10 邪法
面白くない。
全くもって気に入らない。
それはもう、気に入らないと言ったら、ない。
だいたい、いくら何でも失礼だ。無茶苦茶だ。非常識である。
確かに、自分の口が過ぎたことは認める。
最初のときはともかく、助けてくれたのに「変態」は失礼だった。判っている。だがそれは謝ったし、馬鹿呼ばわりしたこともあるが、向こうだって同じようなことを言ってきたのだからこれは引き分けだ。
だいたい、いったい、どうして彼女が「魔女」扱いされなくてはならないのだ?
リエスの腹は立ち通しだった。
ティルドは変態ではなかったかもしれないが、どこかおかしいのだ、異常者なのだ、という結論は彼女の心を少し落ち着けたが、だからと言って腹の虫が治まるものでもない。
可憐な乙女に向かって、よりによって、魔女!
メイヨキソンとかで訴えてやってもいいくらいだ。
実際のところ、名誉を毀損されたと裁き所に主張することができるのは名のある人間や貴族くらいのものだったから――実際には「主張する」のは勝手だが、彼女のような小娘が相手では笑い飛ばされるか、そこまでも行かずに門前払いである――リエスの思考は腹立ち紛れ以外の何ものでもなかった。
もちろん、当のティルドにしてみれば彼女を魔女だと疑うだけの充分すぎる理由があったのだが、リエスはそれを知らないだけ。
そう、彼女は何も知らない。
「幽霊」に盗まれた品、レギスの丘に埋められた品々、少女アーリが愛用していたそれらを手がかりに、アーリとよく似た肉体を利用した邪法で形成されたその生き物は、何も知ることなく、自身をただの娘だと思っていた。
十七年を生きてきたはずの記憶が曖昧であることも、別に不思議には思わなかった。誰だってそういうものなのだと思っていた。
助けてくれたとは言え、出会ったばかりの、乱暴な口調を使う少年にどうして引き寄せられるような気持ちになったのか。魔女だと言われてどうしてこんなに衝撃を受けているのか。ちっとも判らないまま。
それ、或いは彼女は確かに怒っていたけれど、同時に哀しんでもいた。
ティルドとは喧嘩をしてもすぐに仲直りができたのに、今回はうまくいかない気がする。
――いつも?
この、一旬にも満たない間に幾度か会った、だけなのに?
もう少し長く一緒にいたような気がする。
決して顔がいいとか、賢いとか、そう言ったことは言えないけれど、本当に心から彼女のことを心配してくれる、少年と。
心配?
――そうだ、ティルドはリエスの体調を心配してくれた。
アーリの将来を心配してくれた――ということは、それには判らない。
判らないことがたくさんあるようで、これもまた彼女の腹立ちの原因だった。
それに、以前のようには俊敏に動かぬ、身体のこと。
以前?
「リエス」
叩くこともなしに開けられた扉にはっとなったリエスは、とりとめのない思考を放り出した。
「時間だ」
「もう?」
嫌そうに顔をしかめるが、大柄な男がそれに同情してくれたことはない。
「そうだ」
男は面白くもなさそうに短く言うとつかつかと彼女に歩み寄り、乱暴に腕を取って立たせた。
「ちょっと! そんなことしなくても行くわよ、嫌だけど嫌だって言っても仕方ないんだし!」
「判っていればいい。だが、ぐずぐずして時間を無駄にするな。もう少ししっかり作り直さねば、いまのままでは弱くて駄目だ」
その意味は少女にはよく判らなかったが、聞き返したところで答えが戻ってこないことは判っている。
「今日は何? またあのどろどろの液体、飲まされる訳?」
「不味くて飲めんなどと言い出すなら、甘く味付けてやろうか」
「やめて。あの臭いのが更に甘かったら、気持ち悪くて吐いちゃう」
「吐かれては困る。いいからこい」
「ちょっと、引っ張らないでってば!」
館の主は学者ふうで穏やかで、少女に優しかったけれど、その愛人らしき金髪の美女と彼女の配下――とリエスには思えた――は違った。
リエスが近くにいても、まるで犬か猫がうろついているというように冷たい目で見たし、話しかけても無視されることがほとんどだった。サーヌイという名の青年だけはそうでもなかったが、それでもやはり愛玩動物か何かに優しく接するという感じで、リエスは人間扱いされている気がしなかった。
ティルドだけが、彼女に対等に向き合ってくれた。
なのに、どうしてか彼女を魔女と言い、ものすごく怖い目で見た。
リエスは首を振った。
ティルドのことは忘れよう。彼はおかしいのだ。そうに決まっている。
連れて行かれるのはいつもの地下室で、もともとは食料貯蔵庫か何かであったらしいけれど、いまでは様相を異にしていた。
いちばん近いのは、医師の診療室であっただろうか。
ろくに飾りのない部屋、つんとした異臭、古びた棚に並べられた薬品らしき瓶の数々、それらだけを取ればよく似ていた。
中央にある長四角い台――寝台というにはあまりに無機質なそれは、むしろ手術台のようなものを思わせる。
だが、明らかに医療の間とは異なるものがあった。
台を中央に置き、むき出しの地面にほんのりと光る塗料で描かれている、気味の悪い陣。
気味が悪いのは、それがどこか聖印に似ているためだった。
だがそれは形の上でのことで、もし八大神殿の神官が目にするようなことがあれば悲鳴を上げて逃げるか、勇気のあるものでも震える手で神の加護を祈る印を切るか、であろう。
ただの線なのに、それは、邪だった。
作業台のようなものの上に置かれているのは医師の使う道具ではなく、香草や暗い色の玉、うっすらと煙を吐く香炉に、捻れた文字の書かれた符。
間違ってここに足を踏み入れるものが万一にもいれば、何も知らなくてもぞっとするであろう。
ここで怖ろしい秘術が行われていることは、空気が教えてくれる。
「さあ」
促されてリエスは嘆息した。
彼女のなかのいちばん古い、はっきりした記憶はこういった雰囲気の場所であったし、この部屋にも何度となく足を運んでいたから、いまさら恐怖は感じない。
ただ、何となく、嫌だなあという感じがするだけだった。
「早くしろ」
「判ってるわよ」
少女は不満そうに言いながら上衣の留め具を外していった。好きでも何でもない男の前で全裸になるというのは、十七歳の乙女の心には抵抗があったけれど、自分でやらなければ押さえつけられて脱がされるだけの話で、それはもっと抵抗がある。
短剣があれば抵抗してやるのに、などとリエスはふと考え、自分はそんなものを扱ったことがあったろうかと更に考え、出ない結論に思い悩むのはやめた。
脱いだ衣服を台に置き、男の視線を感じながら下着に取りかかる。欲望の視線でもあれば――ぞっとするが――話は判るのに、若い娘の裸体を前に、男は実験動物を見るような目線しか送らない。
それも当然のことである。
彼女は、実験動物なのだから。




