09 風は彼の周りに
いくつか町を越えて隊商の目的地にたどり着けば、彼らとの旅はそこでおしまいとなる。
カリ=スは隊商主に専属の護衛になってくれないかと誘われたが、当然、砂漠の男は断った。
「剣を捧げた主がいる」というのが彼の返答で、その声は自信と誇りに満ちており、もしヴェエルフレストが聞いたら意外に思うか――それとも改めて、カリ=スが父に抱く恩に感心をしたかもしれなかったが、王子がそれを耳にすることはなかった。
ただ彼は、一時期の疑いなどなかったようにカリ=スを信じ、その言葉と判断に重きを置いた。ラタンに惑わされたことを彼はてらいなく幾度もカリ=スに謝罪し、砂漠の男はもとより王子に恨み言を言う気などなかったから、ただ、そのことは気にするなと返していた。
カリ=スが気にする、或いはヴェルフレストに気にしてもらいたい、いや気をつけてもらいたいのは、神官よりも魔女である。
ヴェルフレストはカリ=スが気づいていないと思っているのだろうか。
王子がウェレスの地でカリ=スに疑いを見せたとき、ヴェルフレストは、魔女が彼の護衛に魔術をかけていることを案じたり疑ったりしたのではない。アドレアがヴェルフレストにではなく、カリ=スに声をかけたかもしれなかったことが気に入らなかっただけだ。
カリ=スはそのように理解していた。
魔女に惹かれるのも、袖にされるのもヴェルフレストは「面白い」と表し、それは表向きの言葉でもなければ強がりでもなく、本当にそう思っているようだ。
恋愛遍歴を重ねた達人がそのような状況も面白いと考えるのならばともかく、ヴェルフレストの場合、女性経験は豊かでも恋愛経験は皆無に等しい。
だからカリ=スは彼を子供と思い、案じるのだった。
「何だ」
砂漠の男がじっと見ていることに気づけば、王子は片眉を上げる。
「いや」
カリ=スは首を振った。
「雨が降りそうだなと思っていただけだ」
見れば、どんよりとした暗い空は確かに雨神の気配を思わせる。雪の三姉妹が力を振るわないように願いをかけるのがこの時期、エディスンのような北端以外、ビナレス全土で行われる〈冬至祭〉だという話だった。雪ではなく雨が降るのなら、少なくともこの町での祭りは成功と言うことになろうか。
「降られる前に屋根のあるところへ入ろう」
もっともな提案をしたのはどちらであったか、どちらであろうともっともな提案にもうひとりが反対することは当然なく、彼らは〈黄金の草原〉亭を宿に決めた。
初めの頃は宿を決めるのも交渉をするのもカリ=スの仕事だったが、それを「面白く」見守って学習した王子殿下は、宿に関してはなかなかの目利きとなっていった。ただ値段交渉については、かけらも金に困っていない様子を隠すことが難しく、相場よりもふっかけられがちだったから、それには相変わらずカリ=スが当たっていた。
いまやすっかり「西」に慣れた東の男が適切な値段だと折り合いをつければ、兼営されている酒場でちょっと一杯、ということになる。
冗談にも高級とは言えない店の酒は、エディスンを出たばかりの頃よりヴェルフレストの舌に障った。
と言うのは、ウェレスでもタジャスでも、彼を歓待するために普段よりも質のいいものばかり提供されていたからだ。そのため、彼はエディスンにいたとき以上に舌が奢ったのである。
しかし、街ではたとえ高級な料理屋に入ったところで王族に出されるほどいいものが簡単に出てくるはずもなく、丁重な接客と華美な装飾――王子にしてみれば、どちらも半端なものだ――のために無駄金を使うよりは、酒の強さで味をごまかした方がましだ、などと思っていた。
料理に関しては不思議と、下町の「卑しい」ものでもそれなりに美味いと感じるもので、やはり面白かった。
そんな訳で、彼が王宮では饗されない食べ物――揚げたての鶏であるとか、見た目の美しさなど何も考えていないような豚と芋のごちゃ煮であるとか――を興味深く、或いは行儀悪くつついていたときであった。ついに「面白いこと」が彼を訪れるのは。
「やあ、久しぶりじゃないか」
