06 甘い、猛毒
娘はぞくりと身を震わせた。
小さな木の小屋は風通しがよかったけれど、このエディスンの地で「寒い」と感じるのは稀だ。
彼女がそう感じたのは、気候のためではない。
それは、突如覚えた、魔術の気配のため。
「恋人は帰ったようだな」
ほかに誰もいなかったはずの部屋に、耳障りな声がした。彼女は下唇をかみしめる。
「見ていたの」
「無論」
かすれたような声は、これまた耳障りな笑い声を立てた。
「いつもと同じこと。だと言うのに、お前はいつもそう尋ねる。恋人といる間は私とのことは忘れてしまうのだからな、仕方ない」
「何を……言っているの」
「すぐに、判る」
声は笑い続ける。
「情熱的でけっこうなことだ。どうだ、王子はお前を満足させたか」
「あなたには関係ないわ」
震える声を隠そうとしながらアドレアは言った。この男を怖ろしく思っていることなど、見せてはならない。
「そうつれないことを言うな、〈白きアディ〉」
すうっと骨張った両手がアドレアの背後から現れると、そのまま彼女の腰を抱いた。
「いまでは心も身体もあの王子のものか? いや」
片手が素早く下方に伸ばされ、娘の両足の間に触れた。アドレアは身をよじるが、もう片方の手は強く彼女を掴んで離さない。
「いや、こちらはまだ私のものでもあるな」
「やめて」
彼女の声に嫌悪が混じる。
「離してちょうだい、トバイ」
「そうはいかない。お前が如何に嫌がろうと、まだお前と私の契約は続いている。忘れた訳ではあるまい?」
「私の身体があなたのものだとでもいう契約? 冗談はやめて」
アドレアは必死で、彼女を探ろうとしてくる右手を押しのけた。
「淫魔のように契約をねじ曲げるのね」
「何と。可愛いアディ」
くっとトバイは笑った。
「曲げようとしているのはお前だ。それも、あの若い王子への恋心のために。愚かなことだな、本気で私から逃れられると思っているのか?」
言うとトバイはアドレアを無理矢理自身の方に向けさせ、そむけようとする顔を押さえて唇を合わせた。娘は男の顎を押すようにしてそれに抵抗するが、男の腕力にも魔力にも、やはり彼女は敵わなかった。
「美しいアドレア。そうして私を睨みつける顔すら、何と美しいことか」
トバイは笑った。
「王子には飽きるほど、甘い言葉を囁かれたろうな? だがあの若者はお前の真の姿を知らぬ」
「やめて」
声が、震える。
失われていた記憶が、戻った。
それは怖ろしい、魔女の言葉。
(愛しているわ、ヴェル)
(もう二度と、何があっても、私を離さないで。ずっと一緒にいましょう)
(王位継承権を捨てるなんてことは言わないで。私のために継いで)
(私のために、風司を――継いで)
彼女は、魔女だった。
王子を言葉と魔術で魅了し、求婚をさせる。
記憶は蘇った。
それは、彼らの愛の時間のうち、ほんの一、二分であったかもしれない。だがそれは、王子の心に甘い毒を注ぐには充分だった。
王子が彼女を妻にしたいと言えば、目を伏せてそれにうなずく。
そのあとで、自分のような魔女が認められるはずがないと涙を浮かべれば、王子は必ず認めさせると彼女を抱き締める。
それは、先ほどの彼女の反応とよく似ている。
ただ、わずかなうなずきが、その了承が、恋人を衝動に駆り立てる。
微量で、甘い、猛毒。
アドレアがヴェルニールトのために自身を抑えることと、アドレアが彼のためにそうしているとヴェルニールトが思うことは、異なる力を持っている。
その力は、青年をとろけさせ、燃え上がらせる。
その毒は、城を抜け出す悪癖以外は立派で聡明な王子と讃えられてきたヴェルニールト・フェン・エディスンを恋に溺れるただの若者にする。抱えていた街への責任と愛情よりも、娘の心と身体に夢中にさせる。
願い、信じれば叶わぬことなどないのだと、結婚という正式な形で魔女との愛を王家に、そして街びとに認めさせようと――。
何とまっすぐで、そして愚かなことか。
彼が王子でなければ。市井の男であれば。下級貴族あたりであれば。せめて次男であれば。
そうであれば彼は、駆け落ちという形を考えたかもしれない。
だが彼はエディスンの第一王位継承者で、風司の継承者だった。
(愛しているわ、ヴェル)
(もっと私を愛して)
(私を――あなたの妻に)
「あのようなことをさせないで!」
アドレアは叫んだ。
「何と!」
トバイは笑った。
「私がお前にさせていると? 強いているというのか? 何と、アドレア、我が魔女、お前はそんなに愚かなのか?」
「魔女」。
ヴェルニールトに言われればそれは愛の囁きであるのに、トバイに言われれば全く異なった。
「いや、お前は知っているな。知っていて言うのだ。私が操るのではない、あれらは全てお前自身のうちから出た言葉。お前の真の望み」
「私の望みの何が判ると言うの」
「判るとも、〈白きアディ〉。白くあろうと懸命な、可愛い娘よ。だが魔女たるお前に清きところなどない。術など使わなくとも、王子はお前の虜かもしれんがな」
トバイはアドレアの身体を撫でた。悪寒が走る。
「離して」
「頑張るのだな、可愛い顔をする。真実の姿はあれほど妖艶だというのに、こうしていればまるで少女だ」
「あなたの魔術で変えられる私のどこが、真実の姿なの!」
「変えてなどおらぬ、引き出すだけだ。我が魔力は心地よかろう? 我が力の下で悦ぶお前こそ、真実のアドレアぞ」
記憶は、蘇っていた。
若く情熱的な現在の恋人ではなく、暗い欲望を持ち、彼女自身をかけらたりとも愛してなどいない男に抱かれ、快楽の声を上げた日々。
昔のことではない。
トバイに再会をしたあの日から、いまも続く。
彼女は、怖しい事実に気づいた。
全身が、心が凍りつくようだった。
アドレアはヴェルニールトを愛している。だが同時に、トバイの魔力を愛している!
彼女はそれらを忘れさせられているだけだ。トバイが去れば、彼女は暗い記憶を持たぬまま、恋人の愛を欲する。
ヴェルニールトを騙すのではない。そのときの彼女は、何も知らぬのだから。
こうして、それを知らされるときに訪れる苦悩と苦痛。
王子の恋人ではない、トバイの愛人たるときの彼女はその苦しみさえも悦びに換えた。
「――お願い。もう、やめて」
「そうはいかぬ」
男の応えは早かった。
「王子を誘惑し続けるといい。風司はお前に力を与えよう」
「そしてあなたがその力を手にするのね」
「それならば、どうする?」
声は笑った。
「させないわ」
「無理だ」
トバイは首をゆっくりと横に振った。それはまるで、駄々をこねる幼子を優しく諭すかのようだった。
「お前は私の言うなりだ、アドレア。風司。何と素晴らしい。そのまま指輪を手にするのだ、魔女よ。そう、私のために」
「あなたの、ためになど!」
「いいや、お前は必ずそうするだろう」
男は嫌がる女にまたも口づけた。
「愛しい男を裏切るがよい、アドレア。お前に愛を語ったその声が、お前を呪い、罵るのを聞くがよい。愛などは諦めるのだ。お前は、私の――この〈欲食らい〉たるトバイのものなのだからな」




