02 物語ではなく
「このような身体故、書物は長年の友人でして。研究とまでは行きませぬが、薄っぺらい知識でしたら無駄なほどに多く持っております。ひょっとしたら風司というのは風謡いの首飾りと関係があるのかと考えたこともございましたが、もしや」
「それだ」
ヴェルフレストは杯を置くと薬指で卓をとんと叩いた。
「そなたはその首飾りを知っているのか」
男爵がこの詩的な名前を臆することなく口にするので、ヴェルフレストはそんなふうに感じて問うてみた。男爵は微妙な表情を浮かべる。
「見たことがあるのかというご質問ならば、『いいえ』です、殿下。私が知るのは伝承のみでして」
「では」
風司の息子は、両手を組んだ。
「それを聞かせてもらいたい」
ギーセスは戸惑ったようだったが、階級が上の人間に従う仕草をすると、思い出すようにしながら語り出した。
〈風謡いの首飾り〉というのはその名が示すように「風を謡う」――と。
「風を謡う?」
「何も首飾りが声を発して歌を謡うというのではありません。これは詩的な表現でして、それを空にかざせば風が吹き、その風によって美しく鳴ると言うのです」
「成程」
王子はその情景を想像しながら言った。
「確かに、詩的だ」
同時に彼は、商人の話を思い出す。首飾りを付けた魔物が歌を歌うという話。風に鳴る首飾りを身につけていると考えれば、それはもしや本当に――?
もっともこの場でヴェルフレストはその話をせず、ギーセスの言葉に耳を傾けていた。
男爵は語った。その音色は美しく優しく、かつて人々の心を慰め、癒したと。
「そう、かつては」
男爵は繰り返した。
「悲劇を目の当たりにしたその日から、それは呪いの首飾りとなったのです」
「今度は、魔術的だな」
ヴェルフレストは茶化すでもなくただ言った。
呪いの力を持つようになった装飾品はそれまでに増して美しく魔性の音を奏でるようになった。それは人々を魅惑し、その所有権を巡って怖ろしい争いごとが起きた。
「妻は夫を謀り、夫はその父を殺し、息子がまた父を殺し、隣人が息子を殺した。見かねた賢者が首飾りを遠くへ持ち去ることにし、それが姿を消したことで平和が戻ったと言います」
それは、リーンが語った話の通りだった。詩人は「呪い」だとは言わなかったが、単にそうは聞いていなかったからか、それともあまり魔術的な歌にしたくなかったのかもしれない。
「伝説、か」
ヴェルフレストが呟くように言うと、しかしギーセスは首を振った。
「実は記録も存在するのです、殿下」
「何だと?」
ヴェルフレストは片眉を上げた。今度はギーセスはうなずく。
「それは確かに、このタジャスの地で起きたことだと」
ギーセスはそう言って物語を――それとも歴史を語り終えた。
王子はその言葉を考えようとするかの如く視線を落とした。
「物語ではなく、この地の歴史とな」
「ええ」
ギーセスはまたうなずいた。
「かつて〈風謡いの首飾り〉と呼ばれる宝飾品は確かにこのタジャスの地にございました。そして凄惨な事件が起こり、『呪われた』として遠くへ持ち去られた。それが何を意味するのか、何かを意味するのかは存じません。呪いの品を思い起こすと申し上げるのは失礼やもしれませんが、〈風読みの冠〉は似た印象をもたらす名でしたので、記憶に残りました」
それ故〈風神祭〉の名も知り、エディスン王陛下が〈風司〉の称号を持たれることも知っております、とギーセス。
「ふむ」
ヴェルフレストはずっと組んでいた両手を解き、ゆっくりと腕を組んだ。
「首飾りと冠。それらが関わるか、関わらぬか、正直なところを言えばどちらとも判らない」
曖昧な沈黙が降りた。困ったように、ギーセスが声を出す。
「この話をお求めになった理由を問うてもよろしいですか」
「かまわぬ。かまわぬが」
ヴェルフレストは皮肉が顕れぬよう、注意して笑った。
「私も判らぬのだ」
この返答にギーセスは少し驚いた顔をして、それからやはり笑った。
「では、殿下は運命の探求者でいらっしゃる」
「何と。そなたに対しての印象をまた改めねばならんな。まるで詩人のようだ」
「恥ずかしながら、志したこともございます」
ギーセスは弦をつま弾く真似をした。
「私は幼い頃から身体が弱く、外に遊びにいくこともままならぬ子供でした。両親はそんな長男を哀れんで、館によく吟遊詩人を招きました。クラーナはそのひとりです」
ヴェルフレストは、そうか、と言いかけ、待てよ、と思った。
ギーセスは年を取って見えるが、それは病のせいで、もしかしたら三十前であったりするのだろうか。まさか、リーンの見た目が年齢より若いとしても、せいぜい三十代半ばくらいであろう。いくらなんでも、六十七十ということはあるまい。
ヴェルフレストは素早く考えて、リーンがずいぶん早くから旅に出ていて、十五くらいでタジャスを訪れたと仮定してみた。二十年前として、男爵が相当老けて見えるならば、二十年前に子供であることもあるかもしれない。それくらいならかろうじて計算が合うし、男爵がリーンの記憶力を褒めたこと判る。などと彼は思ったが、尋ねれば非礼に当たると思って口をつぐんだ。
「ならばご父母君と詩人たちに礼を言わねばならぬな」
ヴェルフレストは口にしてはそう感想を述べ、感謝を表わす仕草をした。
「ご両親は」
「既にコズディムの御許へ」
その言葉に来訪者は追悼の仕草をし、館の主は返礼をした。
「妻も、病持ちの私より先に逝きました。いまや私の身内は娘がひとり。性質の悪い男に入れ込んでおりまして閉口しております」
男爵は苦々しい口調で言った。
「殿下にお目にかかることで、真っ当な心を取り戻してもらえればと思うのですが」
その言いようにヴェルフレストは片眉を上げた。
「いかにも私は王の子だが、継承位も低ければ、遠方の出ぞ。軽々しいことは言われぬがよかろう」
王子がそう言うのは不興を示してではなく、意外に思ったからだった。彼の身分に追従しようなど、聡明に見えるギーセス男爵らしくないように感じたのだ。それに、男爵が若いのなら、結婚が早くても娘はまだ成人していないのではなかろうか。
「畏れ多い。左様なことを考えているのではありませぬ」
ギーセスは慌てたように首を振った。




