03 そのつもりはない
王子の機嫌がよいとは言えないことを知っているのは、カリ=スだけだった。
ヴェルフレストはあくまでも対外的にはにこやかに接し、完璧なる使者を演じてみせたからだ。
かと言って、カリ=スに当たるということもない。
奇妙なことか、それとも当然のことと言うべきか、あの日からラタン神官はヴェルフレストの召し出しにも応じようとしなかった。
魔術師協会へ行ってローデンと連絡をつけた方がいいのではないかというカリ=スの提案は、城に招かれているものが城下のそのような「怪しげ」な場所へ行く訳にはいかないと言う理由で一蹴されていた。
カリ=スは自分が代わりに行くことも考えた。ヴェルフレストが許しを与えないならば、黙って行くことも。
しかし彼はそれよりも、自身の留守にラタンがやってきて、王子を籠絡することを怖れた。
ラタンが何を企むのかは、ヴェルフレストと同じくカリ=スにも見当がつかない。
だがそれでも、砂の神の守りを受けた男は、あの自称神官が純粋にローデンの使いではないことを確信していた。そもそもローデンの使いではないかもしれないことも念頭に置いていた。
そうなれば、ヒサラ魔術師と本当のフィディアル神官はもういない――殺されているということも有り得る、と彼は考えていた。
ラタンの周りに彼が見て取った死の臭いはそれだったのかもしれぬ、と。
ウェレスへやってきて以来、ヴェルフレスト王子には立派な警護がついていたから、カリ=スが彼に張り付いていなくともある程度は安心できた。だが、いまとなっては難しい。
ヴェルフレストがどう文句を言おうと、旅をはじめたばかりの頃のように、カリ=スは彼から離れなくなっていた。
「これでは城にいる意味がない」
主はそんな言い方をした。
「下城の挨拶をするまではお前がうるさくないと思っていたのに」
「状況が変わった。判っているだろう、殿下」
「何も変わらん。相変わらず、判らないことだらけだ」
王子はひらひらと手を振った。
「話が中途半端になったままだったが、首飾りについて何か掴んだのではなかったのか」
ラタンやアドレアのことに触れればヴェルフレストがむっつりと黙り込むだけなのは判っていたから、カリ=スはほかのことを問うた。
「ああ、そうだったな」
王子は額に手を当てた。
「そうだ、それだ。面白い話があるのだった」
彼はそのときの言葉を繰り返すとにやりとした。
「旅の商人が首飾りについて語ったことがあるそうだ。それによると、不思議な首飾りを身につけて歌を歌う魔物が東の地にいるのだとか」
「魔物? それに東、だと?」
「そうだ。それも東国ではなく、大河を越えた先、大砂漠。お前の故郷という訳だな」
彼はカリ=スの反応を楽しみにするかのように護衛の顔をのぞき込みながら告げた。
「ただの噂、歌物語であろう」
しかしカリ=スはヴェルフレストの期待と異なり、動じることなく言った。
「東の地に幻想を託す者は多い」
「エディスンはずっと西だからな」
第三王子は肩をすくめた。
「ここはエディスンよりもかなり東寄りだ。人々ももう少し現実的だ」
「東国についてならば、な」
東の男は言った。
「河のこちら側、東国と言われる地域は伝説でも何でもない。だが河を越えた先のことは、東国の者でもほとんど知らぬこと」
砂漠の民は肩をすくめた。
「言うなれば我ら〈砂漠の民〉は生ける伝説なのだ、ヴェル」
「成程」
王子はじろじろと連れを見た。
「つまり、伝説というのは意外に近しいものだ、ということになる」
「ひねくれた物言いをするな」
カリ=スは嘆息した。
「伝説ならばよい。事実なればたいへんなことだぞ」
「何故だ。お前がいれば何の問題もなかろうに」
「砂の神の力を甘く見るな」
大砂漠で生まれた男は言った。
「甘く見るつもりはない」
砂漠などは見たこともない、海岸線の街に生まれた男は肩をすくめる。
「正直に言えば興味はある。だが、砂漠の魔物だの歌を歌うだのというのは、さすがに作り話めいていすぎる。まずはタジャスに向かうつもりだ」
ヴェルフレストが言うと、カリ=スはじっと彼を見た。
「私の言葉を聞くのか」
それは、軽口でわざと逆のことを言うことも多いヴェルフレストに対する、「今日は素直なのだな」というだけの言葉だ。彼らがよくやる、ちょっとしたやり取り。
「どういう意味だ」
だがそのときのヴェルフレストは、どこか不満そうに返した。
「俺がお前を疑っているとでも思うのか? あの、ラタンの言葉で。お前が、アドレアの魔術にかけられていると疑っていると?」
「そのようなことは考えていないが」
カリ=スは驚いたように言った。
「ではヴェル。……お前こそがそう考えているのか。私が魔女の術下にあると」
王子の言葉はむしろ、ヴェルフレスト自身の心情を吐露したものと聞こえた。その指摘にヴェルフレストは苦い顔をする。
「そうではない。そのつもりはない」
彼は苦い顔のままで言った。
「少なくとも、お前よりラタンを信じるというようなことはない」
それがずいぶんと慎重な物言いであることに砂漠の男は気づいた。
「私を疑うか、ヴェル」
「そのつもりはないと言っている」
王子は苛々とした口調で言った。
「アドレアの魔術より、ラタンの口先の毒の方が危険だ。俺はそれを判っている」
そのつもりだ、と彼は言った。
「ヴェル、聞け」
カリ=スはヴェルフレストの目をのぞき込むようにして言った。
「そうではない。どちらも危険だ」
「――判っている」
ヴェルフレストは答えながら、目を逸らした。
「判っている」
「ならば、よい」
言いたいことがあったとしても、砂漠の男はそれを口にのぼせなかった。
いま、それを口にのぼせても無駄だと、判っていた。




