14 町をさまよう
空には、雪の気配があった。
と言っても、幸いにしてティルドはまだ「雪」というものを体験していないから、雪が降りそうだとは思わなかった。
雪天などエディスンではまず体験できぬことであったが、滅多にない機会だからと歓迎する気持ちにはあまりなれなかった。
寒いのは好かない。
新しい町を巡るのはたいていにおいて面白いことであったが、いろいろと考えごとが渦を巻いていると、見知らぬ町を満喫する気分にならないまま見知らぬ通りをうろつくだけの結果となる。
ティルドはどうにも苛々していた。
嫌な夢は見るし、セイもアロダも連絡をしてこないし、ユファスも弟を追ってきているやらいないやら。
だが、いずれやってくるであろうアロダに兄貴を探してくれと頼めば――魔術師に何か頼むのは気に入らないが、背に腹は変えられない――どうにかなるだろうと楽観視をしていた。
ユファスに何かあったとは思わなかった。万一のことがあれば判る、という気分でもあったろうか。一般的に〈ラファランは身内に触れる〉と言われ、近しい親子兄弟姉妹が危機にあれば感じられるものと言われていた。
ティルドが薄情だと言うのではなく、彼は兄を――血の絆を無条件に信頼していたのだ。
五年ぶり近い再会でも彼らはエディスンで過ごしていた頃と変わらなかったし、いまのように互いの居場所も判らない状態に陥ったとしても、二度と会えぬようなことにはならないと根拠なく確信していた。
こうした感覚は予感と言われ、魔力のない人間にも稀に訪れる魔法じみた感覚だ。ただ、魔術嫌いに拍車がかかっている彼自身は、決してそんなふうには思わないだろう。
ただ、兄はどうしているんだろうと考える。
どう考えても勝手に飛び出したのはティルドの方で、もしセイが話を伝えていなければ、兄は弟を案じているはずである。
兄のことだから気を利かせてローデンに連絡を取ろうと考えるかもしれない。
だが、彼のもとにアロダがいない以上、ローデンがどこまでティルドのいる場所や安全を把握しているものか、判らない。
それでも彼は、ユファスについては不思議なほど心配をしておらず、たぶん再会できるだろう、とどうにも楽観的に考えていた。
気になるのは魔女のことだ。
メギルに、リエス。
一方はアーリの仇で「魔女」、もう一方はアーリにそっくりで「魔女の疑惑あり」。
ローデンに聞けば何か判るだろうか。
アロダがやってきて以来、ローデンとの連絡はあの術師を通している。人手不足のために――忌々しい――ヴェルフレストの方へアロダが出向いてからは宮廷魔術師と言葉を交わしていない。
協会に頼るには、ユファスの財布があればまだしも、いまは金が心許なかった。
ティルドは気に入らないながら、アロダを頼るしかないだろうな、と思いながら町をさまようのだった。
彼は無論、知らぬ。
ユファスに起きたことも。
リエスが彼を追って近づいてきていることも。
腹の立つ、という気分はいくらか収まっていたし、体調の悪さはほとんど消えていたけれど、気分爽快にはほど遠い。
「心優しい」神官たちから離れられるのはよかったけれど、まるで猟犬か何かのように「耳飾りを探して来い」と放り出されては、やはり気に入らなかった。
リエスは慣れぬ旅路に凝った手足をほぐしながら小さな町を歩く。
分厚い雲は雪を予感させる。
冬という季節は嫌いではなかった。きんとした厳しい空気は心を引き締めてくれる。
手がかじかむようなことがあれば仕事には差し支えたが――。
仕事。
彼女は浮かんだ思いに首を傾げた。
リエスは、仕事をしたことなどない。言うなれば彼らの命令に従うことが仕事だったろうか。
おとなしく館にいること、指示されたときは黙って薬でも何でも飲むこと。実に気に入らないが、服を脱いで陣の上に横たわれと言われればそのようにすること。
それに、かの少年に会いに行くこと――。
理由は知らない。
ただ彼らはそれを推奨し、彼女も嫌ではなかったから従った。嫌であっても、従わされただろうが。
だが、こうして知らない町にまでティルドを追いかけていくというのはどうにも不思議な話だった。
例の耳飾りが何だというのだ?
