10 これは、毒蛇だ
「こい。目的は果たした。帰るぞ」
「ちょっと、引っ張んないでよ」
若い神官は乱暴に娘の腕を引く。数少ないほかの客や店の人間たちは、何が起きたのか、いや、何か起きていることも何も知らぬかのように、普段通りに食事や談笑を続けている。それが「〈場〉を縛った」ということであるとはティルドには判らなかったが、何か尋常ならざる力が働いていることは嫌になりすぎるくらい理解できた。
男に連れられるリエスをこのまま見送ってしまってよいものか、とティルドが唇をかみしめると、少女が振り返った。
(ティルド)
声に出さずに少女が何か言おうとしている。
(……の……に)
(判んねえよ!)
唇を読む術など持っていないのだ、「はい」「いいえ」くらいの簡単な言葉ならともかく、口の動きだけで何を言っているかなど判るものか。
少年が苛々と首を振ると、少女もまた苛ついた顔をした。
リエスが業を煮やして声を出そうとした、とき。
風が、吹く。
それは魔術的な風ではなく、風神のもたらす自然なものであった。
というのも、店の扉が大きく開かれて、冬の風が入ってきたからである。
ティルド・ムールはそう理解した次の瞬間、目にしたものがよく判らなかった。
だが、それは彼らの誰もが同じである。
彼らの誰もが、一瞬その場に固まり――だが、それはあくまでもほんの一瞬だけであった。
「――ラタン!」
神官に向けてエディスンの第三王子が叫べば、脇にいた砂漠の男は町なかだろうが店内だろうが躊躇うことなくその曲刀を抜く。
カトライが彼に与えた中隊長の仮任は、それを可能にしていた。少なくともエディスンの領内では、ということになるのだが、いまのカリ=スがそれを気にすることはなかったであろう。
神官ラタンはそれを目にすると少女をまるで盾のように押し出した。少女は均衡を崩して倒れ込み、カリ=スは神官の間合いに入りそこなった。
「……ヴェルフレストぉ!?」
「ムールか!」
全く思いも寄らなかった相手の姿に彼らは呆然としたが、どちらも気を取り直すのは早かった。
「カリ=ス、娘を!」
言われた砂漠の男は曲刀を引くと神官を警戒しながら、倒れた娘を引っ張り上げた。
「ヴェル、リエスを! その娘を頼む。こいつから離してくれ!」
エディスン第三王子は、一兵士の王子に対する命令のような口利きに文句を言うことも、特に面白がる様子も見せぬまま、うなずくとカリ=スに合図を送った。カリ=スは乱暴になりすぎぬ程度にリエスをヴェルフレストの方に押し出し、剣をかまえ直す。
ヴェルフレストは呆然とするリエスの手を引きながら、ティルドの躊躇の理由に気づくとにやりとした。
「ティルド・ムール軍兵、我が名において抜剣を許可する、大いにやれ」
「――この野郎」
だがまさしく、彼の躊躇いはそこにあった。ヴェルフレストの許可であるというのは何とも気に入らないが、こうなればこの抜剣に問題があったとされても、罰せられるのは許可を出した王子の方になる。別に責任を逃れたかった訳ではないが、捕縛されるという問題がなくなるに越したことはない。
ティルドは、剣を抜いた。
「リエスと言ういのだな、こい」
ヴェルフレストが呼べば、しかし少女は躊躇った。
「ティルド」
「行けっ、そいつと!」
リエスはそれでも迷うようにしたが、ヴェルフレストが何か一言二言囁くと、うなずいて王子の手を取った。ティルドは思わずむっとしたものの、いまはそのような場合ではないことは判っていた。だいたい、ヴェルフレストにリエスを託したのは彼なのだ。
酒場のなかなど、剣を振るうには向かない。
まして、ほかにも人間がいる。
先程まで彼らがどんな奇妙な話をし、奇妙な行動をとっていても気づかぬふうだった店の客たちは、気づけばふたりの男が剣を持って暴れているとなり、店内は大混乱に陥った。
