13 可愛い子ね
宿の主人に言ったように美女を恋人にしにいく気はないが、せっかくの祭りである。この時期にフラスを訪れることなど、もう二度とないかもしれない。
となれば、〈ビナレスの臍〉たる街の冬至祭を経験するのは一生に一度ということになる。満喫するのも悪くない。
ユファスはそんなふうに考えながら、賑やかな街並みを歩いた。
アロダの忠告を受けて鍼師を探してみるのもいい。
中心街区の一角にある情報屋――レギスの〈黒鳩〉のように「胡散臭い」ラーターではなく、旅人の多い自由都市に案内所として存在する、れっきとした店舗――に出向けば、評判のいい医者について聞けるだろう。
こういった行事の最中は通常の営業をしていない可能性もあるが、駄目なら駄目でかまわないと思った。アロダの薬のおかげで不具合は覚えないし、ティルドが今日明日中に発つと意気込んでいることもないから、急ぐこともない。
情報屋については話を聞いただけで、まだ利用したことはなかった。
聞いた通りに中心街区の〈みやこ坂〉路をきょろきょろしていると、それらしきところが見つかる。
意外にも繁盛をしているようで、ちょっとした人だかりができていた。見れば、祭りの間、何日の何刻にどんなことが行われるか、そういったことを案内しているようだ。やはり、普段の営業とは異なるらしい。
ユファスは、さてどうしようかと顎に手を当てて考え込んだ。肩の件はただの思いつきなのだから、人だかりと同じように祭りに関する案内を受けてみようか。面白い話が聞けるかもしれない。
そんなふうに思ったとき。
ふわりと、甘い香りが漂った。
「何か、探し物?」
色香のある声で、吐息とともに背後から耳打ちなどされれば、どんな意味でもぞくりとこない男もいない。その後の反応は人によって様々だろうが、ユファスが選んだのは――というより、ほとんど反射的にしたのは――ざっと一歩を進んで後方に向き直り、魔除けの印を切ることであった。
それを見たメギルはくすくすと笑う。
「……出ましたね」
ユファスが呟くようにすると、メギルは苦笑のようなものを浮かべた。
「人をお化けみたいに言わないで頂戴」
「驚かせて、惑わせる。似たようなものじゃないんですか」
返しながらユファスは、どうしたものか、と算段をした。
弟ならば躊躇わないだろうが、これだけ賑やかな場所で剣を抜く訳にもいかず、今日はアロダの救いも期待できない。
頼りは魔除けの腕輪だが、これは魔火を逃れることはできても魔女の誘惑までは「食んで」くれそうもなかった。
もし、魔法にかけられて「腕輪を渡せ」と言われたら、逆らえるだろうか――。
ユファスは鼓動が早くなるのを感じた。
「あら」
メギルは笑む。
「そんなに緊張することはないのよ、可愛い子ね。力を抜いたらどう?」
すっと近寄られる。退こうとしても、まるで根が生えたかのように足が動かない。ユファスの両肩に魔女の手が当てられた。
年上の美しい女性にそうされて逆に力が入らない若者も稀であろうが、まして相手が「魔女」であれば安堵などできるはずもない。
「やめてください。僕はあなたの思うようにはなりませんよ」
ユファスはどうにか、そう言った。
「あら、私があなたに――魔法をかけるとでも?」
「かけようとしたことがない、とは言わせません。僕はレギスでのことを忘れていませんからね」
心外そうに言うメギルに、ユファスはきっぱりと返した。女は笑う。
「勇気があるのね、魔女にそんな口を利くなんて」
「ティルドと似てるでしょう?」
口先で返しながら、頭のなかではいろいろなことを考えた。もしここで剣を抜いたら?
メギルは予測しているだろうか。
こうして彼の肩に手を添わせ、寄り添わんばかりにしている。
彼女はおそらく、ティルドにはこんなふうにしないだろう。弟は、惑わされるのされないのという以前に、魔女を仇と憎んでいる。魅了の魔術などは跳ね除けるだろう。
ユファスはメギルを警戒するし、メギルもそのことはよく判っているだろう。
だが、ティルドではなく、ユファスが彼女を殺そうとするとは、思わないのではないか? 街なかで、このような人波のなかでそのような真似をするはずがないと、油断してはいないだろうか?
