09 吟遊詩人の人脈
ピラータの町がようやく近づいてきたのは、その日の夕暮れだった。
「やれやれ」
リーンは凝りをほぐすように、自身の肩に手を当てながら言った。
「どうにか今夜は、寝台というものの上で眠れそうだね」
「お前は旅の暮らしに慣れているだろうが」
ガルシランが面白そうに言えば、吟遊詩人は顔をしかめる。
「そりゃ慣れてるけど、安宿の古びた寝台だって地面より眠りやすい。いくら野宿に慣れたってその事実は変わらないよ」
「確かにね」
一行のなかではいちばん旅に慣れていないユファスは、笑って言った。
「僕も早くぐっすり眠りたいもんだけど、まずはティルドを探さなくちゃな」
「魔術師がついてるんだろ? 君が着けば、すぐに〈涙石〉くんのところまで連れていってくれるさ」
「残念なことに、彼は僕らの専属魔術師じゃないんだ。僕が向かっているという話はティルドに伝えてくれただろうけど、もう町にはいないかもしれない」
アロダは結局、リーンとガルシランの前に顔を見せることはないままでティルドの方へ行った。出立の挨拶などはなかったが、顔を見せないから「行ったのだろう」と思うだけだ。
ティルドもユファスの身の安全、言い換えればその生存について案じていなかったが、兄の方でも不思議とそれを心配していなかった。
〈風食みの腕輪〉がティルドを守るというリーンの言葉は、彼を不思議なほど安心させていた。
リーンは、自分は魔術師ではないと言い、彼を見たアロダもそう言ったが、とにかく不思議な雰囲気を持つ男である。会ったときはただの詩人にしか見えなかったのに、言葉を交わしていくととてもそうは思えなくなる。ガルシランが彼に神秘性を見るのも道理だと思っていた。
本人はあくまでもそれを否定するが。
そうして、あとひと頑張り、とばかりに彼らが歩を進めているときだった。向こうから、なかなかの速度で馬がやってくるのが見えたのは。
野生の馬とか、どこかから逃げ出したとか言うのでない限り、街道を行く馬にはたいてい誰かが乗っているもので、やはりそれにもひとりの男が乗っていた。
どうやら急いでいるようだ、と彼らは街道の脇により、それを通そうとした。そうしなくてはならないほど狭い街道ではないが、疾駆してくる馬がいれば距離を取りたいと思うのは自然な反応だ。
相手は旅人がいるのを見ると速度を緩めはじめる。慎重に通り過ぎるつもりかと思いきや──旅人は、彼らの前で馬をとめた。
「お前……クラーナか?」
「ちょっと! 何で君がこんなとこにいるのさ!?」
目を可能な限りに見開いて叫んだのは、クラーナと呼ばれたリーンである。
「そりゃこっちの台詞だ。まあ、お前ならどこにいても不思議じゃないがね」
若い男はじろじろとリーンを見た。リーンはそれを睨み返すようにしている。ユファスとガルシランは首を傾げてそのやりとりを見守った。相手の男は二十歳を少し過ぎたくらいの若者で、内陸では珍しい浅黒い肌が目を引く。
「悪いが、俺はいま忙しい。話をしてる暇はないんだ。またランティムにこいよ。ああ、それから、エイルが探してたぞ」
「エイル?」
聞き返したのはリーンと同時に、ユファスでもあった。
「そうだ、ちょうどいい。お前に渡しとく」
男はそう言うと腰に手をやり、何かを素早く外すとぱっと上向きに投げた。リーンは慌てたように受け取って、胡乱そうにその短剣を見た。
「どうして僕が君からこんなものを受け取らないといけない訳かな?」
「言ったろ。エイルが探してる。それは目印だそうだ。顔を見せたら、俺はレギスに向かったと言ってくれればいい」
「レギスだって?」
「そう。ところで、俺の前に馬に乗って逃げる男を見なかったか」
「いったい何の話」
「見たよ」
顔をしかめて言うリーンの代わりにユファスが答える。
「数カイほど前かな。ずいぶん急いでいるようだったけど」
「ああ」
思い出したようにリーンが言った。
「そう言えば、いた。でも君なら追いつくんじゃないの」
「有難い」
浅黒い肌と黒い髪、黒い瞳を持つ若者はそう言うと、それじゃあな、と言って適当な印を投げ──おそらく、旅の神のものが崩れたのだろう──馬を走らせ出した。
「ちょっと! 何か説明してくれないかっ」
リーンはその後ろ姿に叫んだが、聞こえていないか、それとも聞こえても無視をしたか、男はそのまま遠ざかっていった。
「誰だ?」
ガルシランが当然の疑問を発した。
「また〈吟遊詩人の人脈〉を見せてもらったのかね?」
彼は、〈吟遊詩人の人脈は下手な王様よりも上〉という言い回しを使って言った。
「うーん、何というか、ちょっとした知り合いだよ」
「エイルって、あのエイルかい?」
「だと思うよ。彼と共通の知り合いであるエイルと言ったら、君と共通の知り合いであるエイルしか思い浮かばないね」