彼らはおかしなことをほのめかすばかり。
彼女が継承者だとか訳の判らぬことを――。
リエスが思考をとめ、足をとめたのは、そこに知っている影を見かけたからだ。
いや、実際に目にしてはいない。正確なところを言うのならば「見かけたように思った」「いるように思った」というあたりだ。
どうしてそんなふうに思ったものか。
そう「感じた」理由を求められても答えられないものだ。
ただ、そこに「いる」と思ったのだ。
誰が?
ティルド・ムールが。
リエスは曲がるべき角をきっと睨みつけた。よし、絶対に文句を言ってやる。魔女だなどと言ったことを謝らせるのだ。
ぱっと路地から飛び出すと、彼女は危うくその相手とぶつかりそうになるところだった。
「おっと」
少女が崩れた体勢を立て直そうとすると、それを手助けるように腕が添えられた。
「どちらへお急ぎかな、セリ」
「えっ」
リエスは言葉を失う。それは、ティルドではなかった。
いきなり、通りすがりの男に抱き留められれば、若い娘ならば動揺するだろう。彼女はフラスでティルドに腕を掴まれただけでもきっぱりと「変態」扱いしている。
しかしこのときは、ただ目をしばたたいて謝罪めいた言葉を口にすると、そのまま走り去るしかできなかった。
「驚いた」
次の角を曲がってしまうと、彼女は息をつく。
「いまの人、すっごい、かっこよかった」
どうしてティルド「なんか」と間違えてしまったものか、リエスはため息をついて早まる鼓動を感じていた。
彼はそれを見送りながら、思わず懐中を確かめた。
「別に掏摸だという訳ではなさそうだな」
「そうであれば、私が捕まえている」
カリ=スは肩をすくめた。
「害意を為す意図はなかったようだ。誰かと間違えたのではないか」
砂漠の男は見事に少女の心の内を言い当てた。
「間違えた」
ヴェルフレストは面白そうに繰り返した。
「どんな男と間違えられたのか、見てみたいものだ」
「男とは限らないだろう」
「いや」
彼はにやりとした。
「男だな」
その返答にカリ=スは片眉を上げた。恋しい男とでも間違えたのだろう、とヴェルフレストは言うのだろうが、宮廷遊戯以外の恋心を果たして王子殿下が見て取れるものかどうか、という辺りである。
「いや、待て」
不意にヴェルフレストは呟いた。
「何か引っ掛かる」
それは何やら中途半端な言葉だった。
「何がだ」
カリ=スは問い返した。おそらく、近頃ヴェルフレストを困らせている「判らない」という感覚ではないかという推測をしながら。
「いまの娘だ」
返ってきた言葉にカリ=スは意外そうな顔をした。明確な返答があったことに驚いたせいもあるが、あまり彼女はヴェルフレストの好みには思えなかったからである。
「いまの娘の、何に引っ掛かった」
砂漠の男は引き続き問うた。
「気にする理由に見当がつかぬようだが」
「確かにな」
ヴェルフレストはにやりとした。
「色気のいの字もなければ顔立ちも十人並み、身体にもあまりめりはりがなかった」
王子は、リエスが聞けばがっかりするか、それとも「かっこよかった」など撤回して罵るかしそうな、大いに失礼な評価を下した。実際には少女は可愛らしいと言われる顔立ちであったし、なかなか均整の取れた体つきをしていたが、飾り立てた美女を見慣れた王子殿下からすると地味に見えたというところだ。
「ふん、面白い。俺はあの娘を知っているように思う。いや」
彼はすぐに自身の言葉を取り消した。
「そうではないな。知りはせぬ。俺が覚えたのは」
そこまで言いつつ、ヴェルフレストは言葉を切る。
「どうした」
カリ=スが促すとヴェルフレストは唇を歪めた。
「魔術的な言い方だ。他人が言えば俺はそう言うだろう。だがそうとしか言えぬ感覚というのも確かにあるのだな」
先ほどの感覚も然り。そしていまの感覚も。
ヴェルフレストは少女が去った角の方を眺めやった。
「俺はいま――風の気配を覚えた」
風司の息子は静かに呟いた。




