09 意味のない後悔
そこは記憶にある様子と変わらなかった。
と言っても、少年がレギスの街に滞在したのは半月かそこらの間であったから、詳細に街並みを記憶してはいない。ただ、変わらぬようだと思うだけだ。
防寒用に厚手の上着がほしくなってきていた。
エディスンでは冗談にも必要でないものの有用性を認識すると、改めて自分が遠くにきたような気持ちになった。
いまさら思い直すようなことでもないのに、とティルド・ムールは少し自分を可笑しく思った。
彼は遠くへきた。
そしてもっと、遠くへ行く。
「風が気持ちいいな」
ユファス・ムールはそんなふうに言って辺りを見回した。
「どうした、口数が少ないようだけど」
兄はにやりと弟を見る。
「寒いのか?」
「これくらい」
ティルド・ムールは子供じみた負けん気で兄を睨みつけたが、そのあとで嘆息した。
「ユファスの前で強がっても仕方ないな。正直言って、寒い」
「しっかりしろよ、エディスン兵」
兄が笑えば、弟は苦い顔をする。
「エディスン兵だから、きついんだよっ。南方の人間なら、こんなの屁でもないだろうけどな」
「判ってるさ、アーレイドは温暖と言える場所だけれど、僕も最初は『冬』ってものに驚いた」
言いながらユファスは、ティルドが馬の手綱を取りながらついてくるのを確認するように振り返る。
「さて、まずは宿だな」
ティルドは先日の訪問で滞在した〈一番星〉亭を通りかかったが、以前よりも旅慣れた身には、あの宿は待遇と価格が一致しない、あまりよい宿とは言えない場所だったことが判ってきた。彼はそこを無視して通り過ぎ、専属の厩舎を持つ〈錆びた鈴〉亭に部屋を取ることにする。
「これからどうするんだ?」
荷を下ろしてどさりと寝台に腰を下ろす――安い部屋には寝台くらいしかないから、座るとすればここになった――と、ユファスは問うた。少年がこのレギスを目指した理由は判っていたが、具体的にどうこうするという話は弟の口から出ていなかった。
「どこに行けば目当ての相手に会えるのか、知ってるのか?」
「知らない」
ティルドは簡単に答えた。
「でも、どこに行けば判るかは、知ってるよ」
薄汚い酒場もまた、彼の記憶にある通りだった。
どこの街でもあるような、少し薄暗い場所。
明かりが足りないという意味ではなく、少しばかり、闇の世界に近い場所とでも言えたろうか。
梟、と呼ばれる男は四十歳前後というところだった。
荒々しい客が目立つ〈朱い山頂〉亭の一部ででもあるかように、その男はその場所に馴染んでいた。
盗賊と連絡を取りたければ〈梟〉と呼ばれる男に会え、という情報屋の言葉をティルドは忘れていなかった。
あのときその助力は必要なかったが、今回は違う。ハレサは、ティルドがレギスに戻ってきたことを知らない――はずである――のだ。彼がこれまでハレサと会ったり、待ち合わせたりしてきた場所にたまたま姿を見せるとは思えない。それよりは、おそらくこれが早いと思った。
ティルドは男の片方しかない目に――彼の右目は、すっかり白くなった刀傷の真ん中あたりに位置した――じっと見られて落ち着かなかったが、辛抱強く答えを待った。
「ハレサ。お前の言うのはハレサ・ファンデルか?」
「姓は知らない。いや、聞いたかも。でも覚えてない」
少年は正直に言った。
「成程。では、〈雨夜のハレサ〉?」
「何だよそれ」
ティルドは顔をしかめた。
「少なくとも、そんな呼び名は聞かなかった」
「成程」
〈梟〉はまた言った。
「よかろう、少年。連絡をつけてやる」
「まじ? 何で?」
もちろんそれは助かる話なのだが、彼は驚いて聞き返していた。てっきり怪しく思われ、否と言われるか、この街で知り合った情報屋のように「金を寄越せ」とくると思っていたのに。
