03 ある日を境に
ゼレットがその話を聞いたのは、ここタジャスのすぐ南、街道上にある宿屋兼酒場でだったと言う。
伯爵が言うには「連れの執務官がへたばって」とのことだったが、彼がそう口にしたとき、同席したガルファーという名の執務官は冗談ではないと言うようにわずかに首を振った。それは閣下の方でしょう、などと執務官は決して言わなかったが、表情には遠慮なく表れており、ヴェルフレストはそれを面白く思った。
「私はギーセスから少しばかり〈風謡いの首飾り〉の話を聞かされておりました。ですから、それが美しい音色を奏でること、そして砂漠に捨てられたという話は頭のなかにございました」
ゼレットはそう言うと、物語師が街頭で話をするように聞き手たち――ヴェルフレスト、ギーセス、ガルファー、それに王子はカリ=スも同席させた――を見回した。
と言っても執務官のガルファーや護衛であるカリ=スはその場で話を聞いていても、いないも同然だ。言うなればこれは王子と貴族たちの会談である。余程の問題を感じない限り、彼らが口を挟むことはないだろう。
「狭い酒場なれば隣の話などは丸聞こえでして、とある男の話を聞いたとき、ギーセスの物語を思い出したのです」
「物語ではない、記録だ」
男爵は友人の言葉に訂正を入れたが、ゼレットは特に気にしないようだった。
その男の話に入る前に伯爵は、馬鹿げた話やもしれませぬぞ、と前置いた。
それはヴェルフレストが一笑に付すのではないかといった不安のためではなく、本当は彼自身が一笑に付したいのだと言うかのようだった。
「私はあまり、魔術めいた話は好きではないのですが」
ゼレットは肩をすくめて言った。
「砂漠の新たなる伝説とでも申しますか。少し前から大砂漠の地で、砂風の強い日に歌を歌う魔妖が出るそうでして」
「……砂漠の魔物が首飾りを身につけていると?」
ヴェルフレストは――たいていの人間ならば非難めいた口調になりそうなところ――にやりとして言った。
「面白い」
ウェレスで聞いた話をよく似ている。あれは「噂をしている者の噂」というくらいの危うい話だったが、どうやらもう少し詳しく聞けそうである。
「殿下」
王子の言いようは毎度のことだが、そこにたしなめる呼びかけが入った。彼にとってはこれは「余程の問題」たり得たから、砂漠の男は王子と伯爵のやりとりに遠慮なく割り込んだ。
「砂漠に近寄ろうなどとは、決して」
「この話題になれば飽きもせずそれだな」
ヴェルフレストはカリ=スの、考えようによってはたいそう礼を失した――王子に対する失礼はいまさらであるが、余所の王に仕える貴族に対して――口出しを咎めはしない。ギーセスはカリ=スと場をともにするのは初めてであったが、非難する様子は見せなかった。ゼレットの方でも、身分のなさそうないかにも異国ふうの男が口を挟んだことに文句は言わず、むしろ王子よりも面白がってカリ=スを見た。
「そちらが噂の護衛殿ですか」
「噂。ウェレスで何か噂になったか」
「いえ、王城で諸侯方にご挨拶をする手間は省きましたので、聞いたのはガルファーからです」
伯爵が言うと、水を向けられた執務官はわずかに唇を歪めたが、何か言うことは避けてただ礼をした。
「悪い噂ではあるまいな」
ヴェルフレストは尋ねた。ラタンが姿を見せてからのカリ=スの警戒は厳しかったから、「エディスン王子はウェレス王の警護を信用せず、護衛の男をそばから離さない」と見られる可能性もあった。そんな話でもし王が機嫌を損ねていれば、彼の任務のひとつは失敗である。
「とんでもございません」
仕方なさそうにガルファーは口を開いた。と言うのは、彼はこの場に口を挟むことを可能な限り避けようと思っていたようだからだ。
「東国出身の見事な剣士、立派な護衛、身分ある方の連れだとおかしな威張り方をすることもない大人、そんな噂ですよ」
ずいぶん褒められたようだ、とカリ=スは会釈をした。ヴェルフレストは嬉しそうに笑う。
「そうだろう。これは大した男だ」
こちらの褒め言葉には、カリ=スは肩をすくめるにとどめた。
「俺はこのカリ=スの判断を信頼しているが、そなたの話が俺を砂漠に導くものならば、さて、どうしたものか」
「お待ちあれ。まさかギーセスや殿下に大砂漠に乗り込んでいただきたくて、このような話をするのではございません」
ゼレットはそんな言い方をした。
「続きを伺っていただきたい。そう言った魔妖が出ていたが、ある日を境に急に姿を消した、というのですよ」
「何だと?」
ヴェルフレストは眉をひそめた。ギーセスも同様にする。
「消えたと言うのか。それでは何の手がかりにもならんではないか」
「ほう?」
ゼレットは片眉を上げた。
「存外に狭量なことを言うではないか。お前は、この手の話は何でも好きだろうに」
「私の好悪ではない。わざわざ茶の席を設けさせておいて言うのがそれだけかと言っておるのだ」
ギーセスはぴしゃりと言ってからヴェルフレストに目を向けた。
「しかし殿下は、それだけでもご興味をお持ちになられますな。重要と思われましたでしょう」
言われたヴェルフレストは瞬きをし、それから苦笑した。どうやらギーセスは、ゼレットに対して不満は言いたいが、本当は重要と思っている、というところだ。複雑な友人関係である。
「そうだな。ギーセス殿の言われる通りだ。具体的な道を示すことはなくとも、それは首飾りの消息を考える上で重要な話だ」
そこでヴェルフレストは、しかしそのような指摘はせず、求められた返答をする。ゼレットは礼をした。その脳裏に、友人が気に入っただけあって賢い若者だ、というような年長者の評価が浮かんでいたとしても、彼は目下の立場にある礼儀を崩さなかった。
「ある日を境と言ったか。どの日だ」
「これはもう、伝聞の伝聞の伝聞の、おそらくはその何乗か、と言ったところでして、残念ながら」
伯爵は首を振った。王子は、ふむ、と顎に手を当てる。




