06 そこにいたのは
どうやら、この冬は例年より暖かいという話だ。
厳しいと言われるよりは余程ましだったけれど、いったい、これのどこが暖かく過ごしやすいのだろうと、ティルド・ムール少年は分厚い防寒着のなかで縮こまった。
兄ユファスが言うには、アーレイドの街とこの〈ビナレスの臍〉と呼ばれる大きな自由都市フラスの冬はよく似ているそうだ。
アーレイドは海から温かい風が流れ込むためか、同緯度の他都市よりも温暖だと言う。フラスはそれよりもいささか南となったが、冷たい風を遮る南の山があるためか、寒さは決して厳しくない。
レギスから東へ向かおうとしたティルドたちだが、ちょうどよい馬車や隊商が見つからないままで、ここフラスの街までやってきていた。この自由都市からならば、乗り合い馬車も商売人も様々な方角に出かけていく。
「――〈冬至祭〉だってな」
ティルドは物珍しそうにあたりを見回した。
「アーレイドでもあったのか?」
「そうだね、あったよ。まあ、雪の女神様の脅威を本気で怖れるほど寒いところじゃなから、形式と言うか、文字通りお祭りだけどね」
「どんなことするんだ?」
少年は興味深く問うた。兄は思い出すように目を上に向ける。
「街の中心には、〈雪の三姉妹〉の像が飾られる。その前で催し物があったり、神官が祈りを捧げたりするらしいよ」
「らしいって、お前」
「僕は城から出られなかったもの」
というのが城の厨房で働いていた兄の答えだった。
「祭りの時期は、休みを見つけては城下に遊びに行く人間が多かったから、用意する皿の数は減るんだけどね。ちょっと手の込んだ祝いの料理を出すこともあったし、主人が厳しくて街へ出られない使用人たちのためにささやかな宴を開いたりすることもあった。何だかんだで仕事はあってさ」
この祭りに馴染みがないのはティルドとそう変わりない、とユファスは言った。
「〈風神祭〉みたいだな」
そう聞いたティルドは首を傾げた。
「この祭りが? 似てるのか?」
ユファスは十年前、エディスンで〈風神祭〉を経験している。ティルドの方も経験はしていたが、まだ幼い頃だったためか、何となくしか覚えていなかった。
「こっちは、神様に力を奮わないでくれって願う祭りで、あちらは加護を願う祭りだから、そういうことを言えば根底から違うんだろうけど」
言いながらユファスは周囲を見回した。
「何て言うのかな。暗いところがないんだ。年越しの祭りみたいに、去り往く年への哀愁だとか、新たな年へのすがるような希望だとか、そういったものがない。ただ、寒すぎませんようにって祈る。シンプルだ」
そこが似てるような気がする、とユファスは呟いた。
「別に俺は、去る年を惜しんだこた、ないけどな」
「だろうね。君はまだ若い、弟よ」
彼はにやりとした。
いささか弟とは年が離れているとはいえ、二十代の半ばになろうと言うユファスは、一般的に言えば十二分に若い。ハレサあたりが聞けば苦笑で迎えられそうな兄の台詞は、弟には「笑い」のない表情、つまり苦い顔で迎えられた。ティルドにとって「若い」は「幼い」「子供だ」と同義である。
「誰がガキだ」
「ガキと言われて腹を立てるのはガキの証拠――だと、言われたことはない?」
「そう言われたことはないけどさ」
少年は嫌な顔を思い出した。
「腹黒鳩やらお偉い盗賊やらに、ガキ扱いは散々、受けた」
グラカからいくつかの話を聞きだしたハレサは、その後しっかり、ティルド少年に手数料を要求してきた。
大した金額ではなかったが、アーリの仇を探し出すために善意で協力をしてくれると信じていたハレサにそんなことを言われて呆然としたことは事実だった。そのときの盗賊の言葉ときたら「見返りを要求しない盗賊なんぞ、情報を垂れ流しにする情報屋より信用がおけない」である。「〈盗賊と魔術師の善意には気をつけろ〉という言葉もあるな」などとも言った。
こちらから依頼したのであればともかく無償の協力と見える形だったことや、そもそも金を取るなら先に金額を提示すべきではないかとティルドとしてはもっともな指摘をしたのだが、そのときにも「ガキだ」と笑われた。
そんな訳で、彼は情報屋とともにハレサも罵るのだ。
「彼らは、僕たちとは違う感性を持っているんだろうなあとは思うけど」
詳細を知らないユファスは笑って言った。
「それじゃレギスでのことは忘れて、ここでは大人の対応と行こう。喧嘩して捕まったりするなよ」
