04 別れの言葉
目を覚ましたときは、頭がぼんやりとしていた。
ここがどこなのか、いまが何刻なのか、眠りにつく前に自分が何をしていたのか、娘はさっぱり思い出せなかった。
身体に残るのは、充分に休んだとはとても思えぬ疲労感。
衣服を身につけていないことに気づいたが、隣に恋人の姿はない。ヴェルニールトは時間に追われることも多いけれど、城でどんな叱責を受けるとしても、必ず彼女の目覚めを待った。
そうできない何か重要な用事があったのだとしても、恋人と交わした愛を覚えていないというのは奇妙な話だ。
アドレアは首を振るとゆっくりと身を起こそうとした。
身体が、とても重い。
病の精霊でも得たのだろうか。頭痛もするようだ。
彼女は嘆息すると、起きあがることを諦めた。
いまはおそらく、朝だろう。夕刻まで休めばよくなるかもしれない。彼女はそう考えた。
占い師業はなかなかに厳しく、一日でも縄張りを離れれば、簡単に他者に取って代わられる。いつもの小路の奥、小さな店に法的な所有権などはなく、そこがアドレアの仕事場であるというのはただの慣習なのだ。
アドレアは重い身体を横たえた。
ここが、いつもの小路の奥にある小さな店の一角ではないことにすら気づかないまま。
自分がトバイに何をされたのか――抱かれたのか、それ以上のことなのかも、思い出せぬままで。
それに気づいたのは、ヴェルニールトだった。
「どうした、その腕は。傷か」
「傷?」
アドレアは首を傾げて、ヴェルニールトが触れた箇所を見た。見れば、確かに傷跡のような線が右腕の裏、当人はわざわざ腕をひねって見てみなければ判らぬ場所に走っている。
「どうしたのかしら。覚えていないわ。きっと、何かで切ったのね」
「こんなところをこんなに大きく切って、覚えていないと言うのか?」
王子は顔をしかめてそれを撫でた。
「ずいぶんと古い傷跡のようだ。だが、この前はなかっただろう。何かの魔術か」
「判らないことは何でも魔術なのね、ヴェル」
女魔術師が笑うと、ヴェルニールトはにやりとした。
「お前は俺の神秘だからな、美しい俺の魔女」
「魔女」というのは多くの場合において罵りの言葉だったが、ヴェルニールトがアドレアに言うときは、それは優しく甘い響きを伴った。彼の声で魔女と呼ばれるのは、嫌ではないどころかむしろ好きだった。
「お前はしっかりしているのに、おかしなところで鈍感なのだな。深い傷のようだ。うっかり切って忘れてしまうというようなことはなさそうだが」
王子はまた傷跡に触れたが、彼女は本当に判らなかったから、ただ肩をすくめるだけだった。
「それじゃ、きっと魔術だわ」
「何。お前が魔法にかけられたのか? それは、いかん」
ヴェルニールトは真顔で言うと娘の隣から身を起こし、そのまま彼女の上に覆い被さった。
「そんなものは俺が消してやろう」
「頼りにしてるわ、王子様」
くすくすと笑って、恋人は答えた。
それは、彼らの間でいちばん幸せなときだった。まだ誰も、ふたりの間を引き裂こうとしていないときの。
まだどちらも、その影に気づいていなかった――ときの。
乱暴な足音が小さな店に駆け込んできたのは、明け方だった。
「何事だ!」
ヴェルニールトはぱっと飛び起きると衣服よりも先に細剣を手にした。予期せぬ訪問客にアドレアは掛け布で裸体を隠すようにし、場合によっては呪文を使うことを考えた。
だがヴェルニールトは剣を抜くことはなく、アドレアも魔術を使うことはなかった。
彼らの逢瀬を邪魔にきた無粋な侵入者の正体は、王子のよく知る、近衛隊の姿だったからである。
「お探しいたしました、殿下」
「コードか」
彼は苦々しく、年の行った侍従長の名を口にした。
「何をしにきた」
「もちろん、殿下を本来いらっしゃるべき場所へお連れするため。そして、殿下を惑わす魔女を葬るためです」
