02 運命の日
宮廷を抜け出して街に行くのは、若い第一王子の悪い癖だった。
北の街はいつでも暖かかったけれど、その土地に暮らす者にとってはそれなりの変化がある。春と言われる季節に近付けば、どことなく幸せな気分になるものだった。
彼はこの季節、港へ行くことが好きだった。見張りの目をごまかして裏門から抜け出し、街をうろついては船着き場へ行って、風に当たりながら行き来する船を眺めるのだ。
侍従長はかんかんだろう、と彼は思った。
だが、いつものことだ。
彼はその日も、優雅な足取りでエディスンの城下をさまよった。
街は変わらず賑やかで、活気にあふれていた。
ここはいつの日か、彼の支配する街となる。それは喜ばしいことだった。王位を継ぐことは生まれながらに課せられた使命で、それには悦楽よりも重責が伴うことは理解しているつもりだったが、彼はエディスンを愛していたから将来の労苦を想像してそれを厭うことはなかった。
ただときどき、宮廷は息が詰まるのだ。
両親のことは好いているし、口うるさい侍従長も彼を案じて説教をするのだと判っている。務めである勉学も、厳しい教師が多いが、学ぶことが自身とエディスンのためになることは承知だ。
日に日に行われる宴に赴くことも嫌いではなかった。
耳に心地よいばかりのおべっかやら寄ってくる姫たちやらにはいささか食傷気味だったが、そう言った席で行われるちょっとした政治や諸侯たちの策略を見抜くのは面白かった。
彼は立派な「王子」であったけれど、その分、息が詰まるのだ。
その日も彼は王宮を抜け出し、街を歩いた。
幾度もやっていたことだ。彼にとっては珍しいことでもない。
だがその日は、運命の日だった。
先に声をかけたのは、ヴェルニールトの方だった。
宮廷で美しい女ならば飽きるほど見ていたし、第一王子である彼に気に入られようと寄ってくる姫君はあとを絶たない。婚約者がほぼ確定してからも、それは大して変わらなかった。身分上、最初から正妻は無理だが愛人なら滑り込めると考える姫、或いはその父も少なくないからだ。
それ故、彼は美しく飾り立てた女など見飽き食い飽きであって、たいていの若者ならば覚えるであろう女性への憧れや幻想、或いは判りやすくも肉体的な欲望、というようなものをほとんど抱いていなかった。
だから、彼は自分が信じられなかった。
ただの市井の娘、化粧もほとんどせず、飾り玉ひとつその髪に身につけていないひとりの娘から目が離せなくなるなど。
「何か、魔法を使ったか?」
それが、初めてヴェルニールトがアドレアに対してかけた言葉だった。
「初対面だというのに、いきなり魔女呼ばわりをするの?」
呼び止められた彼女は皮肉混じりの口調で答えた。ヴェルニールトは謝罪の仕草をする。
「すまぬ。そのような意味ではないのだが」
彼は咳払いをした。
「魅了の魔術というものがあるのなら、こういうものかと思ったのだ」
「魔術に詳しいのね」
彼女は笑った。
「それに、女の誘い方。王子様はそういう勉強もするの」
ヴェルニールトは片眉を上げた。
「何故、知る。本当に魔女か」
「少しばかり服装を替えてみたって、エディスンの王子様の顔はよく知られてるのよ」
「ふむ」
第一王子は返す言葉を考えた。街に出れば彼は可能な限りそれを隠そうとしていたけれど、冗談にも大成功とは言えなかったということか。
「そうよ、王子殿下。私があなたの正体を見抜いたことは、私の魔力とは関係がないわ」
「成程」
彼はにやりとした。
「では本当に、魔女なのか」
「それだったら、何なの?」
女は肩をすくめる。
「魔術師ならば敬意を払われることもあるけれど、女が魔法を操れば『魔女』と罵られるばかり。これって差別じゃないかしら。エディスンの地でそんなことがまかり通っていいの? どうにかしてよ、王子様」
「ヴェルだ」
王子は片手を上げて女の弁舌をとめた。
「何ですって?」
「知ってるかもしれんが、俺はヴェルニールトという。両親や近しいものたちはヴェルと呼ぶ」
「ヴェル」
女はその響きを確かめるかのように繰り返した。
「私は、アドレア。占い師よ」
「そうか。では、アドレア、俺の運命を占ってくれ」
気軽に言う王子に女占い師は眉をひそめた。王宮には神官が仕えていると言うし、魔術師の類はたいていが鼻つまみもので、高名で「仰々しい」占い師ならともかく町の「卑しい」占い師が王族の未来を占うような機会など、間違っても、ない。
「――アドレアの星見は高いわよ、ヴェル」
「エディスンを寄越せとでも言い出すのでなければ、いくらでも払ってやる」
王子が笑って言うと、アドレアはまた眉をひそめた。
「そういうことを軽々しく言うもんじゃないわ。言葉の力は強いのだから」
「それは、魔術的だ」
「魔術師だもの」
アドレアは澄ましてそう言うと、ヴェルニールトが本気で「占え」といったのかどうか計るように彼の顔をのぞき込んだ。
「お前の仕事場はどこだ。それとも、夜にならねば商売をしないか」
「雰囲気だけ作って出鱈目を口にするいかさま師とは違うわ。本当の占い師ならば、いつどこでだって占える」
証明しようと言うように、アドレアは両目を閉じるとヴェルニールトの方に手を伸ばした。王子はぱっとそれを握る。
「……ちょっと。王子様」
アドレアは目を開けると不満そうに言った。
「ヴェル、だ」
彼はにやりとした。
「このような道端でない方が、俺はよいな」
それは、彼女がささやかな魔力を持つだけの占い師であった頃の物語。まだ、彼女が〈白きアディ〉と呼ばれる前。
情熱に心と身体を焦がした日々の――。




