04 惜しいわね
〈銀色の弦〉亭に足を踏み入れた青年は、落ち着かなげに店内を見回した。
そこは彼がこれまで数えるほどしか訪れたことのないタイプの、ずいぶん洒落た店であった。
吟遊詩人の奏でる静かな調べがやさしく響き、白を基調とした壁には派手になりすぎない程度に絵画が直接に描かれている。題材は主に天使と音楽であるようで、白い羽根を持った美しい生き物が弦楽器を手にした様子などが品のよい色彩で描かれていた。
給仕をする店の人間は男も女も若く、なかなかに整った顔立ちをしている。女性の化粧は薄めで、髪はきっちりと結い上げられていた。男の方も清潔感が感じられ、軍と厨房という、どうにも男臭い職場を経験してきたユファスにしてみると、彼らはみな「貴族のようだ」と言いたくなるほど上品に見えた。
「ユファス」
かけられた声に店内を見回せば、昼間の美女が目に入る。ユファスはそこに足を向けながら、何とも奇妙な気分を味わった。これはまるで、恋人の逢瀬だ。
彼がこのような雰囲気のよい店を訪れたのは、十代の頃、気になる娘を喜ばせるためにはこういった場所がよいだろうと計画をしたときくらいだった。そんなことでもなければたいていの食事は、エディスンでは軍舎で、アーレイドでは厨房で済ませ、たまに同僚と出かける先は〈麻袋〉亭や〈燕の森〉亭のような、家庭的な食事を出す食事処であることが多かった。
「時間に正確ね」
「それはよかった」
彼は言いながら、女の向かいに腰を下ろした。
「言われた時刻と合っていたがどうか、確信が持てなくて」
その言葉に女は笑った。
「あなたが約束を忘れたりはしないと判っていたわ」
「それは、どうも」
ユファスは目をしばたたいて礼のようなこと言った。不実だと思われるよりは誠実だと思われた方がよいし、実際、彼は不実には程遠かったが、それでも少し話をしただけの女性にこのような信頼を受けるというのは不自然に思えた。
「本当のところを言うと忘れかけていたんだけど、急に思い出した」
彼が正直に言うと、女はまた笑った。
「そうでしょうね」
いささか奇妙な返事に思えたが、ユファスはそれを問いつめることはせず、やってきた給仕にライファム酒を注文した。
「食事は? ここはいい料理を出すのよ」
「そう? それじゃ何か頼もうか」
言いながら卓におかれている菜譜を手に取った。ざっと見ただけで、ずいぶんと手の込んだ料理を出すことが判る。女は白身魚のアラ香草ソースがけ、ユファスは鶏の焼き物を頼んだ。
「まるで逢い引きね」
女の言葉にユファスは肩をすくめるにとどめた。彼も感じていたことだが、いくら彼女が美人でもそのようなつもりはない。だがそれならば――何故、呼ばれたからと言ってのこのこと出向いてきたものか、よく判らない。
「ティルドは、どう?」
運ばれてきた酒杯を合わせるようにしてから、女は言った。
「元気いっぱいとはいかないけれど、まあ、へこたれてはいないようだよ」
「そう、彼がしょんぼりしていたら似合わないものね、いいんじゃないかしら」
ティルドが聞けば激高しそうな台詞を平然と魔女は吐く。
「あなたは、どこでティルドと知り合ったんですか」
ユファスはハレサとの話を思い出して問うた。
「この街で彼によくしてくれた人に話を聞いたけれど、あなたのことは知らないようだった。僕はそれが少し、不思議なんですが」
「あら、あの盗賊さんのことかしら。それならおかしいわ。彼は私を知っているはずだもの」
ちゃんと話をしたことはないけれど、とポージル邸でハレサに目撃された女は言った。
「会いたがっていましたよ。呼べばよかったかな」
「駄目よ」
メギルは首を振った。
「彼は、この店の雰囲気に似合わないでしょう?」
ユファスは苦笑した。確かに風呂に長いこと入っていないような外見をしたハレサがこの店にくれば、悪目立ちすることは間違いない。
「それに、お話はふたりきりの方が……ね」
女の声と目に艶が宿った。ユファスは困惑する。
美人に気に入られて、少なくとも不快だということはない。だが前にも彼女に言ったように彼は自身の見た目が格別によいとは考えていない。実際、決して悪くはないが、顔だけで女が――それも美女が寄ってくるほどではない。たいていの男ならば脈有りと見て取る宿の算段でもし始めるところだが、ユファスはそうする代わりに杯を卓においた。
「あなたの意図が判らないな、セリ」
ユファスは若い女性への敬称で彼女に呼びかける。
「意図ですって?」
女は首を傾げた。
「そう。ティルドのことを報せてくれたのには感謝します。幸か不幸か僕はハレサほど疑い深くはないから、あなたがただ親切でそれを教えてくれたのだとも思うし、裏を読むべきだとは考えない。けれどどうして、また僕に会おうとしたのか」
「ティルドの様子が気になった、というのは?」
「それなら、詰め所のなかについてきてもいいし、やはりあなたが盗賊で町憲兵と顔を合わせたくないのならば、外で待っていればいいことでしょう」
「それじゃ、ユファス、あなたとこうして会いたかったというのは?」
すっと女が前屈みになると、胸元の開いた衣服からは豊かな胸の谷間がのぞく。ユファスはそれを見ないようにして首を振った。
「そんなことは」
「信じない? 女に一目惚れされるほど美男じゃないと言うのね? もう少し自信を持ってもいいのよ、ユファス」
女の手が伸ばされ、狭い卓越しにそれが彼の首筋に触れた。暖かい室内でひんやりとしたその感触にユファスは思わず身を引く。女は満足そうに笑った。
「いい子だわ、ちゃんと言いつけ通りにしたのね」
「何の」
話だ、と問いきる前に、魔女の掌が彼の目前を一往復した。
「あなたは素敵よ、ユファス。簡単に誘惑される男より、警戒をする男の方が好き。けれど、惜しいわね、警戒をしていても耐性を持たないとこうして簡単に――陥ちてしまうの」
魔女は笑んだ。
「〈風食みの腕輪〉をお出しなさい」
「風食みの……腕輪」
ユファスは繰り返して目をしばたたいた。
「持ってきたのでしょう? 気配がするわ、判っているの」
「これのこと、ですか」
青年はのろのろと隠しに手を入れるとそこを探るようにし、やはりゆっくりとそれを取り出した。翡翠草と呼ばれる植物が彫り込まれた、緑色の小さな輪。
「そう、それよ」
魔女の目が光った。
「さあ、いい子ね。その腕輪を私に――」
「失礼ですが、セリ」
ユファスは右手に腕輪を手にしたまま、左手で額を拭うようにした。
「もしやあなたのお名前は、メギルと言われるのかな?」
彼は右手をわずかに引いて言った。メギルの目がぎゅっと細められる。