「何だと」
その強い言葉に、王子は恋人の前に立ちはだかった。
「馬鹿なことを言うな」
おかしな真似をするのなら俺が相手だとばかりに、彼は細剣を強く握りしめた。
「失礼。言葉の綾というものです。まさか、正式な裁きもなしに王室が誰かを死に至らしめたり、ましてや近衛隊が暗殺者のような真似をするはずがありません。私が申し上げるのは、その魔女が二度と殿下に近づけぬようにするというだけのこと」
「馬鹿なことを――言うな」
ヴェルニールトは剣にかけた手の力を弱めたが、アドレアの前からはどかなかった。
「俺が、誰を恋人に持とうと」
「問題はあるのです、お判りでしょう、殿下。王位継承者たるあなたが、魔女の魔法にたぶらかされているなど」
「アドレアはそのようなことはせぬ!」
「しているかどうかはどうでもよいのです!」
若い怒りに燃えた王子に経験を積んだ侍従長は強く返した。
「あなたは賢い。ご存知のはずです、殿下。どうしても愛人が欲しいと言うのならば、陛下も考えられるでしょう。けれど、魔女はいけません。婚約者をないがしろにしている理由が、魔女との逢瀬を楽しむためだなどと知れれば、王位継承者の資格なしとして権利を剥奪されるやもしれませんぞ」
「そうしたければ、すればよい!」
「ヴェル!」
突然の出来事に身体と言葉を固まらせていたアドレアだったが、これには思わず叫んでいた。
「駄目、そのようなことを言っては。あなたはエディスンの王に――そして風司に、なるのだから」
「アドレア、だが俺は」
「駄目」
娘は首を振った。
「言っては、駄目」
アドレアは、掛け布をまとったままで寝台から降りた。近衛兵のなかには目のやり場に困って視線を逸らすものもいたが、コード侍従長はそれが魔女の手だと言わんばかりに彼女を睨みつけた。
「コード殿と言われましたか。お話は、よく判ります」
「アドレア!」
「黙って、ヴェル」
娘は恋人の叫びを制した。
「このような日が来ることは判っていました。私は、王子殿下を惑わす悪い魔女などと罵られ、エディスンを追われることは望みません。私はこの場所を退き、どこか街の片隅で静かに暮らします。どうかお裁きは、逃れさせていただきますよう」
その言葉にヴェルニールトは唸った。
「やめろ、アドレア。俺はお前を裁かせなどはせん」
「それは殿下のお決めになることではありません」
侍従長は厳しく言った。
「魔女。本気で言うのならば、認めよう。但し、再び殿下を惑わすようなことがあれば――」
「判っております」
アドレアは礼をした。
「そのときは、裁判でも、縛り首でも……火あぶりでも」
「よい覚悟だ」
侍従長はうなずくと、兵に合図をした。幾人かが進み出るとヴェルニールトの横に立ち、散らばっている王子の衣服を手渡す。王子はそれをしばらく睨みつけてから奪うようにそれを受け取って、身につけた。
「アドレア、俺は」
言おうとする王子を彼女は首を振って、再び制した。
「いいの。何も言わないで。――さよなら、ヴェル。素敵な日々だったわ」
はっきりと告げられた別れの言葉にヴェルニールトの舌は凍り、彼は顔を苦痛に歪めると近衛兵の案内に従って踵を返した。
それを見送りながらアドレアは、これが、ヴェルニールトを間近で見る最後だと思った。
もう二度とこの王子に抱かれることも、優しく魔女と呼ばれることも、ないのだと。
胸は激しく痛み、だが心のどこかで安心をした。
これで彼は無事だ。
もう、彼が魔女の魔法に身を委ねることはない。
そして、その考えに困惑をした。彼女は彼に魔術をかけたことなど、ただの一度もない。何故こんなことを考えたのだろう。
答えは出なかった。
ただ、突然の出来事に混乱をしているのだろうと、思った。




