03 根拠がないこと
「知らぬ声だ。魔術だとして、このように頭のなかで響くものに『誰の声』と考えることは意味がないかもしれない、だが」
やはり珍しく、カリ=スは躊躇うようだった。ヴェルフレストは許可を与える仕草で先を促す。
「女の声だったようだ」
「成程」
その返答の意味を掴みかねるようにカリ=スは片眉を上げた。
「つまり、お前が言い淀んだ理由が判ったと言うのだ」
どう判ったのか、と言うのはいまの彼らにとって大問題であるはずだったが、どちらもそれについては触れなかった。
「それで、お前はどちらの魔女に好かれた」
「知らぬ」
これにははっきりとカリ=スは答えた。
「私はどちらの魔女とも面識などないのだから」
ヴェルフレストは「本当だろうな」というような反駁を辛うじて呑み込んだ。口にしたところで、いつも通りの軽口と言えばそれまでだ。それを口に出すまいとするのは、やはり――そう疑う心があるためか。
面白くない、とヴェルフレストは感じていた。
彼の世界はこれまで明快であったのに、このところ、全てが曖昧だ。
すっきりしない。
これはどうにも、面白くなかった。
だがどうすればすっきりするのか。
誰かが「答えはこれだ」と教えてくれれば彼は納得するのか。
たとえばローデンが。
たとえば――アドレアが。
おそらく、しないだろうと判ってもいた。
苛ついた気持ちは、ヴェルフレスト自身がけりをつけるしかないのだ。
「それで」
彼は冷たい空気を嫌がるように顔を引っ込めながら声を出す。
「声は何を告げた」
まるで気のないように彼は言った。カリ=スは少し間をおいてから続ける。
「神官に気を付けろ、と」
「はっ」
ヴェルフレストは笑った。
「もう十二分に気を付けているが。そのように忠告めいた言葉を寄越すのならばアドレアか」
王子は、座り心地がよいように工夫されている最高級の馬車の席に寄りかかった。
「俺のことは放っておいて、お前に言葉を送るか。俺は振られたかな」
声は皮肉っぽい調子で発せられた。
「魔女の口先にたぶらかされるなと言ったのはヒサラだったか。あやつは表情を出さぬことではお前以上であったが」
ヴェルフレストは言葉をとめた。
「……顔を見せぬとなれば、意外に物足りなく思うものだな」
ラタンはヒサラを殺したというような話をした。だが、ヴェルフレストはその話はもとより、ラタンの再訪すらカリ=スに告げていなかった。言ったところで、既にラタンを疑っているカリ=スの態度に何か変化があることもなかろう、と考えたためだ。――少なくとも自身では、そう結論づけていた。
「ヒサラは」
カリ=スは低い声のままで続けた。
「死んだのではないかと思う」
ヴェルフレストは片眉を上げた。彼自身も思っていることであったが、それはラタンからの伝聞という根拠に基づくものだ。
「何故そう思う」
彼は肩をすくめて付け加えた。
「お前はそんなに、ラタンが嫌いか」
「好悪の問題ではない」
カリ=スは真面目に返した。
「言った通りだ、殿下。あの神官は死の臭いがした」
「俺には判らなかったようだ」
「そうか?」
砂漠の男はじっと王子を見た。
「判ったからこそ、私にあの神官を斬らせようとしたのではないのか」
「それは」
ヴェルフレストは苦々しい顔をした。
「そうだな」
「ヴェル、お前は」
「よせ」
何か言おうとするカリ=スをヴェルフレストは片手を上げて制した。
「言うな」
「何故だ」
今度はカリ=スが問うた。
「私が『面白くない』ことを言いそうだからか」
「――そうだ」
王子はそう言うと手を振った。話は終わりだと、示したのだ。カリ=スはそれに気づくと何か言おうとし――しかし言ったところで意味がないと思うかのように、礼をすると馬車から離れた。
ヴェルフレストはラタンを信用などしていない。リグリスの配下だと名乗った男を信用するはずなどない、当然である。
だが何故、自身がそれをカリ=スに告げぬのか。
それはよく判らなかった。
彼は、カリ=スに不信感を抱いている自分を自覚していた。
だがそれは、何故――。
「信頼する」ことよりも「不審を抱く」ことの方にこそ根拠がないことに気づいていながら、ヴェルフレストは自身の惑いを持てあまし、半端に宙に浮かせたままでいた。




