12 心にとめておこう
ぱっと彼は瞳を開くと、飛び起きるようにして枕元の短剣に手を伸ばした。
「おやめください、殿下。わたくしです――と言うのは、警戒をお解きいただく理由にはならなさそうですが」
「……《《ラタン》》」
薄闇のなかで、王子は神官の声を聞き分けた。
目は瞬時に覚めたが、身体はまだぼうっとした。おそらく、明け方の時間帯だろう。朝早い小姓たちもまだ眠っており、ラタンとの「対決」以来ヴェルフレストのそばを離れようとしないカリ=スも、王子の寝台の脇で剣を抱えて眠る訳にはいかなかったので――それはウェレス王がエディスン王子に対して害を企む、或いはその警備を信用していないと考えていることになる――与えられた隣室にいる。
「久しぶりではないか」
ヴェルフレストはゆっくりと言った。その台詞には皮肉が隠さずに込められており、ラタンもそれに気づいたか、わずかに身じろいだ。
「やはりわたくしを疑っておいでですか」
「正直なところを言えば、怪しすぎるようだな」
ヴェルフレストはそのまま短剣を手にするとそう言った。だが鞘から刃を抜くことはせず、ただ手持ち無沙汰であるかのようにそれをもてあそんだ。
「何処へ行っていた?」
「我が主に、報告を」
「ほう」
ヴェルフレストは目を細めた。
「お前の主は業火の神官、リグリスか?」
答えが返ってくるとは思わずに問うたヴェルフレストは、ラタンの笑みに不気味なものを覚えた。
「《《そうです》》、と申し上げたらどうされますか」
「何……」
それが性質の悪い冗談なのか、それとも罪の告白なのか、或いは別の企みに繋がるのか、ヴェルフレストは決めかねた。
「もうお判りでいらしたのでしょう?」
神官は低い声で笑った。それは確かに、返答だった。ヴェルフレストの背に冷たいものが流れる。
「カリ=ス殿の存在は巧くない、と思いましたよ。彼の優秀さは警戒していましたが、あれほどすぐ疑われるのは計算外でした」
「それで方針を変えたと?」
ヴェルフレストは乾いた笑いを浮かべながら言った。
「あんなふうに演技を続けたまま去ったにも関わらず、正体を告げる気になったのは何故だ。俺に嘘をつくことにいたたまれなくなったからではあるまい」
「簡単に申し上げれば、主の指示に従っているためです」
ラタンは答えた。
「あの時点では、もう挽回が難しいと判っていても、私の一存でべらべらと話す訳にはいきませんでしたのでね」
「――ふん」
呟くと彼は寝台の上で起き直った。早朝の空気がはだけた夜着の前を撫でたが、時刻を問わずに快適な温度に保たれている城内で寒気を覚えることはなかった。覚えたとしても、彼はそれを無視しただろうが。
「ではまず、目的を問おうか」
ヴェルフレストは右手に持った鞘に入ったままの短剣を左手に軽く打ち付けるようにしながら言った。
「もちろん、風謡いと風見です」
ラタンは悪びれることなく答えた。
「殿下のもとに、風は寄ってくる。私はそれを見守り、伝え、場合によっては風向きを変えることが役割」
「風向き」
ヴェルフレストは繰り返した。
「――ヒサラは」
「ご想像の通り」
オブローンの神官は、一般的に切られる冥界神コズディムの印ではなく、死神マーギイド・ロードを崇める邪悪な印を切った。昼の光の下に生きる王子に、獄界神の印など縁はなく、知識もない。それでもそれが禍々しいものであることは彼に伝わった。肌に粟が立つ。
「ヒサラ術師はなかなか手強かったですが、彼が助力を頼みにしたフィディアル神官はろくな神術を使えませんでしたからね。《《相棒》》はよくお選びになるとよいですよ、殿下」
そこには、毒が込められていただだろうか?