この場で素早く剣に手をかけ、抜く動作と一連で刀身を見せることなく斬りつければ、油断して彼に張り付いている魔女の命を奪えるのではないか?
金の髪をした、きれいな女性。
これは、ライナを殺した女。
「ねえ、ユファス」
名を呼ばれるとくらりとした。このまま彼女の言葉を聞き続けるのは、いい方法ではないように思った。
ままよ、と青年は剣の柄に手をかけた。
うまくいかなかったら、町憲兵隊に捕まることは必至だ。うまくいけばなおさらで、祭りの人混みのなかで剣を抜き、女を殺したとなれば、凶悪犯罪者か狂人として拘束、裁き、絞首刑だって有り得る。
弟の場合はそこまで考えないが、兄は考えた上で、それでも剣に手をかけ、そして、それを――とめられた。
「いけないわ、坊や」
笑いと艶の込められた声に、同時に魔力が込められていることは、魔術の知識などなくてもはっきりと判った。彼の手は、屈強の戦士にがっちりと押えられたかのように一ファインも動かすことができなくなったからだ。
「そんな真似をしようだなんて、やっぱりティルドのお兄さんね。でも、駄目。あなたは私と仲良くするの」
「光栄だけど、お断りするよ」
引き攣った笑みを浮かべてユファスが返すと、魔女は楽しそうに笑う。
「魔力への耐性がついてきたみたいね?」
奇妙なことに、その声は満足の色を帯びた。
「魔女の術に惑わされないのはよいことよ、ユファス。それはあなたを破滅させますからね」
そう言いながら魔女は、そのまま彼を抱きつくようにした。ユファスは怖気が振るうのを感じる。
何故なら、彼はそれを振り払いたいとは思わず、むしろ抱き締め返したいと思っていることに気づいたからだ。
「これが魔女の技って、訳だ」
「そうじゃないわ、ユファス」
メギルは彼を抱いていた腕を放すと、彼の胸にうずめるようにしていた顔を上げ、ユファスの目をのぞき込むようにした。
「魔力の有無は関係ないの。女であればね」
白い指が彼の頬にまとわりついた。その爪が不気味なくらいに赤く、濡れたように光っていることが彼の心をどきりとさせる。
まるで、血のようだ。
「言ったわよね? ユファス、弟よりもあなたの方が、好みだって」
リグリスの魔女は絡みつくような声で囁くと、女友達を彼女に殺された青年に身体と顔を寄せ、ゆっくりと唇を重ねた。
高級娼館の春女の手管を知る王子にさえも快楽を覚えさせるその口づけは、まして、夜の世界にそう通いこんだ訳でもない青年にとって、全身の毛が逆立つほどに――甘美なるものだった。
そこで彼の理性のたがが外れなかったというのは何とも運のよいことというべきか、それとも隠しにある腕輪の力の一部であったか、はたまた彼らの姓が持つ、守りの力であるのか。
これは、ライナを殺した、女だ。
人の命を奪うことに躊躇いを持たぬ、魔女。
弟の恋人をその目の前で焼き殺した――悪魔。
ユファスは呪文のようにそれらの言葉を心に唱えた。
そうしなければ、そのまま女を抱き締め返し、熱烈な口づけを返してしまいそうだった。
恨みや怖れ、嫌悪でさえも全て愉悦に変わってゆきそうだった。
その感覚は何とおぞましく、同時に、悦びであることか。
ユファスは、小さく呪いの言葉を口にした。
騙されてはいけない。
これは、ライナを殺した――。
青年の呪文は、しかし二度目の口づけの前に粉々に打ち砕かれる。魔力を秘めた柔らかな唇は熟し切った果実のように甘く、男のどんな猜疑心をも溶かす力を持っていた。
彼には、魔女から彼を守ろうとする魔女は、いない。
青年の頭のなかから、拙い呪文は消える。
恋をしかけていた給仕娘の姿も。
この女を恋人の仇と憎む弟の、姿も。
ユファスの瞳から警戒の色は失われ、浮かされたような熱が走った。
冬至祭の日々、恋人たちが少しばかり熱烈すぎるのは珍しい話ではない。人前で繰り広げられる愛の行為に、人々は寛容だ。
そう、そのときの彼らは愛し合う恋人同士にしか見えなかった。
魔女は、満足そうに、笑う。




