07 絶対に、要らねえからな
「何を期待してるんだか知らないけど、海は、海だぜ」
「答えになってなーいっ」
投げやりな返答に、少女は不満そうに言った。
「見渡す限りに水があって、ものすごく大きいんでしょ? 地平線みたいに、水平線って言うのが見えるんだって?」
「まあな」
ティルドはうなずいた。当たり前のことだ。
「想像できないなあ」
「何で」
少年が判らないとばかりに言うと、少女は笑った。
「ティルドには日常だったかもしれないけど、見たことないんだもの。想像してはみるけど、全然違うような気もするし」
「だいたい合ってんじゃねえの。水がいっぱいで広くて水平線が見えて。そんなもんだ」
「ケチ」
「何でだよ!」
「もうちょっと、何かないの? 何かこう、詩的な言い方とかさ」
「そんなん、吟遊詩人に頼めよなっ。俺はただの旅人!」
「旅人! 格好いい!」
その言い様にティルドは力が抜けた。
「いいなあ、旅人。ねえねえ、ティルド」
「何だよ」
「あたしも旅に出たい」
その言葉にティルドは、カラン茶を吹き出すところだった。
「出たけりゃ、出ろよ」
「ケチ」
「何がだよっ」
「あたしも、連れてって」
「阿呆かお前はっ」
これは、アーリ以上に厄介かもしれない、とティルドは思った。
アーリも強引についてきたが、それには〈風聞きの耳飾り〉という目的があったし、善悪はともかくとして彼女は生きる手段も持っていた。どういう形なのかは知らないが、とにかく「いいとこのお嬢さん」であるらしいリエスが、海と旅への憧れで口にするのとは違った。
(――別に比較するつもりなんか、ねえけどさ)
ついそんなことを考えてしまったあと、そっと心で言い訳をする。
「だいたい、人を変態呼ばわりしたくせに、連れてってってのはどういう了見なんだよ」
「それは謝ったでしょ。それに、亡き恋人の姿を雑踏に見ちゃったなんてロマンだわ。あたし、そういうの、好き」
「だろうな」
顔が似ていれば感性まで似るものか、リエスの言い様はまるでアーリだった。
「何よ、馬鹿にするの」
「違えよ、馬鹿」
「馬鹿にしてるじゃないのっ」
「つーか、ちょっとおかしいんじゃないか? 連れてけなんて、冗談にしても面白くな」
「何よっ、失礼ね」
それが「おかしい」に対するのか「面白くない」に対するのかはよく判らなかったが、とにかくリエスは腹を立てた。
「よさそうな人だと思ったのに。私にずっとここでおとなしくしてろって言うのね。いいわ、判った。時間取らせて悪かったわね。はい、これお礼。それじゃさよなら」
そう言うとリエスは立ち上がった。
「待てよ、どうしたんだよ急に」
ティルドにしてみれば口調はともかくとしても、指摘は「至極もっともなこと」だ。ティルドでなくても、たいていの人間にとってそうだろう。
「それに礼なんて要らな」
「しつこいわね、受け取りなさいよ」
「『しつこい』はこっちの台詞だ」
そう言うとティルドも立ち上がり、リエスの肩を押して座らせようとした。
「触らないでよ、変態」
「あのなっ」
ティルドはぱっと手を離した。
「そんな言い方するなら、好きにしろ。但し」
彼は「礼」と言われて卓に置かれた封筒を強引に少女に持たせた。
「これは、絶対に、要らねえからな」
「そんなふうに意地張っ――」
言葉は続かなかった。その瞬間、少女の顔色は傍目に判るほど白くなり、その足からは身体を支える力が抜けたからだ。
「おいっ」
変態扱いされようと何だろうと、ここは抱き留めない訳にもいかない。そう考えたと言うよりはほとんど反射的だったが、ティルドは少女が卓や椅子に激突するのをとめた。
「あ――」
「おい、大丈夫か。お前やっぱ、どっか悪いんだろ。無茶しないで座れよ」
「違うわよ、こんなの……なかったわ」
リエスは意識こそ失わなかったが、その声は一気に弱々しくなり、言葉は途切れがちだった。少年少女の口喧嘩には言葉を差し挟まなかった店の人間や周囲の客たちも、少女のその様子には心配をしたらしく、近寄ってくる者もいる。
「どうしたんだ」
「医者を呼ぶか」
「大丈夫、です。少し、休めば」
リエスは弱い声のまま、笑みのようなものを見せて言った。
「ごめん。ありがと」
それは彼女を支えて座らせた少年に対する台詞だったようで、ティルドは意外な素直さに驚きながらも、大したことじゃない、などと言った。
「茶、飲めよ。それとも水がいいか」
「ん」
リエスは小さくうなずいて、水差しを取ろうとした。その手つきが危なっかしかったので、ティルドは先に水差しを取ると少女の杯に注ぐ。
「ありがと。優しいんだ」
「別に。普通だろ」
むっつりと言ったのは、特別に優しいことをしたと思わなかった事実のためもあるが、照れ隠しの意味もあった。
「先生の薬、持ってるか」
「持ってるけど、思ってたのと違うのかも」
「何が」
「だから、これ、女の事情とは関係ないのかも」
「何でだよ」
少年は少し困惑しながら問うた。問うていいものかはよく、判らなかったが。
「あのね、何て言うか、酷いときは動くのも億劫だったりするけど、今回はそれほどでもないし」
「気づかなくても調子悪いってことも、あるんじゃねえのか」
「そうかもね」
少女は悪い顔色のままで笑った。
「何でもいいから、薬、飲め。それで少し落ち着いたら、送ってやるよ」
「いいわよ、そんなの」
「よかねえよ、また道端で倒れたらどうすんだ」
その言葉にリエスは反論できないようだった。
ティルドは、予想以上にこの娘と深く関わることになったようだ、と思いながら、アーリそっくりな彼女に複雑な気持ちを拭えなかった。




