01 醜聞
ばたん、と戸が音を立ててしまったことに驚いたのは、戸を閉めた当の本人だった。
だがローデンはそんなふうに扉に当たってしまった自身に驚くよりも、部屋にいた人物に驚かされることになる。
「陛下」
彼はほとんど反射的に、宮廷式の礼をした。
「よせ」
カトライは手を振った。
「いまは王としてではなく、友人としてお前に会いにきたのだ」
見ればカトライの頭には簡易式の王冠すらなく、細い飾り輪は卓に無造作に置かれている。
「公爵の私室に入るには、王の権限を使ったがな」
カトライはにやりとして、長い髪をかき上げた。
「小姓が懸命に何か言いたそうにしていたのはそれでしたか」
ローデンは苦い顔をして答えた。
「ではカトライとお呼びしましょうか。何です、いったい」
言いながら彼は黒いローブを脱ぎ、カトライに倣って公爵の印章のついた腕輪を外した。
「サラターラのことなのだが」
「王妃殿下ですか。それとも、あなたの奥方」
「意地の悪い言い方をするな」
カトライは嘆息をした。
「私とサラターラの話を王と王妃という観点でなく考えろと言うのは難しいかもしれんが」
「確かに。私はサラターラ様と個人的にお話をしたことはございませんし」
「世の男が、友人の妻と個人的に話をするというのは、問題ではないのかね」
カトライは片眉を上げて言った。ローデンは肩をすくめるにとどめる。
「ご家庭のお話でしたら、私などは相談相手に向きませんよ。ご存知でしょうが」
「向く向かないではない。お前にしか言えぬ」
「どうぞ」
ローデンは促した。カトライはわずかに首を振って、声を出す。
「男がいるようだ」
「……何と」
何とも直接的、かつ王妃としては大きすぎる醜聞に、ローデンは目をしばたたいた。
「まさか」
「私が嫉妬深い男で、勘違いをし、思い込んでいるというのならばよいのだが」
カトライは自嘲気味に言った。
彼は妻に優しい愛情を抱いてはいたが、隣にほかの男が寄れば追い払うと言うような熱情を抱いたことはなく、それが女としてのサラターラに引っかかる部分らしいと言うことを理解していた。
「思いあまって注進してきた侍女頭がいてな。デルカードにそれとなく尋ねたら、それならば納得のいく態度だなどと言ってきおった」
「では王妃様は、相変わらずデルカード様にはお会いになるので」
「そのようだな」
サラターラの夫にしてデルカードの父は、苦々しく言った。
「個人としてお話をとのことでしたが、いい加減、公務にも差し支えます。ご病気だと言い張るにも、ひと月近く顔も見せず、全く音沙汰なしと言うのは」
「判っている」
カトライは短く答えた。ローデンは謝罪の仕草をする。もちろん、王の方が身に沁みて知っているはずだ。
「エディスンの問題だ、と言うのではなく、ご夫妻の問題として考えよと言うのは、いささか……」
ローデンは言いかけ、また謝罪の仕草をした。もちろん、カトライは重々承知の上で言っているはずなのだ。
「ああ、カトライ。何とも向かぬ相手に相談をしておりますぞ!」
半ば悲鳴のような色を帯びた言葉に、今度はカトライが謝罪の仕草をした。
「根拠は、侍女頭の言葉だけですか」
「タキレスが軽はずみな女であれば私も一笑に付すが、あれは長年、サラターラによく仕えている。確信がなければ、私に話をしようとなどするまい」
「では相手は。判っているのですか」
「判らぬそうだ。それが、タキレスが告げられぬような人物なのか、実際に見当がつかぬものかは」
判らないと言うようにカトライは首を振った。
「失礼ですが、サラターラ様はあまり慎重な性質ではございませぬでしょう。本当に秘密の恋人がいて、それを近しい侍女たちにも隠しおおせているというのならば、相手の性質の方が相当に悪いやもしれませぬな」
「二十歳にならぬような娘ならば、悪い男に騙されているとも言えようが」
「ええ。たとえ『悪い魔法使い』に『おかしな魔法』をかけられたのだとしても」
魔術師は皮肉めいた口調で言った。
「言い訳にはならぬ年齢と、それに、ご身分ですから」
王は口を挟まなかった。
