04 どこかの愚か者が
気持ちが悪い。吐気がする。
だがこれは少女リエスの体調がおかしい訳でもなければ、邪な魔術、或いは神術が失敗に終わったことを意味するのでもなかった。
彼女が生きて――という表現に問題があれば「呼吸をして」「心臓を鼓動させて」それとももっと簡単に「動いて」でもよいが、とにかくそうしているということは、アンカル神官とその助手たちは少なくとも少女の身体をうっかり灰塵にしてしまったりはしなかったということだ。
「気持ち悪い」
リエスは繰り返したが、何の役にも立たないことは知っている。彼女が泣こうが喚こうが、ものを投げつけようが大暴れしようが、彼らが彼女の待遇を考え直すことはない。
館の主や執事はリエスをまるでここの令嬢であるかのように扱ったが、それはローブをかぶった男たちが見せる彼女への非人間的な対応に気づかぬふりをしたいためのように思えた。つまり、本当に可愛がっている訳ではない。
だからリエスは、この館で優しい手を期待しても無駄だと知っていた。
気持ちが悪い。
胃のあたりがどうにもうぞうぞする。
全く動けないとか横になっていなければ無理だと言うほどではなかったが、とにかく気持ちが悪いったら悪いのだ。
いったい誰のせいでこんな目に遭うのか。
涙が出そうな気持ちだが、不思議と出ない。
と言うのは、少女は、理不尽でどうしようもない状況を泣いて諦めるような気弱い、或いは諦めのよい性格ではなかったからだ。
「支度はいいか」
リエスはやってきた神官アンカルをじろりと睨んだ。
「あたしの返答が、あんたたちの『計画』に影響を及ぼすかも、なんて思わないわよ」
強気な言葉が男の感情を動かすことはなく、彼はただそれを肯定と取ってうなずいた。
「ならば下に降りろ。すぐに移動だ」
「どこによ」
少女は口をとがらせて言った。どうせ、親切な答えが返ってくるはずもないのだが。
「東だ」
しかし予想外のことに、返答の言葉が降ってきた。
「東ぃ?」
リエスは繰り返した。
「何、それ。まさか大砂漠だなんて面白い話はなしよ」
それはもちろんただの軽口で、本気で心配したという訳ではない。彼女としては、こうした「ちょっとした会話」のうちにアンカルがもうちょっと話をしてくれる、言い換えれば「口を滑らしてくれる」のではないかと期待しているのだ。
だが神官は、それに応とも否とも、そんな馬鹿なというような挨拶じみた言葉もそれ以上は寄越すつもりはないようだった。それは、たとえば「禁じられている」とか言うよりは、単純に「言う気がない」。
リエスはそれに勘付いた。ならば、言う気にさせてやればいい。彼は、「実験動物」に何かを洩らしても別に気にもとめないだろう。彼女の存在ごと無視をするなら別だが、何か言えば一応耳を傾けている様子であるから、話し続けてやれば無視するより簡単な返答をする方が楽であるはずだ。
「どうしてまた、ここを出ることになる訳?」
「判らぬのか」
アンカルの声は不機嫌の色を帯びた。おっと、失敗しただろうか、と少女は思ったがおくびにも出さずにただ首を振る。
「どこかの愚か者が耳飾りを片方、落としたからだ」
サーヌイ青年に「それは宿命である」としたり顔で言った神官は、苛立ちを隠さずに言った。成程、これは〈蜂の巣の下で踊る〉発言だった訳だ。リエスは肩をすくめる。
「仕方ないじゃない、事故よ」
「それで済むと思っているのか! 全く、リグリス様に知れればたいへんなことだ」
「ごめん」
よく判らないが謝っておいた。本音としては「そんなに大切なものならあたしに付けさせたりしなければいいのに」というもっともな思いだ。
「ボスに報告はしてないんだ?」
そう言うと、アンカルの目はますます不機嫌そうになった。しまった、と思うもあとの祭りだ。
「ご報告はせねばならん。隠していたと思われれば、失態をした以上に逆鱗に触れるからな」
少女は謝罪の仕草をしたが、神官は見ていなかった。
成程ね、と彼女は思う。「失態をした」のはアンカルの指摘通り彼女自身であるが、その叱責を受けるのは彼女ではなくてこの男だ。これは、悪くない。
神官たちにしてみれば彼女はただの道具。ただの道具を罰することに意味などない。道具が正しく働かなかったなら、それは作り出した者や、使った者の責任になる。
少女はそこまで思い至らなかったが、もしかしたらこの気分の悪さは罰も同然かしら、などとふと考えると、彼女の「失態」でアンカルが怒られるかもしれないという話も特に楽しいものではなくなった。
「でも、何で耳飾りを落としたらここを出る訳? よく判んないんだけど」
アンカルはじろりと少女を睨んだ。リエスは首をすくめる。
「あれは、お前が持っていなくてはならないからだ」
「……やっぱ判んないわね」
リエスは呟くように言った。返答を期待した訳ではない。案の定、アンカルは睨むだけだ。
「それはいいわ。何だか知らないけど、あんたたちの理屈なんでしょ」
少女の言葉に神官は首を振ると、これ以上このような「モノ」と話をするのも馬鹿らしいと気づいたように踵を返した。
「ちょっと!」
リエスはそれを引き留めるように声を出す。
「答えになってないわよ、何で耳飾りを取り戻すためにここを出なきゃなんないの」
「拾った子供を町から追い払ったからだ」
「子供? 追い払う?」
「ここは面倒だからな」
「面倒って?」
リエスが聞き返せば、アンカルは苛立ったように呪いの言葉じみたものを吐くと、今度こそリエスに背を向けた。
「もしかして、子供ってティルドのことだったりする?」
彼から逃げるときに耳飾りを落としたことは明らかだったから、ティルドがそれを拾っていても何もおかしくない。
もしそうであれば、おかしいのは、それを彼女に返すとか――は、「魔女」だと思っているのだから、そうはしないかもしれないが――売り払うとかをしないで、それを持ったままフラスを去ったという点だ。
「変なの」
少女は呟いた。
「変よ」
何だか、腹が立ってきた。
ティルドが街を出た?
彼女に何も言わず?
謝りもせず?
「うわ、むかつく」
彼女はそう口に出すと、少年に再会して文句を言ってやるのは悪いことではないかもしれない、と考えた。