ハレサが言えば痛烈な皮肉だが、ユファスのそれは単なる心配であった。いや、それとも少しは、皮肉が混じっただろうか。
「喧嘩なんかしねえよ。売られりゃ別だけど……まあ、我慢するさ」
兄弟がアーレイドから旅に出るに当たり、簡単な約束として「夜に食事をする場所と時刻を定め、待ち合わせてその日の話をする」「ほかに用事ができればもちろん自由にしてかまわないが、夜には必ず宿に戻る」「戻れない事情が発生したのであれば可能な限り伝言を送る」といったことを決めていた。それは彼らがエディスンで暮らしていた頃の応用で、互いへの関心を忘れないことと、干渉しすぎないことが目的だった。
レギスまではそれでもよかったが、魔女メギルが彼らの前に現れてからは、互いに単独行動が案じられるようになった。
かと言ってずっと一緒というのはたとえ仲のよい兄弟でも息が詰まる。また、アロダ魔術師が注意して見てくれると言っても、ティルドは魔術師が信頼できずユファスは魔術師の負担を案じて、容易に任せきりにもできない。
それらの折衷案が、ひとりでいる時間を短くすることだ。完璧な解決法ではないが、無難な回答だろうと思うことにしていた。
〈冬至祭〉がはじまろうというこの街で、彼らは日暮れ前の一刻ほどをそれぞれの時間に充てた。彼らは互いに、自身の兄が、弟が、可愛らしい女の子でも見つけて明るい気分になれればよいな、などと自身を棚に上げて考え、手を振ってそれぞれで街を見て回ることにしたのだ。
それは、天気のよい日だった。
ティルドにとっては空気は冷たく、鋭く吹く風は肌に痛い。
だが風のおさまったその午後は、凛と張った空気は心澄ますようであり、眩しいほどなのに痛みを伴わぬ日射しはまるで意味のない夢を見ているようだった。
(太陽が暑くないなんて)
(何の冗談だか)
冬は真っ盛りというところだが、いかんせんこれには慣れなかった。
それとも、いつの間にか慣れるのだろうか。この、幻のような太陽にも。
ふわり、と風がティルドの頬を撫でた。
それは冬至の時期に吹くにはずいぶんと優しく、だが冷たい風にこそ慣れない少年はその風に違和感を覚えなかった。
ただ、何となく懐かしいような気がした。彼はその風を愛しく感じるかのようで――。
風に誘われるように肩越しに振り返ったティルドの暗い色の目は、猫のように真っ黒く見開かれた。
次の瞬間には、頭よりも口よりも先に、手が動いていた。
ティルドはその細い手首をほとんど反射的に握り締め、何も考えぬままで叫んでいた。
「アーリ!」
そこにいたのは、艶やかな黒髪と黒い目を持つひとりの少女。
彼をからかい、よく笑い、不意に涙を流し、彼を困らせ、愛おしい思いにさせた、その娘。
魔女に、その炎で――燃やし尽くされた。
「何、すんのよ!」
少女は黒い瞳を驚きに見開き、その次には怒りに細くして、掴まれた腕を振り払おうとした。だが少年の手はしっかりと少女の腕を掴んだままだ。
「ちょっと! 離しなさいよ、この、変態!」
「あ――いや」
ティルドはうろたえて、力を弱めた。
アーリでは、ない。
アーリのはずはない。
あの娘は、死んだのだ。
あの日、彼の、目の前で。
「ごめん。知ってる娘に、よく――似てたから」
少年はようよう、そう言った。声は震えなかった。その代わりに、離した手が、震えるようだった。
「……ふうん?」
少女はすぐに怒りを収めたようだった。ティルドの胸は針で刺されたような痛みを覚えた。鼻にかけたような声、その言い方まで、よく似ている!
「まあ、使い古された手よね。『どこかで会ったことがあるかい?』なんて。言っとくけど、そんな単純なやり方にはひっかかんないわよ」
「そんなんじゃねえよ」
ティルドは否定した。
「本当に、よく、似てるんだ」
彼は目前の少女をじっと見、眩しいものを見たかのようにすぐに目を逸らした。――似ている。とても、よく。見れば見るほど。声を聞けば聞くほど。別人とは、思えぬほど。その、口調まで。
「ふうん」
少女はまた言った。
「なかなか演技が上手だとは思うけれど、あたしは忙しいの。誘いならまたね」
「待っ――」
ティルドは言いかけて、口をつぐんだ。引き留めて、どうする? どんなに似ていても彼女はアーリではない。当然だ。アーリは、死んだ。
少年が唇をかみしめて街なかにたたずむうち、少女はもう、雑踏に姿を消していた。




