04 ご不満か
一分近く、その詠唱は続いただろうか。ヒサラはゆっくりと目を開け、様子を見るようにまたカリ=スの横にひざまずくと男の顔をのぞき込んだ。
「カリ=ス殿」
声をかけられた男はぱっと目を開け、目前に見知らぬ顔を認めるとおそるべき速さで反応した。左手で魔術師の杖を払い、右手で若者の細首を掴んだのである。
「やめろ、カリ=ス。味方だ」
たぶんな、と王子は付け加えた。その声に砂漠の男は手を離し、突然の攻撃に為す術もなかった魔術師は咳き込んだ。
「何があった」
「大したことではない。お前が魔術でのんびり眠っている間に俺が死にそうになっただけのことだ」
ひらひらと手を振ってヴェルフレストが言うと、カリ=スの瞳が曇った。
「――気にするな。冗談だ」
何となく気まずくなって王子は言った。カリ=スは何か言おうとしながら立ち上がりかけ、彼にしては珍しく、悪態をついた。
「どうした」
「立てぬ」
「何だと?」
ヴェルフレストは驚いて、説明を求めるようにヒサラを見た。
「カリ=ス殿は」
ヒサラはまた軽く咳き込んだが、どうにかそれを抑えて続けた。
「たいそう、魔力への耐性をお持ちですね。そのせいでと言いましょうか、かなり強い術をかけられました。私は強引にそれを解きましたが、まだ影響が残っているのでしょう」
少し休めば治ります、と魔術師は言った。
「魔術」
彼は繰り返した。
「どういうことだ」
「あとで説明をする」
ヴェルフレストはそう返答すると、ヒサラに向き直った。
「お前は父上とローデンの使いと言うことだが、何か伝言でもあるか」
「ローデン閣下からは、そのまま、信じる道を往かれるようにと」
「相変わらず曖昧だ」
ヴェルフレストは唇を歪めて言った。彼とティルド・ムール少年の感覚は様々な面で異なっていたが、ことがローデン公爵に関する限りは、彼らは彼らの「星巡り」と同様、よく似通った感想を示したと言える。
「そして、陛下よりは」
言われてヴェルフレストは片眉を上げた。
「何だ」
「余計な隠し立てはするなと」
「はっ」
その息子は笑った。
「成程。ローデンが言いたくても言わぬことを父上が代わりにな。いいだろう、魔術師。お前は確かに父とローデンの使いのようだ」
隠し立てはばれたようだな、と王子は言った。アドレアのことを知らぬままである砂漠の男はわずかに首を傾げたが、この場で追及はしなかった。
「伝言がそれだけならば、お前の役割は何だ。カリ=スでは手が届かぬ方向からの護衛ということか」
その言葉にカリ=スは少し不満そうに片眉を上げた。だが、彼は主の指摘を理解していた。
魔術となれば、剣で対抗するには限界がある。カリ=スがヴェルフレストの前で剣を構えていたところで、何の役にも立たぬこともある。砂漠の男はそれを知っていた。気に入らなくはあったろうが。
「平たく言えば、そういうことになります」
ヒサラはうなずいた。
「だが、ウェレス領地にたどり着こうといういま、連れに魔術師がいるという話にしろと言うのか?」
たいていの場合において、魔術師などは嫌われ者だ。たとえばカトライ・エディスンにはローデンという友がいたから、魔術師に抵抗がない。しかし、余所の街からの使者が魔術師を伴ってやってくればカトライであっても楽しいとは思うまい。「何かを探ろうとしている」と感じられるからだ。
「ご心配は不要にございます。私は目立たぬようにこっそりとついてまいります故」
「それはそれで問題だとは思うが、なかなか面白い」
ヴェルフレストがにやりとすると、魔術師は礼など述べた。
「追って、神官も殿下のお力になるべく馳せ参ずるかと」
「神官」
ヴェルフレストは目をしばたたいた。
「小隊や中隊に囲まれるよりはよさそうだが、どういうことだ。供はひとりだと言っておったのに、〈星読み〉の術師はすっかり方針を変えた訳か」
「必ずしも、そういうことでは」
ヒサラは言った。
「殿下は、カリ=ス殿とおふたりで旅をされる。われらはそれを補助するのみにございます」
「十二分だ」
彼は言った。
「ローデンらしくないな。あやつは人を案じてどうこうするよりも、放り出しっぱなしでいる方が趣味だと思っておったが」
「閣下のご趣味はともかく」
ヒサラは真顔のまま、ただ肩をすくめて続けた。
「現実に、先のようなことが起きた」
その指摘にヴェルフレストは口を歪めた。
「殿下の敵はわれらの存在を嫌がるでしょう」
「我が敵とお前も言うか」
「ローデン閣下のお考えです」
その返答にヴェルフレストは笑った。
「お前はローデンに、カリ=スは父上に従う訳だ。俺の言うことを聞く者はいなさそうだな。ファーラでもつれてくるべきだったか」
実際には彼の気に入りの侍女ファーラもまた、ヴェルフレストの言うことなど聞きはしない。そこをこそ彼は気に入っているのだが。
「では、よかろう」
王子は再び言った。
「お前が俺を守ることを許可しよう。先ほどは許可を与える前だったが、緊急だった故、許す」
魔術師は、ヴェルフレストが冗談を言ったのかそれとも不興を覚えているのかと、目を細めて考えるようにした。だが、王子の顔にはどちらの色もなく、ただ彼は目新しいものを見るかのようにヒサラを見るだけだ。
「王子殿下」としての挨拶を受けたのは久しぶりだな、などと彼が考えている内に、ヒサラはまたも正式な礼をするとローブ姿を闇に消した。魔術でどこかへ移動したのか、それともやはり魔術で姿を見えなくしただけなのかは、彼には判らない。
「こうなった以上、魔術師の『護衛』は判らなくもないが、神官までとはな。ローデンも何を考えているのやら」
ヴェルフレストは肩をすくめると、背後でじっとしていたカリ=スを振り返った。
「ご不満か、護衛殿」
「満足とはいかぬ」
言いながらカリ=スはゆっくりと立ち上がる。今度はどうにかうまく行ったようだが、足下が不確かなのか少しふらつき、またも悪態をついた。
「あやつが気に入らぬか」
砂漠の男の回答にヴェルフレストは笑ったが、カリ=スはわずかに首を振った。
「そうではない。魔術師が関わってくれば、私では戦いきれぬ。事実、お前が危うかったということを私は知らぬ。ならば、彼は必要だ。ローデン閣下は正しい」
「では、何が不満だ」
「魔術などというものが関わるということ」
カリ=スはそこで言葉をとめ、微かに息を吐いてから続けた。
「理解できぬものだからと無闇に怖れるまいとは思うが、私の剣の届かぬ世界にお前が行けば、私は追ってゆけぬだろうと思う」
「俺が? どこへ行くと?」
ヴェルフレストは、何を言い出したのだとばかりに片眉を上げた。
「意外な想像力だな、詩人にでもなったらどうだ」
王子は笑った。カリ=スは何も続けず、ただ掛け布を彼に投げて寄越すという形で、見張りの交替を王子殿下に指示した。