ヴェルフレストとカリ=スが入ってきたことで神官の術が崩れたのだ。
ほとんどの客が逃げ出し、店の人間もおろおろと顔色を失ってうろつき回れば、剣を思い切り振り回すには邪魔──ティルドにとって──または危険──カリ=スにとって──であること、この上ない。
ラタンの方ではそのような気は使わぬどころか、おそらくは他者を盾にするもかまわなかったから、エディスンの兵士ふたりは簡単に神官に刃を浴びせることはできなかった。
「逃げ回んじゃねえ、このクソ神官がっ」
ティルドが叫んだときはようやく客たちが全員逃げだし、店の主人は頼むからやめてくれ、町憲兵を呼ぶぞと情けない声で悲鳴を上げていた。
「少年、左へ」
肌の黒い男の落ち着いた、そしてはっきりした指示にティルドは無駄口を叩くのをやめてさっとラタンの左方へ歩を進めた。
カリ=スはティルドを知らぬが、ティルドの方では〈東の男〉を知っていた。腕がいいと小隊長のレーンが褒めていたこともある。評判を知らなくても彼の剣技を見ればそれは明らかであったから、ティルドは指示に従うことに抵抗を覚えなかった。
「二対一とは卑怯じゃありませんか、カリ=ス殿」
壁際に追い詰められたラタンは、しかし慌てることなく、薄笑いさえ浮かべて言った。
「せこい魔法使うくせに勝手言ってんじゃねえよ!」
「『せこい魔法』」
ラタンは繰り返し、剣を突きつけるティルドを見た。
「そうかもしれない。先ほどから不思議と術のかかりが弱くてな」
神官の目が細められた。
「何を――持っている?」
赤い石の飾りもののことはティルドの脳裏にすぐ浮かんだが、いちいち説明をしてやる必要があろうか。
「はっ、運でも悪かったんだろうよ」
「魔除けか」
だが少年の答えを聞きもしなかったようにラタンは正解にたどり着く。
「意外なことだな、ティルド・ムール。翡翠の腕輪のために娘を失ったお前が翡翠に頼るか」
「何……」
ティルドは言葉の意味を掴みかねた。確かにそれが赤くても翡翠であることを彼は知らない。だが、翡翠の腕輪のためにアーリを失ったとは?
そこには、何かしらのほのめかしがあった。メギルが腕輪を狙っていたからというだけの意味には、感じられなかった。
「聞くな、少年」
カリ=スは曲刀を振るった。
「これは、毒蛇だ。言葉の毒を吐く」
「何とでも!」
ラタンは短く言うと素早く印を結んだ。その形に見覚えがあったカリ=スは、力の方向を変えて神官に刃を振り下ろすことを避けた。
「記憶力のよろしいことだ」
神官は笑った。
「何、やってんだよ!」
てっきりカリ=スがラタンに切りつけたものと思ったティルドは思わず声を上げる。
「あんたがやらないなら俺が」
「気をつけろ、目に見えぬ盾がある」
「はっ?」
「こういうことだ」
言うと砂漠の男はティルドに見せるように神官に刃を流した。ラタンがそれに合わせるように手を振れば、まさしく盾に当たったかのようにカリ=スの剣は弾かれる。だがそれを予測していたカリ=スは以前のように後方に倒れこむことはなかった。
それを目にしたティルドは、顔をしかめる。
「手妻ってやつだな」
「私を殺すのが無理だと判ったら、その物騒なものを引っ込めてもらいたいところですが」
「無理だと?」
カリ=スはわずかに唇を上げた。
「無理なことなど、ない」
言うと王子の護衛は再び神官に切りつけた。
「はっ、思っていた以上に単純のようだ、カリ=ス殿は。出来の悪い盾のように、打ち続ければ壊れると思っているので?」
「さて、どうか」
カリ=スはちらりとティルドを見た。少年もはっとなって剣を構えなおす。
「そうだよな」
彼はにやりとした。
「無理なことなんて、ない」




