09 小さな棘
神官の顔が歪んだ。
「それが、何です! その名は、ヒサラから聞いただけで」
「あやつはアドレアの名を口にしたがらん」
「そんなことが何の証明になりますか!」
ラタンは続けて叫ぶようにしたが、容赦なく追いかけてくるカリ=スの剣から逃れようと広い部屋を後退し続け、言葉は続かない。
「充分だ、ラタン。ヒサラはその名を口にすることで彼女を呼び、呼ばれることを警戒していた。俺は、あやつが魔女の話をしたとしても決してその名を口にしていないと確信している」
ヴェルフレストはラタンをにらみつけた。
「お前は自分がアドレアを知っていることを露呈した。同時に、これまでそれを洩らさなかったこともな。お前は」
ヴェルフレストの脳裏によぎったものがあった。彼はそのまま、それを口にのぼせる。
「リグリスの手の者では、ないのか!」
その言葉と、砂漠の男の曲刀が神官を捉えようとするのは、ほぼ同時だった。
ぱあんっと何かが弾けるような音がしたかと思うと、白く鋭い光が部屋を覆った。
ヴェルフレストは片手をかざし、眩い光の向こうを懸命に見ようと目を細める。どさっと鈍い音がして、誰かが倒れたのが判った。次第に弱まる光の向こうには、息を荒くして両手を自身の前に広げている神官と、床に身体を打ち付け、どうにか立ち上がろうとするカリ=スの姿がある。
「ラタン、では、やはり!」
「おやめください、殿下。自衛はさせていただきます!」
ヴェルフレストの声に怒気がこもるのを聞いて、ラタンは叫び返した。
「わたくしの疑いは濃くなりました、殿下。いいえ、確信したと言ってもいい。あなたは魔女の術下にあります、間違いありません」
「戯けたことを」
「何故ですか。わたくしが魔女の名を口にしたからと言って、それが『殺す要因』になると?――あなたがわたくしを厭うのはあなたに都合が悪いからではない、アドレアに都合が悪いから、彼女がそうさせるのです!」
「ごまかされぬ!」
ヴェルフレストはほとんど反射的に左腰に手をやったが、着替えの途中であったことを抜いても、王子としてもてなされている場で武器など身につけはしない。彼の細剣は、ほかの装備と一緒に飾り棚のなかに収められている。
「よくお考えください。わたくしに調べられるのがお嫌でしたら、魔術師協会にでもどこかの神殿にでも行かれるとよい。願わくば、魔女がそれを禁じる術をかけておりませんことを」
「どこまで口先を弄するか!」
かっと叫んだ王子にどこか哀れむような表情を見せると、ラタンはその姿を消した。
「逃げるか、卑怯な!」
思わずヴェルフレストは言ったが、その声はもはやラタンには届かない。彼は王子らしくない呪いの言葉を吐くと、素早くカリ=スのもとに駆け寄った。
「無事か、カリ=ス。何があった」
「判らぬ」
砂漠の男は酷い頭痛を堪えるかのように顔を歪めていた。
「斬れると思った瞬間、剣が奴に届く寸前で、まるで弾き飛ばされるようだった。いや、まさしく弾き飛ばされた。いまもまだ身体が痺れるようだ」
「もう剣を握りしめていなくていい」
王子はそう言うと、床に座り込んだような体勢になっているカリ=スの肩に両手を置いた。
「――ラタンは敵か、カリ=ス」
「私にはそう見える」
「何故そう思う」
その問いにカリ=スは奇妙な表情を浮かべた。
「私にそれを問うのか。お前も確信したから、斬れと命じたのではないのか」
「そうだな」
ヴェルフレストはうなずいたが、そこには苦い響きがあった。
「先ほどは確かにそう思った。だが判らなく、なった」
彼はそっと首を振った。
「あれに疑念を抱くのは俺が、そしてお前が操られているからかも、しれんからな」
「ヴェル」
砂漠の男は驚いたように言った。
「それは奴の手だ。自分に不審を抱かせまいとする」
「かもしれん。だが、それにも確証はない」
ラタンは、ヴェルフレストがアドレアの術下にあると言った。
それがラタンを疑わせまいとし、同時にカリ=スとヴェルフレスト自身を疑わせるようにするための策略だ、ということも確かに考えられる。
だがやはり、確信は持てなかった。
いったい何故、アドレアの名を聞いただけで自分はラタンを敵と判断したのか。
あの瞬間には明確に思えたことが、何故いま、薄れているのか。
そして何故、ことの真偽を正すため、街の魔術師協会を訪れてエイファム・ローデンと連絡を取ろうという気になれないのか。
(アドレアに都合が悪いから)
(彼女がそうさせるのです)
「判らん」
ヴェルフレストは小さく頭を振った。
彼を好きだと言った白い髪の魔女。
それに術をかけられているのだという銀髪の神官。
神官を疑い、おそらくは魔女も疑うであろう、砂漠の男。
信じるのならば、カリ=スだという思いはある。
(まさかあなたまでアドレアの魔術にかかっているのでは)
だが、ラタンがカリ=スに向けたその言葉が、小さな棘のように王子の胸に引っかかった。
まさか、と思う。
ただ、アドレアはヴェルフレストひとりに声をかけた。カリ=スに同じようにしていないと言う保証はあるのか? 彼を術下に置き、アドレアの敵を排するように仕向けていないと?
「……判らん」
ヴェルフレストは繰り返し、ようやく立ち上がろうとするカリ=スの肩から手を離した。
これだけ大騒ぎをしたのに城の人間が誰も慌ててやってこないとは妙だな、とぼんやりと考え、何かラタンが神術を使っていたのだろうか、と考える。
それともアドレアが?
彼には、判らなかった。




