02 お話をしたいだけ
ヴェルフレストはふと、その使命を彼に与えた父親とその臣下にして友人である宮廷魔術師を思った。
魔術師協会の力を借りてローデンへの報告をしてから、もう半月近くが経つ。
「〈風読みの冠〉」
彼は、口に出さずに呟いた。
「──〈風見の指輪〉」
カリ=スにもローデンにも話していない、魔女アドレアのこと。
彼女が言った「指輪はヴェルフレストのものだ」との言葉は、あれからずっと彼の内にあった。
アドレアを怒らせただろうかと気にかかっていたが、それは「魔女の怒りを買ったかもしれない」という怖れより、「ご婦人を傷つけたのであればよろしくない」という何とも紳士的、或いは貴族的な感性による。
たとえ彼女がどんな秘密を抱えていようと、ヴェルフレストを好むと言い、手助けを──どのようなものとも知れぬが──すると言ったことに嘘はないように思った。とは言え、彼女の言うようにローデンが彼を利用しようとしているとは思わなかったが、この辺りは見解の相違と言う辺りだろう、と王子は考えていた。
「アドレア、か」
おそらくは眠りが浅いであろうカリ=スを目覚めさせぬようにごく小さな声であったが、ヴェルフレストは何となくその名を呼んだ。
不気味で、奇妙な予言を与える、美しい──。
そう考えて彼は苦笑する。
彼女にそう言ってはならないのであった。
そう思った、次の瞬間。
彼の顔から笑みは消えた。
「何者だ」
さっと立ち上がって細剣を抜いたヴェルフレストは、闇に向かって鋭く問うた。
「出てこい。隠れても気づいているぞ」
「――隠れなど」
彼はどきりとした。
その声が予想と異なり、女のものであったため――それとも、予想していたからだろうか?
「アドレア、なのか?」
すうっと影が闇から現れた。
月明かりだけがそれを照らす。
まるで、月の女神が降臨でもしたかのように。
「いいえ。生憎とそうではありません。待ち人がいらしたのでしたら、お詫びいたします」
眩いばかりの金の髪を揺らして、女は鈴の鳴るような声を出した。
「何者だ」
彼は繰り返すと、剣を構え直した。アドレアではない。見覚えも、なかった。
「魔物か」
「おやめください、そのような無粋なものは無意味」
女がすっと手を振ると、彼の意志とは無関係に剣の切っ先が下がった。ヴェルフレストは舌打ちをする。
「カリ=ス!」
「それも、無駄ですわ」
女は微かに笑った。それは何とも美しい笑みで、たいていの男の心をとろけさせそうだった。ヴェルフレストの心に、「警戒などする必要はない」という思いが湧き上がり――だが王子は懸命にそれに抵抗した。
このように声を出して、鋭敏な砂漠の男が目を覚まさないなど有り得ない。
なれば、目前の女が人間であるにしろそうでないにしろ、彼と彼の連れは既に尋常ならざる何かに巻き込まれている。
「どうしてそのように、険しいお顔をされるのですか? 怖れることなど何もありませんのに」
何とも蠱惑的な声を出しながら、美しい女は足音も立てずに彼の方へと歩を進めてきた。ヴェルフレストは剣を持ち上げようとしたが、そうすればするほど腕からは力が抜けるようで、彼が上質の細剣を取り落とすまで長くはかからなかった。
「そう、それでよいのです」
魔女――それとも魔物は、彼の目前まで迫っていた。
女の髪は月の光に美しく輝いていて、ヴェルフレストの金髪よりもきらびやかに見えた。だがそれはどこか、言うなれば偽物めいていて、どうにもしっくりこなかった。
着飾る宮廷雀たちの間で育った彼にはすぐに判る。この女のそれは彼と違い、生まれつきのものではない。
