03 冠さえ、制せば
ドレンタル・リグリスはエディスンという街に大した思い入れを持っていなかった。
繁栄した大都市ではあるが、北方陸線にあるほかの街とどこがどう違うということもなく、面白味に欠ける。
自然神である風神がまるで主神のように崇めながら火神を相手にしないのは少々気に入らないが、理屈は判っている。
風は火を煽る。
火神は風神と相性がよいからこそ、共存はせぬのだ。
風の強いエディスンで火事が起これば、そうでない町よりも被害は甚大となる。
過日にリグリスが、メギルとサーヌイに起こさせた火は彼らの能力で作られたものだから、点けるも消すも彼らの思うままだった。その気になれば彼らに街ごと焼き払わせることもできるが――それには、まだ早い。
そうするのは、風読みの力を発動させてからだ。
〈風読みの冠〉は静かだった。
リグリスは毎日のようにそれを手にしていたけれど、その道具が目を覚ます気配は未だになかった。a
それは彼が継承者ではないという証にもなる。
少なくとも、まだ。
カトライが冠を継いでいれば、話はもう少し簡単だった。
彼はさっさとエディスンの王を殺し、念のためにその子供たちも殺して、風読みが新たなる継承者との結びつきを強める前にその流れを無理矢理に自分に向けさせることも可能だったろう。
エイファム・ローデンが張り付いている以上はカトライを「簡単に」殺すことはできないかもしれないが、不意をつけばどうとでもなる。ああした護衛気取りは自分の安全に無頓着であるから、先にローデンを葬ってもよい。
だが、カトライ・エディスンが風読みの継承者ではない以上、それを強行することは無意味だ。
奴らは風見の継承者。指輪は失われたままでも。
いずれは、と業火の神を崇める男は考える。
いずれは風見も風聞きも風食みも、継承する者はみな殺す。だがいまはそれを特定し、確定させ、じっと見張り、鎖をつけておけば充分だ。
「スーラン」
広間に向かって、そう大きい訳でもない声を出せば、若い神官の間で少々目立つ年嵩の男が、司祭の声に従おうと寄ってくる。男は神官服を身につけてはいないが、リグリスに捧げる恭順の礼は彼の配下、少なくとも命令を聞くことに異存はないという意志を持つことを示していた。
「トバイはどうだ」
司祭は、遥か昔に存在した男の名を口にした。
「本当に風見を任せておいて大丈夫なのだろうな」
「お疑いですか」
スーランと呼ばれた男は薄い笑いのようなものを浮かべて言った。
「疑うと言うのではない」
リグリスは苛立たしげに手を振った。スーランの、どこか人を小馬鹿にしたような顔は気に入らなかった。と言ってもそれはリグリスに対して含むところがあるというのではなく、この男は業火の司祭にひざまずくときも、トバイの話をするときも、同じような顔を見せた。
彼に──いや、オブローンに仕える神官は、リグリス自身のように、何らかの形で業火に救いを受けた者たちだ。憎い相手をオブローンが燃やしてくれた経験を持つ者たち。
リグリスのように思いのままとはいかないものの、憎しみや恨み、怒りは獄界を呼び、その力を彼らに与えるのである。
だが、スーランは違う。これは、彼らとは相容れぬ、異質な力を持つものだ。信仰ももちろん違う。獄界神に限らず、神など崇めないのかもしれない。
畏怖や敬意、狂信に慣れたリグリスにとって、それは神経を逆撫でる考え方と笑顔なのだ。穏やかに笑えば人好きのしそうな顔をしているのに、スーランはそうする気はないようだった。
「だいたい、私に風神の力を手にする方法を教えてきたのはトバイだ。遡れば、オブローンの御業に祈りを捧げることを教えてきたのもな」
リグリス――あの頃はドレンタルの名しか持たなかった青年に崇めるべき神と仕える方法を教えた男、それがトバイ・リグリスであった。彼に業火の司祭の地位とリグリスの姓を与えた。
それからリグリスはそれまで数人の配下を使ってやっていた仕事の方針を少し変え、火に歪んだ畏敬を持つ者を探し、司祭を名乗って啓蒙し、育てた。
エディスンに火の神の教会を作りに行ったことはその初期のことだが、本気だというのでもなかった。エディスンの神殿がアイ・アラスにどの程度の敬意を抱いているのか知りたかったのである。
そのときに思わぬ再会をした。
トバイ・リグリス、いや、彼に名を与えてからはトバイ・グルスと名乗っていたかの存在が、ドレンタルに依頼をしてきたのである。その報酬が、風司と〈風神祭〉の話であった。
