08 嫌な空気だな
商人の依頼は、ゴーラルの町の南にある廃墟の探索であった。
それは、記録もないほどの昔にとある貴族の別邸であったという話だったが、その貴族がどこの誰であるのかはもとより、どうしてせっかくの別邸を放棄したのかも判らない。
町に伝わる話では、そこで一家が惨殺されたということだったが、それはよくある怪談のようなもので、根拠は全くない。ただ、そんないわくつきの場所を好んで訪れるのは肝試しを目論む子供たちくらいのものである。
町の伝説には、そこには貴族が残したままの宝石が山のようにあるというような定番の物語もあった。だが子供の頃から怪談を聞かされて育つ町の人間はそれを手にしようなどとまず考えなかったし、一部の夢想家がそれを試みて、そして帰ってこなければ、ますます怪談に拍車がかかった。
たまたま町の伝説を知った商人が、「山ほどの宝石」などは〈化け狐の二本目の尻尾〉だとしても、そういった噂の影には何かあると踏んで冒険者を雇いだしたらしい。
しかしそれもまたことごとく帰ってこないとなれば、とんでもない化け物がいると勘付いて諦めるか、はたまた本当にお宝があるに違いないと思いこんで鼻息を荒くするかどちらかで、件の商人は後者だということだ。
魔物の多くは日の光を嫌うから、彼らは近くまで出向いて野営をし、日が明けてから廃墟に入ることにしていた。「魔物退治」の専門家たちは昼だからと言ってやつらが眠っている訳ではないと知っていたが、それでも力は落ちるものだし、夜目の利かない人間がわざわざ敵の活動時間真っ最中に飛び込んでいってやることもないからだ。
それはよく晴れた夏の夜だった。
空を見上げれば北では〈虎〉座と〈狼〉座が今宵も向かい合い、決着のつかない戦いをしている。南では〈ひとつ星〉ルサの周りを〈仔馬〉座が休むことなく走り続けていた。
〈南の仔馬〉座には、罪を犯したために地平線向こうで休息するを許されないのだという伝説がある。
それがいったいどんな罪であるのか、伝説は語らない。
いったい仔馬が何をして神の怒りを買ったのか。昼も夜も永遠に同じところを巡り続ける罰に値する、どんなことをしたのか。
メギルはぼんやりとそんなことを考えたが、答えは出るはずもなかった。
ぱちぱちと薪のはぜる音がした。
夏の日に暖を取るための火は不要だが、調理のためと魔除けのためには必要だ。
「嫌な空気だな」
そう言ったのは、誰だったであろうか。
「何だかまとわりついてくるみたいだ」
誰もそれに返事をしなかった。同じことを感じていたからだ。――嫌な感じがする。
それを無視するべきではなかったのだ。
彼らには幸運にも、それに気づける能力があったのだから。
しかし彼らは引き返さなかった。そのような相談すら、しなかった。
それがガルシランの、サイブロンの、イリーズの、そしてメギルの運命を決定づけた。
最初に酒に手を出したのは、イリーズだった。
翌日まで酔いを引きずるような体質ではないとしても、魔物の棲処がすぐ近くにあると判っているときに戦士がやるべき行為ではない。
彼が「嫌な感じ」を振り払いたかったのか、それともほかの事情によるものだったのか、それは判らない。
ほかの誰もそれをとめることなく、それどころか同じことをした。
彼らの間に悪酔いをする人間はおらず、普段ならば、飲んだところでいつもより少し口が回るようになる程度だ。
だがこのときは、彼らの口は重かった。
彼らの上に流れたのは、心やすいもの同士の気にならぬ沈黙ではなく、どこか心を苛つかせ、不安にさせる暗い沈黙だった。
「なあ」
沈黙を破ったのは、サイブロンだった。
「俺、聞いてみたかったんだけどさ」
青年の視線は兄に向いた。何だ、というようにガルシランは片眉を上げる。
「メギルって、どうなんだ?」
「どう?」
意味が判らないと言うように兄は眉をひそめた。突然に名を呼ばれたメギルも、首を傾げて恋人の弟を見る。
「だからさ」
サイブロンの視線はメギルに向いた。彼女の顔にではない。身体に。
「そんだけいい身体なんだ、きっと相当、いい具合なんだろうな?」
「ブロン!」
咎めるように声を出したのはメギルだった。ガルシランは、弟の言葉を理解しかねる――ということはないだろうが、弟がそんなことを言い出すと思っていなかったためか、反応が遅い。
「まあ、間違いないだろ」
イリーズが声を出した。
「警護隊にいた頃のこいつの評判をまた話してやろうか? 近づいた男はみんな骨抜きさ。気に入った男がいれば魔術で魅了して、簡単に食っちまう。それで、飽きたら捨てる。泣かせた男の涙で湖のひとつもできるんじゃないか」
「どういう意味なの」
メギルはイリーズを睨んだ。
「そのままさ。魔性の女に魔力を付加したら、結果はご存知の通り」
イリーズはちらりとガルシランを見た。ガルシランはそのほのめかしに勘付いて、イリーズに視線を返す。




