01 王子という位
ヴェルフレスト・ラエル・エディスンが忌々しげに呪いの言葉を吐くなどと言うのは、なかなかに稀であった。この王子はたいていのことを――たとえ、口先だけだったとしても――面白いと言うからである。
北端のエディスン領と南方のウェレス領では、気温の差がかなりある。
秋の初め、冬はまだ先、南に暮らす人間からしてみれば「寒い」と言うにはまだまだ早かったが、一年を通して暖かい――と言うよりも、暑い――北の街で生まれ育った彼は、装飾の衣装として薄いマントを羽織ること以上のことをしたことがない。防寒のために厚い上着を着る必要性など感じたことはなかったのだ。
「寒いのは苦痛か」
一方でカリ=スは面白そうにヴェルフレストを見る。
「お前は平気なのか」
北方陸線に面する都市の王子は、灼熱の大砂漠に育った男をじろじろと眺めた。
「俺よりお前の方が条件が悪いんじゃないかと、疑っているんだが」
生まれ故郷とこの場所の気温の差を言うのならば、ヴェルフレストよりもカリ=スの方が暑い――というよりはむしろ「熱い」だろうか――土地の生まれだ。
「確かに、私の故郷に比べればエディスンでも陽射しは穏やかだと言える。だが、これはこういうものなのだと思うだけだ」
「成程。俺は修行が足りないと言う訳だな。お前の心根を見習うとしよう」
ヴェルフレストはそう言いながら、しかしこれまでよりも火に近く座り直した。
旅をはじめたばかりの頃は、王子殿下は狩猟の方法はもとより、天幕の立て方、火の起こし方ひとつ知らなかったが、砂漠の民として生まれた男は「西」のちょっとした旅人よりもよほど、その手の技に長けていた。本当はカリ=スがひとりでやった方が早いような場合も多かったけれど、ヴェルフレストは――もちろん――面白がってそれを手伝い、いまではなかなか、王子殿下らしくなくも、野宿の支度に慣れてきていた。
野性的な食事だけはどうにもまだ馴染めずにいたが、この旅でしかできない体験だと思えば、何でも興味深かった。
これをしてカリ=スはヴェルフレストをよくも悪くも子供だと評していた。見知らぬものにはとりあえず近づいてみる、好奇心に満ちた子供。ただそれは、大きな心配の種でもあった。〈火傷を負わねば火の何たるかは判らぬ〉という言葉の通り、ヴェルフレストが何にでも興味を示すのは、言うなれば痛い思いをしたことがないからである。
季節は一年の半ばを越えようとしており、中心部の南寄りにあるウェレス領に足を踏み入れた彼らの上には、冷気と言うものが降りはじめていた。
冬と言うにも凍えると言うにも程遠く、せいぜいが「肌寒い」であった頃はヴェルフレストも面白がっていた。だが日々が過ぎ、かつ南下すればするほど冷え込むのだと気づいた王子殿下は、さすがに面白くなくなってきたのである。
「今宵は冷えそうだ。火を強めに焚いておくことにしよう」
少し前までは獣や魔物避けの意味でのみ火を焚いていたが、そろそろ夜露は冷たい。砂漠の男はそう決断し、その主は従うことに決めた。
カリ=スが王子の身分に気を回してどうこう言うことは――責任がどうこう、ということを除いて――なかったから、つまりそれが最上だということだ。何も「王子殿下が寒がっていらっしゃるから仕方なく」という訳ではないだろう。
「先に少し休む。月が」
カリ=スは北東の方向に見える木立ちの辺りを指した。
「あれにかかったら起こせ。街道も近いし、妙な輩も出ないとは思うが、何か動くものを見たと思えばすぐに起こせ。夢でもかまわん」
そう言うとカリ=スは薄布を身にまとって、剣を掴んだまま、さっと横になる。王子にどんな反論も――言葉に従えば、今夜もほとんどカリ=スが夜番をすることになる――「面白い」も許さぬ間の出来事であった。
ヴェルフレストは肩をすくめるにとどめ、ぱちぱちとはぜる薪を眺めた。
