01 アドレア
びゅうと風が吹いた。
岬に吹く海風は強かったが、彼はそれを好いていた。
城へ戻れば、また海辺へ行ったとすぐに知れるだろう。衣服には潮風の香りがすぐにつくし、風呂にでも入らされれば髪がべとついていることも知れる。忠実な使用人はそれを侍従長に報告するはずで、そうすれば侍従長が若い王子に長々と説教をすることは間違いない。
しかし彼はそんなことは脇に置いた。
侍従長の説教も、父王の叱責も、どうでもいい。
彼はこの場所が好きなのだ。
そして――ここで出会う、娘が。
「呆れた」
本当に呆れたような声が背後で呟かれた。彼はにやりとする。
「またやってきたの。いい加減にしたら」
「何を言う、俺が来なければお前は泣くだろう」
彼は振り返ると愛しい娘を眺めた。
日に輝く茶金髪は風を受けて流れるようだ。不満そうに口をとがらせているが、淡い茶色の瞳に浮かぶ喜びは隠しきれなかった。
「泣くですって? 私が?」
娘はやはり不満そうな口調を作りながら言った。
「私がそんな女だと思うの、ヴェルニールト」
「どうかな」
ヴェルニールト王子はにやりとした。
「そうであればいいなと思っただけだ」
娘は演技をやめて笑った。その笑みからは若さと美、そして幸せがこぼれるようだった。
「会いたかったわ、私の王子様」
「俺もだ」
王子は言うと美しい娘に駆け寄るようにして、そのまま抱き締めた。
「会いたかったぞ、アドレア」
彼は娘の名をその耳もとで囁くと、若い情熱が湧き上がるままにアドレアに口づける。愛に満ち足りた恋人たちを見守るのは、海の神アリスレアルと風の神イル・スーンのみ。ほかには誰もいなかった。秘密の恋人たちの逢瀬は、エディスンの二大神に守られているかのようだった。
互いをむさぼるかのような口づけは、終わりを怖れるかのように長く激しく、離れがたい思いを断ち切るかのように続いた。娘が、そっとうつむくまで。
「また王宮を抜け出してきたのね」
「そうしなければ、お前に会えん」
青年の返答はきっぱりとしていた。娘はその腕のなかで身じろぎをする。
「でも、いつまでもは続かないわ」
「続けさせる」
それが王子の答えだった。
「俺はお前を離さない。アディ、俺の魔女」
ヴェルニールトの腕はアドレアを強く抱いたままだったが、娘は恋人の胸を押しやるようにして、わずかにため息をついた。
「そう、私は魔女。みな、知っているわ。エディスンの王位と〈風司〉の地位を継ぐものが、魔女が操る魅了の術にたぶらかされていることもね」
「馬鹿なことを」
ヴェルニールトは青い瞳に苛つきを宿らせた。
「お前が俺に魔法など使っておらんことは承知だ」
「どうしてそう言いきれるの? 確かに私には、その術を使うだけの能力があるわ」
「魔術を使ったと言うのか? ならばそれを解いてみろ、それでも俺はお前を愛していると言う」
彼の返答に躊躇いはなかった。娘は王子の胸に頭をもたせ、猫のようにすりつける。
「愛しいヴェル。あなたがそんなだから、私はつらい」
「何故だ。第一王子との恋など実らぬというのか」
「実ったわ。あなたがこうして私を抱き締めてくれる、それだけで充分。私は一度だって、王子殿下の正妻の地位など望んでいない」
「俺は」
ヴェルニールトはアドレアの顎に白く細い指をかけた。
「俺は、望む」
「それこそ、馬鹿なことだわ」
アドレアは彼の手から逃れるように顔をそむけた。だが王子は娘の顔を強引に自分の方へ向けさせると、また唇を重ねた。
「やめて、ヴェル」
「やめぬ」
ヴェルニールトは熱い吐息を恋人にかけながら言った。
「アドレア、お前は美しい。お前のほかに女など要らぬ。お前のためならば、王の地位も風司の地位も要らぬ」
青い情熱にあふれた言葉は娘の胸を熱くし、瞳を熱くした。
「ああ、ヴェルニールト」
アドレアは零れる涙をそのままに、今度は彼女の方から恋人の唇を求めた。
愛し合う恋人たちは、それでも、知っていた。
たとえどれだけ、心の底からそれを願おうとも、エディスンの第一王子がその地位を――継承権を捨てることなど、決して、できないのだと。




