03 血の契約
魔術師がその魔力を発現すれば、魔術師協会へ登録しなくてはならない。
それは古今東西変わらぬ事実で、どんなにささやかな魔力であっても、それを発するものは「魔術師」であった。
登録はしていても、それをひた隠しにする者もいる。魔術師などというのは疎まれ嫌われるものであったし、実際のところ、何分も集中してようやく鳥の羽を一枚、何ファインか動かすことができるような能力など、あってなきが如しでもある。
それでも魔力を持つ者は協会に登録されなければならなかった。
多くは未成年の内に魔力を発現する。そうなれば協会は彼らを教育した。ろくな素質を持たない者でも、最低限の知識だけは必ず叩き込まれた。
かつての協会では、明らかな幼子でない限り、初めて教育を受けるときにまず、清い身であるかどうかを尋ねられた。
神殿ならば、さもあろう。
現実のところは神殿は、聖職に就く前の行為については不問にすることが多く、異性を知っているからと言って神官になれぬということはなかった。
だが――魔術師にそのようなことが関係あると思う者は少なく、尋ねられた子供たち、若者たちはたいてい、目を白黒させた。
もちろん、なかには怒る者も多かった。礼儀を失していると激高して、二度と協会に近寄るまいとする者も。
そういったことが繰り返されるうち、「まずはじめに」その質問をすることを避ける導師も珍しくなくなった。学んでいけば知ることでもあるからだ。
だから――そのときの彼女は、知らなかった。
魔術師が初めて抱く、または抱かれる相手がもし邪な目的を持っていれば、知らぬうちに血の契約を交わされることがあるのだ、などとは。
トバイというのが、アドレアの「初めての男」の名だった。
その頃の彼女はまだ少女で、自身の魔力についてもよく判っていなかった。ただ、普通の少女と同じように恋に憧れ、よくある話のように危険な匂いのする男に身を任せた、それだけのことだった。
それは、彼女が魔術師となってからそれを学ぶまでの、わずかな隙間だった。彼女がその契約について知ったときには、遅かったのだ。
それでも、トバイがすぐに彼女とその魔力を好きに利用しようとすることはなかった。男にはほかにも手駒がいて、アドレアを必要とすることはなかったのだ。
彼女が、風司の息子と恋に落ちるまでは。
「幸せそうだな」
街なかで突然かけられた声に彼女はびくりとなった。
「新しい恋人か」
「――トバイ」
娘は戸惑った顔を見せた。
恋する男との逢瀬を楽しんだすぐあとにかつて惹かれた相手の姿を目にすれば、余程に恋の手練れでもない限り、動じるだろう。多くの女と同じようにアドレアは瞬時、反応に困った。
「久しぶりね。エディスンへ戻ってきていたとは知らなかったわ」
「そうであろうな。つい先ほど、戻ってきたばかりだ。――お前のために」
「何を言うの」
娘の目は細められた。
「あなたは何も言わずに去ったわ。まるで一夜、春女を抱いただけのように。情のある様子ひとつ見せず」
「あのときは、お前の価値を知らなかったのだ、アドレア」
男は両手を拡げた。
「美しくなったな」
「やめてちょうだい」
彼女を抱き留めようとするかのように拡げられた手からアドレアは目を逸らした。
「あなたを嫌うのではないけれど、私には」
「恋人がいる、と」
トバイは耳障りな笑い声を立てた。
「大した恋人だな。王妃の座を狙うか、アドレア」
「戻ってきたばかりだと言ったじゃない。どうして、あの人のことを知っているの」
アドレアは警戒するように言った。
「お前のために戻ってきたのだと言っただろう。私はお前の恋人のことを知り、それ故に戻ってきて、お前を見ていたのだ」
「どうして」
彼女は繰り返した。トバイは笑う。――嫌な声だ。かつては愛しく思ったこともあったのに、何故いまはこうして耳障りに聞こえるのだろう。
「風司」
男はゆっくりと言った。
「その力が欲しい」
「何ですって」
アドレアは一歩、退いた。
「どういう意味なの」
「そのままだ。ヴェルニールト王子は風司を継ぐ。〈風見の指輪〉を手にし、王妃に捧げるだろう。そのときにお前が王妃であるというのは理想的だな」
トバイは、アドレアが引いた一歩を寄った。
「馬鹿なことを言わないで。占い師が王子と結婚をするなど有り得ないし、それに、指輪ですって?」
「何も知らぬのか、魔女。何も知らず、ただ男の恋人を演っているだけか。それは魔女の端くれとして情けないな。力が欲しくは、ないのか」
「ないわ」
アドレアはまた一歩を退き、即答した。
「魔女などと不吉な呼び方をしないで」
「何と」
トバイは笑い、同じように一歩を踏み出す。
「可愛らしいことを言う。お前は魔女だ、アドレア。女だからではない。魔女ではない女魔術師も多かろう。だが、お前は魔女なのだ、アドレアよ」
「やめて」
彼女は更に退こうとしたが、トバイが近づく方が早かった。男は娘の腕を掴み、自らに無理に引き寄せ、そむける顔を押さえて口づけた。
「何をするの、やめて」
力ずくの口づけから必死で逃れ、アドレアはトバイの腕から離れようとする。だが男の腕力と――魔力はそれを許さなかった。
「忘れるな、アドレア。お前は俺のものだ。お前の破瓜を知る、この私のな」
「馬鹿なことを言わないで。女は全て、最初に抱かれた男のものだとでも言うの」
「何と」
トバイはまた言った。
「愚かだな。まだ知らぬのか。お前の師は教えなんだか、初めて交わる男には重々気をつけるように、と」
「――まさか」
アドレアの顔が白くなった。
「あのときに、まさか」
「哀れな幼子よ。魔陣の何たるかも、お前は知らなんだな。私が陣を張り、網を張ったその上で、お前は私に抱かれた。契約は済んでいるのだ、アディ」
「嘘よ」
その声は弱かった。
「信じないわ」
「信じずともよい。すぐに、判る」
トバイの手が、アドレアの目の前で奇妙な印を結んだ。それを返そうと反射の印を結びかけた娘の手は、押さえつけられる。彼女は、目の前が霞んでいくことを知った。
「お前は私のものだ、〈白きアディ〉」
そう呼ばれた魔女は、トバイの腕のなかで意識を失った。