カリ=スはそれ以上の注意を与えなかったが、火の起こし方や獲物の探し方と違って、夜の見張りなどはついて教えるようなものではない。火を絶やさぬこと、怪しいものを見れば報せること、それだけ理解していれば充分だ。
これまでは、それほど気を使う必要はなかった。まだ暖かい季節、暖かい地方であったということもあれば、大街道沿いならば宿屋も点在したから、そこにたどり着くまで進むという方法をとることも多かった。そうした場所の近くなら警備の戦士たちの巡回もあるし、野宿をしても賊や魔物の類は滅多に出ない。問題だったのは雨天くらいだ。
だがこうして寒くなる季節に南下し、人通りの少ない街道の外れで火を焚くことになれば、余計なものを招き寄せる可能性も高まる。次の街で身分を明らかにすれば彼の身を守る小隊と街道を行くことになるだろうが、そこまでは警戒が必要だ。ふたりだけでは問題があるとカリ=スが判断すれば、通りすがりの隊商にでも便乗をするだろう。
ヴェルフレストはいまではすっかりカリ=スを信頼していた。いささか小うるさいと思うこともあり、相変わらず彼をひとりにしようとしないところは面倒にも感じたが、大概においては非常に得難い道連れだと言っていい。
カリ=スは彼の臣下ではないが、彼の父を恩人としている。彼が王子だからではなく、カトライの息子だから守ろうとしている。
これは、王子として尽くされてきた経験とはいささか異なった。
もちろん、エディスンの王子であると言うことはその街の王であるカトライの息子だと言うことになる。しかしそれでも、カリ=スの彼に対する態度は、城のほかのどの人間とも異なった。
言葉遣いを改めさせたせいも多分にあるだろう。だが、それだけではない。
カリ=スは、ヴェルフレストに「カトライの息子」という目線を送るが、「エディスンの王子」という仮面をかぶせてこないのだ。ヴェルフレストが責任を忘れているときは別だが。
それかもしれない、とヴェルフレストは思った。
彼は王子であることが嫌だとか面倒だとか思ったことは――滅多には――なかったが、「そうでない」ことができると考えたことはない。
この世に生を受けた瞬間から彼はエディスンの王子であり、大戦乱か反乱でも起こって街の支配力がひっくり返らない限り、このままだ。兄が王位に就けば王子から王弟となり、おそらくエディスン付近の伯爵領にでも暮らすことになるだろうが、エディスン王家の者という立場は変わらない。
だがカリ=スはそれを飛び越えている。そうではなく、最初から、砂漠の男の目にはその垣根は入っていないのかもしれない。
ほとんどの者に取って、カトライの息子であるということはエディスンの王子であるということだ。だがカリ=スは違う。カトライがたまたま王であるから、その息子がたまたま王子だというだけだ。そんなふうに思う者はほかにいない。いや、カトライが王位に就く前からの友人というローデンも、カトライの息子たちに対して似たような感覚を持っているだろうか。
ほかに特殊な存在と言えば、ティルド・ムールである。
かの少年は、ヴェルフレストを王子と思うより先に恋敵のように考え、そのためだろうか、リーケル・スタイレン嬢に関すること以外でも彼をライバルのように考える。そのような者もこれまではやはりいなかった。
ヴェルフレストはティルドが何かと第三王子を思い出しては腹を立てていたことなど知らないが、知ればカリ=スに思うのと同じように面白いと感じるだろう。
父が具体的に何をして、カリ=スの部族を救ったのかは知らない。それは、言うなればどうでもいいことで、重要なのは、カリ=スがカトライに返しきれないと考えるほどの恩を抱えている、ということだ。
王ではない、父に。
カリ=スには、王子という位など大して重要ではない。
そしてまた、ヴェルフレストが課せられた使命のことも。




