09 そうあるとよい
乱暴に開けられた扉は、これまた乱暴に閉ざされた。
息を切らしてその場に立ち尽くす来訪者を娘は哀しい顔で見つめるしかなかった。
「信じて、いた」
ヴェルニールトの口から言葉は洩れた。
「俺はお前を信じていた、アドレア!」
「信じて、いたと?」
娘はすうっと王子に目線を合わせた。
「魔女の言葉を信じたのなら、それは何とも愚かなことだ――王子よ」
アドレアの声音は冷たく、かつて彼らが愛を語った日々を思わせる色はそこに少しもなかった。
「私を愛していたとでも言うのかい、ヴェルニールト王子。まさかいまでも愛しているとは言うまいね」
「本当に〈風見の指輪〉が目当てだったと言うのか。それで俺に近づいたと?」
「それ以外に何がある? 自惚れるでないよ。魔女アドレアがただの娘のように男を愛するなど、あると思ったお前が愚かなのだ」
「本心からそのようなことを言うのなら、お前はアドレアではない」
王子は吐き捨てるように言った。
「俺と愛し合った娘ではない! 俺の、俺のアドレアをどこへやった!」
「私は私だよ、ヴェル」
アドレアは胸の痛みを覚えながら、笑んだ。
「お前に愛を語り、お前から指輪を受け取り、風司の儀式を狂わせた魔女さ」
記憶はあった。全て、あった。ヴェルニールトを心から愛したことも、トバイの魔力に悦んだことも、彼女の心がヴェルニールトのものであっても、その魂はトバイのものであることも。
「近衛隊を引き連れてでもくるかと思ったのに。ああ」
魔女は思い出したように笑った。
「もう、いないのだったね」
「アディ」
ヴェルニールトの顔が苦痛に歪んだ。
「何故だ」
「指輪が」
アドレアは冷たい顔を――保った。
「欲しかったのさ」
「風司の力がお前に何の関係がある」
王子は声を硬くした。
「風神の力は魔術師のそれと何の関わりもない。風の力を欲したところでお前には操れん、魔女よ」
「だから、何だい」
魔女は静かに言った。
「指輪を返せと? そのためにきたんだろうね、判っているよ。まさか私に恨み言を言うためだけに、ここへやってきたとは思わない」
その言葉にヴェルニールトの片頬が歪められた。それはずいぶんと皮肉の混じった笑みだった。
「俺は、愛した女に捨てられたからと言って、贈った愛を返せと言うような男ではないつもりだ」
「――何を言い出すの」
アドレアはきゅっと目を細めた。
それは警戒するようにも見え、やはり痛む心に耐えるようにも、見えた。
「風司の証を魔女に捧げておきながら、それを取り返すつもりはないと言うの」
「俺は狭量な男ではありたくないんでな。騙されていたのだとしても、俺がお前を愛したことまでは否定はしない」
「馬鹿な――ヴェルニールト」
アドレアの声が掠れた。
「どうしてお前は、そのようなことを言う。私を憎むと言えばよいのに。幸せに思えた日々を呪えばよいのに。何故、そうしない」
「言った通りだ」
王子は苦々しい顔で言った。
「俺の心をお前が内心で嘲笑っていたのだとしても、俺がお前を愛したことは真実。指輪は、その証だ」
アドレアは胸が詰まるようだった。騙してなどいない、いまでも変わらず愛していると告げることができれば、どんなにか。
「だが、これ以上お前を愛し続けることは、できんようだ」
「当然ね」
恋人の言葉に魔女は薄く笑んでうなずいた。胸が、締め付けられる。
「去れ、アドレア。出て行け。二度と我が前に姿を現すな。そんなに欲しかったのならば、指輪は持っていくがよい。俺が俺の意志でお前に与えたものだ。だがもう〈風司〉に関わるな。そして二度と」
「二度と――エディスンの地は踏まぬとしよう。風司」
アドレアはヴェルニールトの言葉を先取るように言った。
「美しい指輪と愛を……有難う、ヴェル」
王子にはそれは、何とも皮肉に満ちた言葉に聞こえた。
だがそれはアドレアの本心であった。
エディスンの王家に伝わる〈風見の指輪〉は、代々王妃に送られるべきもの。
それを情熱にあふれた若き王子は、よりにもよって聖なる儀式に魔女を連れ込み、その指輪を彼女に捧げた。
吟遊詩人や芝居師の物語ならばそれは何とも劇的な展開で、聞き手や観客――殊に、恋愛物語を好む女たちには大喜びされそうな話である。
だが現実には、それはとんでもない混乱を引き起こした。
近衛隊が総出で魔女を追い、魔女は笑って怖ろしい火を放った。
魔女は、彼女の術に翻弄された王子を嘲笑い、エディスンの宝たる〈風見の指輪〉を王子から贈られたままで、姿を消した。
王城をいまも襲っているであろう大混乱から脱出した王子は単身で怖ろしい魔女を訪れ、魔女がその愛は偽りだったと告げても、指輪を彼女から取り返しはしないと言う。――彼の愛が真実だった証に。
いまとなっては、それはヴェルニールトの愛ではなく、誇り、意地にすぎぬとしても。
彼女はその指輪を自分のものにできないのだとしても。
「さよなら、ヴェルニールト・フェン・エディスン。指輪なきあとは、冠を大事におし。儀式に冠さえあれば、エディスンは安泰だ」
「……どういうつもりだ。予言のようなことを言って、また俺を騙すのか?」
「お前の愛への、礼だ。アドレアのささやかなる善き心を少しだけ、信じてみるとよい。指輪が既になくとも、お前は〈風司〉なのだからな」
「言われずとも、そうするとも。〈風読みの冠〉は決して、風司の手から離さぬ」
「そうあるとよい」
アドレアは瞳を閉じて言った。
「そうあると――よい」
遠い未来の運命は、娘の赤い瞳のうちにはいまだ、映らなかった。