「勘違いするな。会うかどうかはハレサ次第。伝言があるのなら伝えてやってもよい」
「伝言……は、ない」
少年はぼそりと言った。
「俺が言わなきゃならない、ことだから」
「……やっぱり僕も行った方がいいんじゃないか」
連絡待ちだ、というような話をすると、兄は心配そうに言った。
「何でだよ」
「そりゃ」
ユファスはわずかに息を吐く。
「盗賊組織でけっこうな権限を持つ相手なんだろう、ハレサとかってのは」
「そうらしい」
ティルドは少し困惑してうなずいた。アーリはハレサについて「うちんとこじゃけっこう偉い」という言い方をした。彼はそれを「組織で力を持つ」と解釈してユファスにもそんな話をしていた。おそらく間違ってはいないと思っていたが、いまひとつ実感は湧かない。「盗賊の組織」などと言うものへの縁の薄さは、魔術師協会への比ではなかった。当たり前である。
「その、いい話を聞かせる訳じゃないだろうに」
「まあ……な」
兄の曖昧な言い方に、少年は平静を保とうとした。
「でも、気に入らない話だからって、いきなり俺に斬りつけるような相手じゃない」
と思う、とティルドは付け加え、やはり平然としてみせながら、それに、と続けた。
「彼女を守れなかったって理由で斬られるなら、仕方ない」
「ティルド」
兄は鋭く弟の名を呼んだ。
「お前がそんなつもりでいるなら、僕もその男に一緒に会うからな」
「よせよ」
少年は唇を歪めた。
「子供じゃないんだ。余計な心配は要らない」
「なら、僕の心配は余計だと判らせろ」
それがユファスの返答である。
「お前が彼女のことで罪悪感を抱いているのは判る。忘れろなんて言えないし、言わない。でもそれと、お前がその責任を全部引っ被ることは違うんだからな」
「俺の責任だよ!」
少年は叫んだ。
「俺があの子を巻き込んだ!」
その瞳は暗く燃えた。
「ついてくるなんて言っても、断ればよかったんだ。何度も喧嘩してる間に、ぶちキレてでもレギスに帰れって言ってやればよかったんだ。腕輪を探すのに、アーリをつれていかなければよかったんだ。彼女に――腕輪を持たせたままでいれば、よかったんだ」
しても仕方のない後悔。判っている。どれだけ悔やんでも少女は帰ってこない。だが、だからと言って悔やまぬこともできない。
弟の気持ちは痛いほど兄に伝わった。両親のことを思い出す。彼もこうして、しても意味のない後悔をした。
護衛兵であった父を街の警護に向かわせないことはできなかったとしても、怪我人の治療に行くという母を泣いてでもとめればよかった。反対されても、自分も手伝いに行くと言えばよかった。とめられても、無理矢理についていけばよかった。母のいる診療所の火事を知っていたらよかった。消火の手伝いに行けていたら、彼女を救えたかもしれないのに。
ライナのことも同じだ。もし、〈燕の森〉亭の娘と深い仲になっていれば、あの火事が起きた夜、彼女は彼とともにいたかもしれない。料理人である彼はいつも朝が早いが、その翌日は医者に行くために朝の内は休みをもらっていた。そうであれば、きっと彼は恋人と過ごしたはずだ。
意味のない後悔。意味のない仮定。
何の意味もないと判っているのに、思わずにはいられない。
ユファスは何も言わず、じっとティルドを見た。弟の内にも同じものが巡っているのは判った。こうして叫んでも、何の意味もない。判っている。判っているけれど――。
「ユファス」
ティルドは瞳を伏せて声を出した。
「俺、ハレサにはひとりで話をするよ。斬られても仕方ないって言ったけど、殺されてもいいなんて思ってない。俺にはやるべきことがあるんだから」
仇討ちに意味などない、とも、やはり兄は言わなかった。言えなかった。