「あなたがサラターラ様を大切にされていることは存じておりますよ。熱烈な愛情を持っていないことを彼女に申し訳なく思っていることも。王として処罰をしたくないから夫としてするべきことを考えようとしていることも判ります。若い頃ならば、出会ったばかりの頃であれば、相手を特定してぶん殴った上で、妻に未練がなければさっさと離縁するように、とでも気軽に言うでしょう。けれどいまの私には無理だ」
「言っているではないか」
カトライは混ぜ返すように言った。ローデンは友を睨む。
「あなたは王なのです。即位したての若者でもないのですから、あなたが充分にそれを理解し、その上でそれを抜いて考えろと言っていることは判ります。彼女を目覚めさせるには、あなたがいまからサラターラ様に恋をして、彼女をほかの男から取り戻そうと愛情と誠意を見せるのが最上というところでしょうが、それは王が間男から王妃を取り返す方法ではない」
「判っている」
カトライはまた言った。
「身分を抜いて考えろなどと、無茶を言って済まなかった」
「ええい、そのような顔をせんでください」
ローデンは唸った。
「ただでさえ頭の痛いことが多すぎるのに、よりによってこの時機にそんなことをしてくださる王妃様に呪いをかけて差し上げたくなりますよ」
「すまない。エイファム」
王はまた謝った。その友人は首を振る。
「かまいません。いまさら頭痛の種がひとつばかり増えたって、大して変わりはしませんから」
誤差の範囲と言うところです、とローデンは答えた。
「では」
カトライは飾り輪に手を伸ばして言った。
「王であれば、どうだ」
「──相手を特定してぶん殴る、という箇所は王であっても同じのように思いますけれどね」
ローデンは物事を軽くしようかとでも言うように肩をすくめた。
「捕まえて、反逆罪で絞首刑にすることだってできますよ。あなたの好みじゃないことは判っていますが、醜聞となるようならばそれくらいはしなければ」
「いまさら言うことでもないが、私は全くもって、よい夫ではないな」
王は息を吐いた。
「醜聞とならず、サラターラがそれを隠しおおせるのならばそれでもよい、と思うところがある」
「突き詰めて、全てを公にさらすのが必ずしもよい夫とは思えませんがね」
ローデンはそんな言い方をして、続けた。
「第一、それが本当であるなら、隠し続けるのは……無理です」
「だろうな」
カトライは同意した。魔術師は嘆息する。
「私がサラターラ様にお会いして真偽を見抜くのがいちばんよいでしょうが、後ろ暗いところがあるならば、彼女はあなた以上に宮廷魔術師などに会いたくはないでしょう」
ローデンは瓏草をやる習慣を何年も前にやめていたが、いまは久しぶりにそれが欲しくなった。
「密偵は送ったのですか」
「考えているところだ」
「理想的なのは、王妃様に気づかれることなく、相手をどこかへやってしまうことですな。早い方がいい、いつ話が洩れるとも限りませんから」
「サラターラは気づくだろう」
王は自嘲めいた笑いを見せた。
「いまは私に何の感情も抱いておらずとも、恋人を奪えば、恨もうな」
「あなたがそうやって、情熱的ではなくとも誠実に彼女を愛していることを理解してくれる女性であってくれればよかったのですが」
「いや、エイファム」
カトライは首を振った。
「彼女は、理解している。私たちは長年、そうやって暮らしてきた。だが理解することと満たされることは、別だ」
その言葉にローデンは沈黙した。彼はこの年まで家庭を持ったことがなかったから、夫婦として暮らす者たちの間に流れる感覚は想像することしかできなかった。たとえその想像が完璧に的確なものであったとしても、知ることと体験することはやはり別なのだ。
「密偵をお送りなさい」
第一顧問はそう言った。
「まずは、真実を調べることです。間違いであればよい。そうなったら彼女に謝罪する代わりに、嘘でもいいから愛の言葉でも捻り出して差し上げなさい。事実であれば、処理はそれから考えましょう。男の身分によっても話は違ってくる」
「身分か」
カトライは小さく言った。
「王家に生まれ、王となったことを厭うたことはなかったが、いまは、きついな」
「――時に、そのつらさを忘れられそうな面倒な話がございますが、如何いたしますか」
その言い方にカトライは眉を上げ、夫の顔から王の顔に戻った。
「何か掴んだか」