店の人間が少し離れた席の客に親しげに声をかけた。それに何となく目をやったのに意味などはない。
いや、あったのだろうか。
「それは何だ? 恋人への贈り物か」
見ればうだつの上がらなさそうな男がにやにやとしながら小さな何かをもてあそんでいる。
「そうさ。行商人から買ったんだ。珍しい、東国の品だとか」
がたん、と音を立ててヴェルフレストは立ち上がった。その話には聞き覚えがある。
砂漠の魔物についての噂をもたらした商人。その人物は、東国の品を扱っていると。
「ヴェル」
カリ=スが制するように言った。
「慌てるな。私が行く」
言うが早いが砂漠の男はするりと立ち上がると主をあとにした。ヴェルフレストは瞬時迷ったが、彼が「偉そうな」態度で話しかけては得られる話も得られないというカリ=スの評価を思い出し――それを認めた訳ではないが――仕方なしにまた席に着いた。
彼は耳をそばだてて、カリ=スが男に東の人間だと名乗るのを聞き、故郷を離れてしばらく経つので、東方からきた商人がいるのなら話を聞きたいと、まことしやかに語るのを聞いた。
あまり余計な口を利かぬカリ=スの意外な一面を見たように思いながら、同時にもしかしたら本音なのかもしれぬとも思った。
カリ=スは自分からは決して言い立てないが、ヴェルフレストをはじめとする「西」の人間はどうにも自分と違うようだ、と思っているところがある。
謙虚な砂漠の男はもちろんそれについて優越めいた考え方はしなかったが、故郷を懐かしく思うことがあっても不思議ではない。いや、当然である。
なのに――ヴェルフレストが砂漠を向けば、郷愁に駆られて彼を導くというようなことはせず、ただ首を振る。
危険だ、と言うのは理解できる。まして、「砂漠の魔物」などが関わってくればなおさらだ。
ヴェルフレストからラタンの毒は払われていたから、彼がそれについてカリ=スを疑うようなことはなかった。
いまになれば、純粋に恩人の息子を案じるカリ=スをどうして疑いの眼などで見れたものかと思った。「子供じみた嫉妬」と自身で判断しているそれについて、カリ=スもまた考え当てているとは、思わなかったが。
「そいつは惜しかったなあ」
さまよいかけたヴェルフレストの思考は現実に戻った。
「その商人だろ。名前までは知らないが、俺がこの胸飾りを買ったあと、すぐに露店を畳みだしてね。日が沈まない内にここを出ると言ってた」
「どこへ向かうか、話していたか」
何気ない調子でカリ=スが問うた。
「どうだったかな。西門が閉まる時刻を気にしていたから、西じゃないか」
カリ=スは礼を言うと、一言二言世間話をして卓に戻ってきた。
「西か」
「そのようだ」
「では、行くぞ」
その即断は、ティルドに似通うところがあった。知れば彼らはやはり、嫌がるだろう。
「いや」
砂漠の男は王子の即答に首を振った。
「今日はもう遅いし、月明かりもない。商人もの闇のなかを移動せぬはずだ。ここで眠って、明け方に発てばよい。馬を飛ばせば追いつくだろう」
その言葉はもっともだったので、ヴェルフレストは仕方なくうなずいた。
「砂漠の魔物」について話をしたという商人が、それ以上のことを何か知っているのかは判らない。そもそも、これがタジャスの地で聞いたツーリーという男なのか、別人なのかも。
だが彼は、どんなにささやかな手がかりであっても逃したくないと思った。
砂漠の魔物。
風に歌を謡う首飾り。
ある日を境に消えたと言う、歌。
彼自身では追うつもりのなかった話だ。タジャス男爵ギーセスが運よく何かを掴めば、魔術師協会を通してローデンか、アロダに報せてくれるはずの。
そう考えてから彼は、不意にぞくりとするものを覚えた。
では、風は彼の周りに集まるのだ。
無理に追おうと、しなくても。
ヴェルフレストはそれを突然に実感した。
正確なところを言えば魔術とは異なるのだろうが、「魔術的」と言われる類の、それは、彼にいままで訪れたことのない感覚だった。
運命――ローデンならば星巡りと言うであろう不思議な力に彼は畏怖を覚え、だがそれを正直には認められず、どこか強引に「それも面白い」と考えた。