「忠告という訳だな、心にとめておこう」
だが彼は敢えてそれに触れず、ただそう返した。
「風謡いがどうとか言ったな。生憎だが、手がかりはないようだ」
「そうでしょうか?」
ラタンは首を傾げた。銀の髪が揺れる。
「ただの噂、物語のように曖昧なものであっても、手がかりはございましたでしょう?」
「知っているのなら、答えずともよいな」
〈風謡いの首飾り〉は東の地にある、という話をヴェルフレストが全面的に信じている訳ではなかった。カリ=スの言うように、その詩的な言葉と現実離れした「大砂漠」という地が勝手に結びつけられている可能性は高いように思う。
真実はひとつ。ウェレスの地で〈風謡いの首飾り〉なるものの話が聞けた、というだけである。
「そんな戯けた話がお前の主の役に立つなら、いくらでも持って帰るがよい」
「もう少し、詳しいお話が知りたいところです」
神官は穏やかに言った。
「それには同意するが、お前のためになど探ってなどはやらんぞ」
「殿下ご自身のためでも、エディスンのためでもけっこうです。ただわたくしは、殿下の次の目的地を提供できますよ」
「まさか大砂漠か?」
王子は面白くもなさそうに笑った。
「俺などが踏み込めば半日で死ぬそうだ。半日で首飾りを見つけることはできまいな」
「おかしな話ですね、殿下」
ラタンは肩をすくめた。
「カリ=ス殿は殿下のご命令に従うべき立場のはず。それに、故郷の地であればほかの誰よりも案内役に相応しいはずですのに、どうして殿下を砂漠へ連れぬと言うのか」
「ふん」
ヴェルフレストは唇を歪めた。
「俺を死なせる訳にはいかんと思っておるのだろうよ。死んでもらいたいと思われるよりはよいようだが」
「さて、それだけでしょうか」
「うるさい奴だな」
ヴェルフレストは手にしたままの短剣を振った。
「お前の目的は、そうやってカリ=スへの不信感を煽り、俺から護衛を引き離すことか」
「わたくしの思惑がどうあれ、判断されるのは殿下ご自身」
その言葉にヴェルフレストは忌々しげに首を振る。
「カリ=スが、こうして口先を弄するお前を見れば、今度こそどうにかして叩き斬ろうな」
「しかし今度は、殿下はそれを命じられませんでしょう」
「――何故だ」
神官の台詞に自信めいた響きを感じ取り、ヴェルフレストは眉をひそめた。
「俺がお前を信じると?」
「いいえ、殿下。そうではありません。ご自身で言われた通り。わたくしが煽るのではない、殿下は、カリ=ス殿に既に不信感を抱かれている。わたくしを信頼せぬのと同様に、カリ=ス殿を信じられなくなっては、おりませんか」
「……何を馬鹿な」
何故、否と即答できないのだろうかとヴェルフレストは自身を奇妙に思った。
「馬鹿なことと言われるのですか? では何故、カリ=ス殿を呼ばれませぬ。あと少しだけ声を張れば、彼は駆け込んでくるでしょうに」
勝ち誇ったようなその声に、王子は反論ができなかった。
「お前を信じると思ったら、大間違いだ」
ヴェルフレストにできたのは、ラタンの問いを無理に歪めた上での返答だけだった。神官は肩をすくめる。
「信じてはいただけなくても、お話はいたしましょう。そもそも、首飾りが大砂漠にあるなどという噂は信憑性が薄すぎます。まずはやはり、風謡いの物語を知るというタジャスの貴族を訪れてはいかがですか」
「ふん」
そうした相談も盗み聞いていた訳か、というような指摘をいまさら口にしても仕方ない。ヴェルフレストは口の端を上げた。
「俺に話を掴ませ、リグリスのいいように利用する気でいるな?」
「ええ、そうなります」
ラタンはあっさり肯定する。こちらもいまさら、ごまかすつもりはないということか。
「利用されることを怖れて、殿下は退かれますか? それとも、利用し返してみる、という気概が?」
神官の目に奇妙な光が宿る。それは、言うなれば挑戦であった。
「どうやら面白い話になりそうではないか」
そう言うと王子は短剣をおいた。
「話を聞かせてみろ」
カリ=スがいれば、口車に乗るなとでも言ってとめるだろうか。
ヴェルフレストの脳裏にそんな思いが浮かんだが、彼はそれを無視した。