薬を使うのか魔術なのか彼は知らぬ。だが、外見が求められる仕事をする者たちは、髪や肌の色を極端に薄めたり濃くしたりすることもあると聞く。悪徳とまでは見做されないものの、「いかに生来のものであると思わせるか」を競うところがあるため、「騙しの技術」と取られることもあった。
「何を怖れ、何を案じられます? 私はただ、お話をしたいだけ」
「話だと」
彼は頭がくらくらするのを覚えながら、声を出した。
「何の話をする。目的は何だ」
「目的」
金髪の女は唇の両端を上げて笑んだ。それは妖艶という言葉が相応しく、宮廷の美女に慣れている王子にさえ魅力的に見えた。
「目的は、そうですわね」
女は言いながらヴェルフレストに間近く寄り、白い手をゆっくりと彼の腹から胸へ、そして彼の両頬にまで持っていった。彼は全身が粟立つのを感じる。彼は、それが怖気や嫌悪ではなく、悦びであることに気づいて、愕然とした。
「殿下のお心、と言うのはどうでしょう」
「去れ、女夢魔め」
彼はようよう言ったが、その声は弱かった。触れられて退くこともできない。動くことが、できなかった。
「夢魔と言われますか。それもよいでしょう、では私はあなたの夢を喰らいます。その代わりに愉悦を差し上げましょう」
女の唇が彼のそれに合わせられた。ぞっとするような歓喜が全身を駆け抜ける。これに抗える男などいるはずがなかった。彼の頭のなかは、全くの空白に、なる。
「さあ殿下、わたくしを――」
「そこまでにするんだね」
耳元で声がすれば、ざあっと冷水が浴びせかけられたかのようだった。
ヴェルフレストはばっと後方に飛びすさり、剣を取り落としたままであることに呪いの言葉を吐いた。
「人の獲物を横取りしようなんて、ケチな魔女の考えそうなことだ。それ以上はおやめ」
冗談にも機嫌がよいとは言えぬ調子で声は続けた。
「そこな魔女もだが。ヴェルフレスト、お前もね」
「――アドレア」
ヴェルフレストは呆然と呟き、彼らの間に現れた女を見ながら、ほとんど無意識のままで唇を拭うようにした。それを見た白い髪の魔女は笑う。
「夢魔の口づけは心地よかったかい、王子。惜しいと思っても続きは諦めてもらうよ。私はお前をほかの魔女にくれてやりはしない」
「アドレア。まさか本当に現れるとは」
金髪の魔女は苦々しげに言った。
「何かおかしいかい。私はいつだって可愛いこの子を見てるのさ。くだらない魔女の誘いなんかに引っかかるのを黙って見過ごすと思うかい」
「くだらない魔女。お前もその魔女でしょう、お前こそ彼を誘惑して自分のものにしようとしているのでしょうに」
「私が、この子を自分のものに?」
繰り返すとアドレアは笑った。
「愚かだね、メギル。それともリグリスの考えかい。ならばあの男もまた大馬鹿だ。帰って主にお伝え、ヴェルフレストは決して渡さぬとね」
「それはあなたの決めることではないわね、アドレア」
メギルがそう言って円を描くように片手を動かすと、その手に短杖が現れた。アドレアの赤い目が細められる。
「やる気かい。この、私と」
「そうね、同じ台詞を返させていただくわ。王子殿下がくだらぬ魔女の毒牙にかかるのを防ぐため」
「待て」
魔女ふたりのやりとりをじっと聞いていた話題の王子は、そこでようやく声を出した。
「いい加減にしろ。黙って聞いていれば何だ。誘惑されるの毒牙にかかるの、俺を何だと思ってる」
若い王子の台詞にふたりの魔女はそれぞれの方法で笑った。
「魔力から身を守る術を持たない、哀れな幼子さ」
「最悪の魔女に見込まれてしまった、お気の毒な殿下ですわ」
「どちらも面白いが、感謝する気にはなれん答えのようだ」
彼は唇を歪めた。




