04 彼の神のために
サーヌイ・モンドは怖れながらその戸を叩いた。
なかから返ってきた声に荒々しさはなかったが、それは何の安心材料にもならない。彼の師にして恩人、仕える神の司祭である男は、滅多なことでは怒鳴り声をあげたりすることはないからだ。
そしてそれは、不興を示さないと言うことではない。
「リグリス様」
サーヌイは最上級の敬意を表す仕草をして、礼をした。
「お呼びと伺いましたが」
「ラタンを焼いた火について話せ」
言われた青年は顔を白くした。
「も、申し訳」
「よせ。お前の火を責めてはいない。お前の作り出す炎は、聖なるものだ。メギルのような魔術とも、神官たちが道具を利用して作り出す火とも異なる。あれらの火は所詮、アイ・アラスの支配下だ。だが」
リグリスは目を細くした。
「お前と私は、違う」
それは幾度も言われてきたことだったが、サーヌイには理解し難かった。彼と司祭にだけ、違う力があるという。オブローンにひれ伏し、業火の力を崇めることではアンカルやラタンたちも同じであろうに。
「お前が聖なる火を使ったことを責めはしない。ラタンは少しの火傷で済んだのだったな」
「は、はい」
「惜しいことだ。そうは思わんか」
「は?」
「お前の火で燃え死ねば、オブローンの御許に逝けたであろうに」
サーヌイは目をしばたたいた。ラタンが死ねばよかった――とは言わなくとも、死んでもよかった、というのは、リグリスの冗談なのだろうか? あまり性質のいい冗談とは言えないが、まさか、本気であるはずもない。
それともこれは何かの皮肉だろうか、とは、純真な青年は考えなかった。
「お前が王子の護衛を燃やそうとしたとき、例の子供が立ちはだかったのだな」
「はい」
その話を求められていることに気づいて、サーヌイは安堵した。リグリスを喜ばせる話でないことは承知だが、少なくともラタンに怪我をさせた罪を問われているのではない。
青年神官は、ティルド少年が黒い肌の男の腕から彼の「聖なる」火を奪い去ったことを話した。その火をラタンに移したのが故意であるのかどうか判らない、という正直な意見も述べた。
「故意ではないな。力の先にラタンがいたのは偶然だろう。だが、そうであっても操れている。〈風食み〉の力。それも」
司祭は口の端を上げた。
「忌々しいほど、完璧に」
「……は?」
「例の夢はどうした。五色の花が燃えていたというあれだ。また見たか」
「は、はい」
寄越されなかった説明を欲して換えられた話題を戻すなどということは、サーヌイにはできはしない。リグリスの言葉が全てだと思っていることもあるが、リグリスが相手でなくても、この青年にそれは難しかった。
「燃えていた、花は」
彼は言いにくそうにした。これもまた、司祭の興を買う話ではあるまい。だが嘘をついたりごまかしたりすることもできない。
「その炎を消し、ほかの花と同じように揺らめく光のようなものをまとっていました」
「消えた」
リグリスは呟くように言った。サーヌイは首をすくめそうになるのを堪える。業火の司祭にとって火が消えたなど、凶兆であろう。
だが、どんなことでも全てちゃんと報告するべきである、と彼に言ったのは美しい魔女であった。青年はそれに従った。
「以前は、白詰草と見知らぬ花が燃えていたと言ったな。どちらも消えたのか」
「はい、白詰草、翡翠草、蓮華は安定した光をまとい、薔薇と見知らぬ花の光はちらつく感じがありますが、少なくとも火は消えています」
それから、と青年は言った。
「花は見知らぬものを除いて全て蕾を得、咲き誇ろうとしているかのようです」
「継承者を得た」
やはりリグリスは低い声で言った。
「風の道具がそれと認めた存在が、道具とともにある。風読みは無論、別。風見については判っている。あとは風謡いか」
リグリスは苛つくように卓を叩いた。
「早急な対応が要るな。風謡いだけが在処を見せぬ。スーランが掴んできた話も曖昧だ。あとは偽物屋か」
「にせ……?」
「クエティス、ツーリー。あの貪欲なレギスの商人どもだ。フラスでは多少ばかり役に立ったが、東国だの大砂漠だの、毒にも薬にもならぬと思っていたが」
リグリスは首を振った。
「砂漠にあるのやもしれぬと思わせ、今度は消えたときた。スーランの話を追わせるしかないな」
「スーラン。彼が、どんな話を」
たまに顔を見せるおかしな男のことは知っていたが、何者なのかはよく知らなかった。業火の神官ではないし、リグリスが彼をあまり好いていない――有り体に言えば、嫌っている――ことも気づいていたが、風の道具について何か情報を運んでくることがあるならば放ってもおけないのだろう。
「その件は追い追いに話す。お前に託すやもしれぬ」
「こ、光栄です」
サーヌイは顔を輝かせた。風聞きを少年少女から取り戻せず、ラタンに怪我を負わせるだけの結果となった失態を挽回する機会を与えられるかもしれない。
全ては師のため、そして彼の神のために。
「では、下がってよい。ああ、ひとつだけ」
退出の礼をした青年神官はその動きを中途半端に止めた。
「メギルのことだが」
「彼女が、何か」
少しどきりとしてサーヌイは問うた。彼女に敬愛を抱いていることを咎められるのだろうか。
青年は、美しい魔女が司祭の女だ、というラタンの言葉をいまひとつ理解していなかったが、彼女の前でサーヌイが顔を赤くしてしまうことがリグリスの気に入らないことは知っている。
「目を離すな」
「は?」
「近づくな」であるとか、それに近いことを言われるのではないかと思っていたサーヌイは、逆の言葉に目を白黒させた。
「あれは所詮、業火に仕える者ではなく、しかも愚かな女だ。状況を見誤らぬとも限らぬ」
リグリスは冷淡に言った。彼は、メギルが自分に従うことは判っていたが、油断はしなかった。
火の魔女が彼に惹かれる理由ははっきりしているのだ。だが魔女の方では気づいていない。こともあろうに、男と女の愛だと勘違いをしている。
だがけっこうなことだと考えていた。肉体的欲望は処理できるし、愛などのために何でもする愚かな女ほど使いやすいものはない。
目端の利くものは必要だが、賢いものは不要だ。
しかし愚かしさはときに、思いもよらない事態を引き起こす。それには警戒せねばならなかった。
実際、白詰草の代わりに蓮華と名付けた娘は、本人のものではない記憶と風読みの継承者の気配に惹かれて彼らのもとにいる。娘と道具の在処が判っている以上は大きな問題ではないが、いちばん火術の扱いに長けたラタンですら手を焼く砂漠の男が護衛についているというのは、面倒である。
ただ、面倒以上のものでは、ない。
「女などは愚かなものだ。忘れるな、サーヌイ。お前には聖なる役割がある」
「忘れなどいたしません」
サーヌイは慌てて答えた。
「オブローンの加護を」
青年神官は邪なる印を切った。
「よかろう」
同じ印を返すと司祭は、下がってよいと手を振った。