師であり恩人と言えるかもしれない相手だが、そう言って感謝をし、尊敬をする気になったことはない。彼は、トバイが何かの目的を持ってそうしたことを知っているからだ。
向こうがこちらを利用したいのならこちらもまた同じこと。
彼はトバイの奇妙な力を不気味に思ってはいた。たとえばローデンが聞きでもすれば、〈蟻も蝗も虫は虫〉と皮肉めいた笑みでも見せるかもしれないが、当人にしてみれば明らかなる違いというところかもしれない。
「スーラン」
リグリスはまた呼んだ。
「トバイは、エディスンをどうするつもりでいるのだ」
「あの街に対して思うところはあなたと同じでしょう」
男は肩をすくめてそう答えた。
「ろくに力のない王家だというのに、地の利だけで風司を継いだ。かつての王子は魔女の〈魅了〉に騙された。トラントの編む物語には向かないですな。叙事詩にはとてもならず、喜劇にしたところで、半端」
「面白味に欠ける」
リグリスは先に思ったことを口にした。スーランは微かに笑う。
「力を持ちながら、それを持っていることすら知らぬまま、もちろん行使することなく、〈風司〉でござい、と胸を張っているエディスン王家が『気に入らない』。そんなところじゃないでしょうかね」
スーランの言葉にリグリスもまた小さく嘲笑った。
「ですが、エディスンを燃やしたかったり、或いはその手にしたかったりされるのなら、あなたのご自由に。トバイは指輪さえ手に入ればよいようで」
「そういう話だが」
リグリスは計るようにスーランを見た。スーランはトバイとリグリスの間の連絡役のようなことをしていたが、どちらかと言うのならばトバイの側にいることは明らかだ。業火の信徒ではなく、従ってオブローンの司祭に従う謂われはない。
かといって、コズディムの信徒だというのでも、なさそうだったが。
「何か?」
「果たしてどうやったら冥界の主神を騙し、そも神官になどなれぬ男が神殿長の地位にまでついているのか、とな」
「興味がおありで?」
「いや」
リグリスは簡単に言った。
「俺は、あやつに渡されたオブローンの御力を使う。だがコズディムなどはオブローンが従兄、死 神 の宿敵ではないか。それを奇妙に思うだけだ」
「それ故」
スーランは肩をすくめた。
「コズディムを抑えている、のではないかと」
リグリスは面白くなさそうに手を振った。疑問のように口にしたが、特に知りたい訳でもない。
トバイという男が何者なのか、正確なところは彼も知らなかった。だがいまや、利用できれば充分である。
トバイが何を思って神殿長の地位などについているのか、そんなことはどうでもいい。トバイの狙いが指輪だけだというのなら、風具のひとつくらい、かつての礼代わりにやってもいい。
冠さえ、制せば。
継承者となり、風司となれば。
道具が誰の手元にあろうと、関係なくなる。
「〈風聞き〉が失われたそうで」
スーランの言葉はリグリスの顔を歪めさせた。
「失われては、おらぬ」
「ですが、蓮華の花と名づけた娘が、白詰草を片方落としたと」
「拾った者は判っている。追わせている」
リグリスは気に入らぬというように目を細めた。
「風は継承者のもとに集まります。やはりあの子供が」
「――気に入らぬな」
考えたことを言い当てられたかのようで、リグリスはそれも含めて思いを口にした。
「だが、あの子供は冠には触れていない。オブローンは我らに味方している」
「オブローンを崇めぬ者に災いの火を」
スーランは丁寧に業火の神の――邪なる――印を切ると礼をした。
司祭はそれを正しい形で返しながら、幾つものことを考えた。
万事が順調とはいかないが、すぐに回復できる。風聞きのことも、半分だけしか渡らなかったのならむしろそれは最上の試験にもなり得る。
あの少年、カトライの命を受けて風読みを追うティルド・ムールは本当に継承者であれば。
リグリスの目が光った。
追わせればいい。風読みや風聞きではなく、風謡いに、風見を。
少年が、エディスンの王子よりも風を呼ぶ性質の持ち主であれば。失われたものへの道しるべになり得る。
そうであればアンカルと彼が作り出した物体の失態は取り戻せるどころか、〈汚れた河川から見つかる宝玉〉だ。
思う通りであれば、全ては彼と彼の神のためになる。
ドレンタル・リグリスは成功への欲望に、笑んだ。