リーンは首を振った。
「彼らの奇妙な運命は終わったと思ってたのにさ、また一緒に何かやらかしてるんだな。危ないことがなけりゃいいけど」
詩人の口調は本当に心配そうで、彼がよく見せるどこか茶化したり、皮肉めいたり、芝居がかったりする様子はなかった。
「さて、何をやってるにせよ、彼らの運命と僕のものはもう交わらない。こうして偶然行き合ったり、会いに行って話をすることはあってもね」
リーンは男が去った方向を見ながら、呟くように言った。
「それにしても、おかしいな。彼とこんなふうに出会うなんて。……少し、考えないといけない」
「何をだ」
ガルシランが唇を歪めた。リーンは首を振る。
「何でもない。個人的な問題だよ」
詩人は言い、残りのふたりは顔を見合わせた。こんなふうな思わせぶりな言い方をしながら、ただの吟遊詩人だと言い張るのはそれこそ「おかしい」と思ったが、どちらもそれについては口をつぐんだ。
「さあ、もうそれはいい。早くピラータへ向かおう。美味い飯屋があるといいね」
気を取り直すように、リーンは明るく言った。
「ユファスの調理は最高だけど、ガルの捕まえてくる獲物は同じだし」
「文句があるなら何か捕まえてこい」
戦士は詩人を睨むようにしたが、本気で腹を立てている訳ではないようだった。
「このあたりでは羊を飼うんだよ。香辛料を利かせた串焼きなんかが美味い」
リーンが方々を旅をしているというのは本当のようで、彼はビナレス地方中の様々な地域や町に詳しかった。
「羊の串焼きか。そりゃいいな」
ガルシランはにやりとした。彼は、戦士によくいるようにけっこうな酒飲みであったから――と言っても、旅路の間は酒に溺れるようなことはしないが――つまみによさそうだとでも思ったのだろう。
目測通り、夜が更けぬうちに彼らは町の門をくぐった。
小さな町であれば深夜は門を閉ざすことも多いから、それに間に合ったのは運がいい。
そんなふうに思いながらユファスは町を歩いた。
ガルシランとリーンは〈水の女神〉亭に宿を定め、そこの食事処で休憩を取ることにしたが、ユファスはいったん彼らから離れた。
アロダは彼らの前に姿を見せたくないのかもしれないから、それならばひとりでいた方がよいと思ったのだ。それに、アロダがユファスを「見張って」いないままヴェルフレストについているのならば、彼自身でティルドを探すためにやはり町をさまよわなくてはならない。
旅人が多そうな町ではないし、宿屋もそう多くない。半刻も歩かずに弟を見つけられるのではないかと思っていたユファスは、特に慌てなかった。
「――それが、おかしな話なのさ!」
町の中心あたりに近づくと、ふとそんな声が聞こえてきた。
見れば屋台で酒を振る舞っているらしく、ひとりの男が何か話している。大都市であればともかく、小さな町でこのような屋台が出ているとは珍しいな、とユファスは思って、はたと気づいた。
そう言えば、〈冬至祭〉が真っ盛りだったのだ。
彼は結局この年も、いちばん祭りが盛り上がる〈月の女神が眠る一日〉を逃してしまった。
「うちの店だってのに、入り口が見つけられない。わしゃ、二刻は店の周りをうろうろとうろついていたよ」
ユファスはくすりと笑った。男は確かに酔っ払っているようだが、それにしても二刻も同じ場所をさまよっているというのは、ずいぶんと飲んだに違いない。
「嘘ですよ」
背後から声がした。ユファスの心臓が音を立てる。
「せいぜい、多めに見積もったって半刻です。数カイがいいとこだと思いますけど」
「アロダ術師」
ユファスは振り返った。
「驚かさないでください」
「すみませんね。言っておきますが、面白がってやってる訳じゃありませんよ」
魔術師は肩をすくめたが、それはどうだろう、とユファスは思った。
「ティルドは」
「ご案内しましょう」
そう言ってアロダが指差した先は、ユファスが入ってきたのとは違う方角の町門である。彼は首を傾げた。
「いえね、ユファス殿がこられる方向で待ってもらってもよかったんですが、こちらの方が人通りが少ないので」
「何かあったのか」
ユファスは警戒して問う。
「あったと言えば、ありました。まあ、なかったとも言えますが」
魔術師の返答は曖昧ではあったがどうにも呑気なものであり、彼はすぐに力を抜いた。
「ティルドは無事なんだな」
「無事です。かすり傷ひとつ、ありゃしません。いや、それは嘘でした。ちょっと背中を打ち付けたりはしたみたいですけど、若いんだから幾晩か寝れば治ります」
「何があったのか説明してもらえるのか、もらえないのかな」
ティルドならば苛々として言いそうな台詞だが、その兄はのんびりと言った。
「私も伝聞ですから。弟さんから直接どうぞ」
要領は得ないかもしれませんけれど、と魔術師は言った。




