへ連れていってくれるまで、俺はここに軟禁か」
「魔術は使わぬと言った。お前は、お前の足でここを出ねばならぬ」
「待て」
王子は片手を挙げた。
「戻ってこぬつもりなのか」
「お前を捨て置くつもりはない、可愛い王子」
アドレアは呟くように言う。
「お前をここから出すためには、戻ってこよう。だが、真の意味では私はここに戻らぬ。もう逃げる必要はなくなる故」
「それは」
王子は目を細めた。
「逃げ切るからか。それとも、捕まるからか」
「何を」
アドレアの赤い目が驚きに見開かれた。
「何を……言う。お前は、何も知らぬのに」
「だが、そういうことだろう。具体的な話か抽象的な言い方なのかは判らぬが、お前は逃げていた。それをしなくなると言うことは、お前を追う何かを討ち滅ぼすか、それとも何かに捕らわれ、逃げることを諦めるか、そういうことだろう」
ヴェルフレストは思いついたままを口にして、アドレアから沈黙を受けた。
「アディ」
王子は呼んだ。
「俺を捨て置けぬと言うのが俺のためなのかこの場所のためなのかは判らぬが、まあ、それはさておこう」
彼はそんな言い方をした。
「何のためでもよい。アドレア。戻ってこい」
「そのつもりであると、言ったろう」
「『つもり』では駄目だ。お前が何を思うのか知らぬ。だが、捕まれば戻ってこられぬであろう」
ヴェルフレストは指摘した。アドレアは黙る。
「戻ってこい。俺の前へ」
エディスンの王子は真剣な瞳でそう言った。それから、不意ににやりとした。
「ちゃんと逃げ切って、そうすれば、また俺に会えて嬉しいだろう」
「それは」
魔女は微かに笑んだ。
「自惚れが過ぎるようだよ、王子」
それはここで目覚めて以来、最初に目にするアドレアの笑みだった。そしてそれはこれまでに幾度となく見た冷たいものではない、どこか温度を感じる笑み。
「戻ってくるのだな」
「そうしよう」
「よし」
ヴェルフレストは、ぱん、と手を叩いた。
「不本意だが、待とう。では、アディ」
彼はまた真剣な表情になった。
「エディスンへ行き、父上を……救ってくれるか」
「何を馬鹿な」
アドレアは苦い顔をした。
「魔女にそのようなことを頼むのか? 第一、ローデンが私を王に近寄らせるものか」
「お前に力があるのなら、ローデンは助力を拒まない。俺はそう思う」
「いいや、ヴェルフレスト。お前は魔力を持つ者同士の間にあるものを知らぬ。ローデンは決して、私の手など借りぬよ。たとえ、それで彼の王が死すことになっても」
「それこそ馬鹿なことだ」
王子は言った。
「お前は魔術師ローデンを知るやもしれぬが、エイファム・ローデンという男を知らないな。俺とてよく知っているとは言い難いが、だがそれでも、あやつは父上を死なせるくらいなら業火の神官とだって手を組む」
彼が言うと、彼女は眉をひそめた。
「それはよくないたとえだよ、王子」
「そうだな、よくないたとえだった」
ヴェルフレストは素直に認めた。
「だが、それすら厭わぬかもしれぬほど、あやつは父上を救うためならば何でもするはずだ」
「……心に留めておこう」
アドレアは苦い顔のままで言った。
「だが、お前は知らぬのだよ、ヴェルフレスト」
「そうだろう」
「何をだ」と返すことを彼はしなかった。
「俺は、知らぬ。そうだ、俺はお前のことを何も知らぬ。お前はいつでも、思わせぶりなことばかりを言って俺をあとに残す。俺はそれが」
ヴェルフレストは手にしていた陶杯を投げ捨てた。ごとん、と木の床に鈍い音が響く。アドレアがそれに目を奪われた一瞬、ヴェルフレストは立ち上がってアドレアを抱き寄せた。
「気に入らぬ。俺はお前を知りたい。俺の方こそ、お前を守りたい」
「馬鹿な……ことを」
不意をつかれた女は、驚きと、ヴェルフレストには判らぬ何かのために弱々しい声を出した。
「アドレア」
「放せ」
「放さぬ」
彼は魔女と言われる女を腕に抱いたままで言った。
「お前は俺に術など使っていないと言ったな。ならば、俺がこうしてお前を抱き締めたくなるのは、お前の魅了の術ではない」
「使えば――よかった」
「何?」
思いがけぬ言葉に王子が腕を緩めると、その隙を逃さず、アドレアは彼の抱擁から逃れた。
「使えば、よかったのだ。疑わしい態度を取るだけではなく、お前が私を疑うよう、そういった術を使えばよかったのだ」




