06 そうであればよいと
「お前が私を疎んじても、私はお前が好きだよ、カトライ。けれどヴェルフレストの方はもう少し私に優しい。私はお前よりも彼を好いてしまいそうだよ」
「息子を魅了するのはやめろ、魔女よ。あれはそのようなものに慣れていない」
「慣れていないとは、魔術に? 女の誘惑に、ではなさそうだ」
アドレアは軽く肩をすくめるようにした。カトライは首を振る。
「目前に敷かれていたものと異なる道を見せられること、だ」
魔女はまた、にいっと笑った。
「さすが父親はよく判っている。ヴェルフレストは風司に興味を持ったろう。首飾りと指輪の所在を追うだろう」
「指輪」
カトライは繰り返した。
「あやつは、その話はしなかったな」
「おや」
魔女は軽く目を見開いた。
「そう。お前に指輪の話は――しなかったの」
その声は力を弱めた、ようだった。
「重要なことなのだな」
アドレアの反応がこれまでとどこか違うことを感じ取り、カトライは言った。
「お前は指輪の在処を知るか、アドレア」
「ヴェルフレストにならば、答える気はないと言おう。だがカトライ、お前には言っておこうか、風司」
「聞いて、おこう」
カトライ王は言った。
「お前が知っている話を――全て」
その言葉にアドレアはくっと声を出して笑った。
「全てなど語り尽くせるものではないよ」
「ごまかすな」
王はぴしゃりと言った。
「お前の知る風具のこと、オブローンの神官のこと、そして何故ヴェルフレストにイルサラを継がせようとするのか、それを話せ」
「私はお前の臣下ではない、カトライ。私に命令などは無意味ぞ」
魔女は可笑しそうに笑った。
「私に命令できる王は、ただひとり」
「何だと」
カトライはわずかに表情を険しくした。
「ではお前はどこかの王の、密使か」
その言葉にアドレアはまた笑った。しかしその笑いは、本当に楽しそうで、カトライがそしてヴェルフレストがこれまでに耳にしたどんな暗い笑みとも違った。
「それは、可笑しい。疑われるにもほどがある。これだけははっきり言っておくよ、カトライ。私はエディスンに不利になることは決してせぬ」
「そうは思えぬな」
誓いめいた言葉をカトライは一蹴した。
「ヴェルフレストを風司になど、エディスンに波乱を起こすためとしか思えぬ」
「それは、お前の決めることではない、風司」
「神の定めることだとでも? それとも、星か」
「似たようなものだ。その是非を決めるのは、未来」
カトライは小さく首を振った。
「判らぬ、な」
「そうか?」
王ははっとなった。
卓の向こう、ずっと一定の距離を保っていたはずのアドレアが、一瞬にして彼のすぐ隣に――ごく近い距離に、場所を移したからである。
「そうよな、カトライ。未来など判らぬ。アドレアは予見などはしない。アドレアは、そうであればよいと、思うだけ」
吐息がかからんばかりにアドレアはカトライに近づいた。まるで恋人に口づけをねだるかのように傾けられた顔が、ふと、とまる。
「誘惑は無駄と知れ、魔女」
王は右腰に唯一身につけている儀礼用の短剣をすっと抜き、アドレアのやわらかい腹に突きつけていた。魔女はそれに気づくと、その身体と白い髪をくねらせてくっと笑った。
「ヴェルフレストは、お前の子よな!」
魔女は身を引いた。
「彼もそう言った。だがヴェルフレストは剣の代わりに花を寄越す。あれは誰に似たのだろうね」
王は苦々しい顔をした。では、息子はやはりこの魔女に魅了されているのではないのか、と。
「〈風見の指輪〉の在処を知りたいか? 判らぬか? お前たちはもう忘れてしまったのだな。エディスンの血に伝わるもののことを」
「風見の、指輪だと。われわれが何を忘れたと言うのだ」
「指輪はお前のもの、カトライ。いいや、『お前のものだった』と言おうか。この先はヴェルフレストのものだからね。私は彼に指輪をやりたい」
「関わるな。お前には関係のないことだ」
カトライはきっぱりと言った。アドレアの顔に奇妙な表情が浮かぶ。
「お前たちはみな――そう言うのだな」
言うと魔女は、カトライが突きつけたままの短剣など気にせぬかのように、再び王に顔を近づけた。
「指輪は必ず、ヴェルフレストの手に渡る。これはお前にとって安心か、それとも不安かい?」
カトライは剣を握る右手が汗ばむのを感じていた。彼は、自分がこの魔女を刺し殺すことなどできないのが判っていた。
魔女がその魔力で逃れるだろうというだけではない。人を刺した経験がないためでもない。そして、かつて若き日に、いまの姿と変わらぬアドレアに惹かれた遠い記憶のためでも。
「――ローデン!」
王は、一瞬よぎった甘苦い感覚を振り払うように一歩を退くと、叫んだ。
「おらぬのか、この魔を祓え!」
「私の思いはいつも通じぬ。残念なことだ」
魔女は悲しそうな表情を見せたが、王にはそれは演技としか見えなかった。
「無駄なこと。私の気配をかぎつけていれば、あやつはもう、とうに姿を現しているだろうさ」
アドレアは肩をすくめた。
「自分以外に魔法の使い手が宮殿にいれば、闇夜に〈光星〉が煌めくよりも鮮明に、あやつには判ろうね。けれどいま、あやつは風具を案じるあまりほかの術師の手を借りた。それが彼を鈍くするよ、カトライ。彼を使い続けたいのならば、ほかの術師に気を付けることだ」
「魔術師という連中は、自分たちばかりが判るような話をする」
カトライは唸った。魔女は笑う。
「それは仕方のないことだ、カトライ」
「ええ、陛下は魔力などお持ちでないのですから」
その声にアドレアはまるで猫のように飛び退った。
「エイファム・ローデン!」
「好き勝手は困る、〈白きアディ〉」
苦々しい表情で、戸も開けずに王の部屋へ現れた二人目の人物は、先にいたふたりの間に立つようにすると黒いフードの下から暗い色の瞳をのぞかせた。
「ローデン」
カトライは息を吐いた。アドレアに誘惑などされぬ自信はあったが、それでもこうして魔女とふたりきりでいるというのは、精神力を消耗した。
「陛下、ご安心を」
宮廷魔術師は短く言うと、指を不思議な形に曲げて手を振った。するとそこに木製の長い魔杖が現れる。
「帰れ、アドレア。ここはお前の支配が及ぶ場所ではない」
その言葉に魔女は笑った。
「ならばお前も同様のはずだ、〈混沌の術師〉」
「生憎と」
ローデンはアドレアに視線を向けたまま――睨むというのではなく、ただ見ているような――言った。
「私はエディスンの宮廷魔術師。エディスン王カトライに忠誠を誓う身だ。ここは我が力の及ぶ場所なのだよ、魔女」
「言うものだ、このひよっ子が」
アドレアは何か仕草をした。ローデンは素早く守りの印を切る。それを見た魔女は声を上げて笑った。
「馬鹿な子だね、私はエディスンの子供たちを傷付けは、しないよ」
その笑い声は、またこれまでのものと異なった。カトライ・エディスンがそのうちに聞き取ったのは、まるで、幼子のやんちゃに笑う、母のような。
「指輪についてはヴェルフレストに任せておくとよい。そして首飾りを探るがいい、これが私にできる助言」
「……アドレア」
王は知らず、その名を呼んだ。彼女が去ろうとしていることに気づき、それを呼びとめるかのように。
魔女はもう何も言わず、不思議な笑みを彼に向けながら、カトライの心が感じ取った通り――姿を消したのだった。




