10 追われているのか
逃げ切ることができるものとは、思わなかった。
トバイは〈風見の指輪〉を求め、そのためにアドレアの魂を操った。魔の契約を持って彼女の処女を奪った男は、再会の折りに彼女の腕に傷をつけて偽のアドレアを植え付けた、それとも、真のアドレアを引き出した。
彼女がどれだけトバイを憎んでも、あの男が目前に現れて指輪を渡せと言えば、それに逆らうことはできないだろう。
逃げ切ることができるものとは、思わなかった。
それでも、逃げようと思った。
指輪を手に入れたも同然と思って、トバイは油断した。彼は、アドレアから痛い記憶を奪わなかったのだ。
もし奪われていれば、彼女は左手にはめた指輪を不審に思いながらも、ただトバイの訪れを待つことになっただろう。
それは、唯一の好機だった。
トバイが既に命じているのは、ヴェルニールトから指輪を受け取り、彼女自身のものとすること。
それ故、彼女はヴェルニールトに指輪を返すことはできなかった。だが、トバイは油断している。
まだあの男は、指輪を自分に渡すよう、命じていない。いまならば、指輪を持って逃げられる。
いや、どこまで逃げられるのか、エディスンを出ることすらできるのか、判らなかった。
それでもアドレアは逃げた。
トバイから。
それは同時に、ヴェルニールトから、でもあったろうか。
彼女が疎んだ「魔女」の力、アドレアがかつて持っていたささやかな魔力ではなく、闇が引き出した強い力の全てを使い、アドレアは自身をトバイから隠した。
風司はアドレアに力を与えるだろう。
トバイにとっては皮肉なことだろうが、それはまさしく予言となったかのようだった。〈風見の指輪〉を手にしたことで、アドレアはトバイから隠れ続けていられたのだ。
あの男は、傷を与えたアドレアのすぐ目前に、背後に、何度もその術で姿を見せた。そのときは彼女が記憶を持たず、警戒をしていなかったせいも大いにあろうが、記憶を持って警戒していたところで、指輪から得る不思議な助力がなければとうに見つかっているだろう。
だが、そもそも指輪を持たなければトバイは彼女を追わぬはずであるから、それは意味のない仮定だったろうか。
幾つも街町を越え、エディスンを遠く離れ、もしかしたら逃げられるだろうかと思った。
だが、どこへ、逃げるのか?
こうして、トバイの影に怯えながら逃亡を続け、そして指輪をどうするのか?
トバイが死ねば、彼女を縛っている魔力は解けるだろうか。そうすれば、彼女はヴェルニールトに指輪を返せるだろうか。
それはわずかな希望であったが、根拠はなかった。
施術者が死ねばその術が消えるというのは魔術師には一般的な考え方であったが、トバイは魔術師では、ない。
「ふむ」
面白そうな声に彼女ははっとなった。
「追われているのか」
それは、名も知らぬ小さな町の酒場であった。
魔術師の黒いローブは人々に嫌がられるが、アドレアはどうしても顔を見せたくなくて、そのフードをかぶり通したままでいた。
赤い瞳。
まるで、魔物のような。
「何者」
彼女は小さな声で言った。明らかに不吉な存在と思われる彼女に、わざわざ声をかける者など稀である。
「何者でもよかろう。お前は追われていて、怯えている。そして希望を燃やしている。だが、娘。逃げられぬぞ」
アドレアはばっと立ち上がった。
「トバイの、手の者!?」
「何だか知らんが、私は誰の手のものでもない」
そう言って両手を上げた男が魔術師であることは彼女には明らかだった。魔術師には、魔術師が判る。どんなに隠そうとしても、知れるのだ。
そして目前の、白い髪をした若い――若く見える――男は、かなりの力を持っている。
それもまたアドレアには明らかで、真っ向から勝負をしたら負けることは目に見えていた。
「ただ、お前は面白い」
「何ですって」
「面白いものを持っている」
その言葉に、思わずアドレアは左手を隠すようにした。
どうしても外すことのできない指輪。
愛しい人の、愛の証。
いまはもう消え去った、愛の。
「誤解をするでない、その品のことではないのだから」
男は肩をすくめた。
「面白い運命を持っている、と言ったところだ。他者に操らせたままでいるのは、惜しい」
そう言うと男は手を振った。アドレアはその魔術を打ち消そうと試みたが、既に遅かった。早かったとしても、敵わなかったやも、しれぬ。
小さな町の酒場は消え、彼女は奇妙な空間に移された。知識でだけは知っている、力の強い魔術師が作り出せる「何もない」空間。アドレアは胃の腑が縮まるのを覚えた。
「警戒するな。私はお前に逃げ場所を提供してやろうと言うのだ」
「目的は、何」
そう言われて警戒を解くどころか、警戒は増して当然だ。アドレアは相手を暗く睨んで言った。
「目的など、ない。強いて言うなれば、美女の苦しみを和らげることは男の喜びだとでも言おうか」
男が再び手を振ると、さあっと景色が変わった。突然の眩しさにアドレアは目をしばたたく。
「あれが避難先だ」
魔術師は細長い指で一点を指した。
「避難先?」
アドレアは繰り返した。
「意味が判らないわ、術師。あの町が、何なの」
それは、頑丈そうな石壁で囲まれた町だった。ずいぶんと堅牢で、町というより砦のようにも見えたが、奇妙なのはそれよりも――その町が砂漠に建っているように見えることだった。
「あれは追われる者が逃げ込む町。追う者は決して寄ってこられない。どうだ」
「どう、と言われても」
アドレアは戸惑った。万一にもそんな町が存在するのなら、逃げ込みたいところだ。だが、遠い町の片隅で震え続けていて、本当にトバイから逃げられるとはとても思えない。
「信じぬのだな。まあ、当然か」
男がまた手を振ると、砂漠の町の光景は消えた。
「このまま逃げ続けたいのならば、好きにすればよい。いずれ逃げ疲れて、捕まろう。いずれ、どころか、もうすぐ、だとは思うがね」
男は今度は何か印を切って、手を往復させた。一瞬浮かんで消えた映像は彼女の心臓を跳ね上げさせる。
「あれが、トバイか? お前さんを追っている相手。厄介なやつだな。尻尾は掴まれているぞ、あと数日も保つまい」
「どうして」
アドレアの声が震えた。
「私を――助けるつもりでいるの? どうして」
「言ったろう、美女が困っていれば助けるのが男の務めだ」
魔術師はにやりとした。
「捕まりたくないのなら、スラッセンの町を紹介する。ただ、迂闊に入ると出てこれんかもしれんがね。そのあたりはお前の意志の強さの問題だ」
それはずいぶんと「魔術的」な言い方で、たいていの人間ならば怖れをなすところだ。魔術師でありながらも、アドレアもまた、迷った。
だが迷ったところで、答えはひとつしかないようにも思った。




