11 再出立
夜の風は、少し肌寒くなってきていた。
仕事を終えたユファス・ムールは片付けの済んだ下厨房をあとにしながら空を見上げた。月の女神は今宵も美しく照っている。
トルス料理長に話をする時間を捻り出せなかったな、と彼は自身を省みた。だが今日は居残ってトルスが空くまで待つことはできなかった。と言うのも、彼は本気で、再び剣を手にするつもりでいたのである。
下厨房によくくる近衛隊副隊長のイージェンは、ユファスの再稽古を面白がって引き受けた。隊長よりは時間があるからいつでも言えというのが若い副隊長の言葉だったが、お互いに時間が合うのはどうしても夜遅くになる。業務で疲れた身体で剣の稽古などは怪我の原因になりかねないが、意気込んで決闘をする訳でもないのだから慎重にやればよいだろう、などとイージェンは気軽に、ユファスはそれこそ慎重に考えた。
「よう、ユファス」
中庭に足を運ぶと、縁石に腰かけて、イージェン・キットが手を振った。三十歳前ほどの青年は緑色の近衛隊の制服を身に付けたまま、まるでこれが任務の一環であるかのように――というには、ずいぶん気軽な調子だったが――敬礼などしてみせた。
そこで、ユファスは目を見開く。
「な」
彼は正直、いささか焦った。
「何でファドック様までいるんですか」
見ればそこにはイージェンのほかにもうひとり、立っている姿がある。
それは、黒い髪に黒い瞳を持つ三十半ばほどの男。若くして近衛隊長の座に就き、近いうちに養い親であるキドの伯爵位を継ぐとも言われている、シュアラ王女の護衛騎士――ファドック・ソレスであった。
「何」
言われた近衛隊長は面白そうな顔をした。
「お前が弟に対抗するかのように修行をはじめる気らしい、との密告が、副隊長からあってな」
「イージェン」
「別に口止めはされなかったと思うが」
ユファスが咎めるように言うと、副隊長は肩をすくめてにやりとする。
「秘密の修行をして兄の権威を取り戻そうってんじゃあるまい? 何にしたって、俺よりファドック様の指導を受けた方が」
「兄弟揃って面倒見てもらう訳にいきませんよ」
ユファスは手を振って拒むようにした。
「ひとりもふたりも変わらんな」
ファドックはそう答えた。
「それどころか、ティルドとお前が剣を合わせていれば、その間、私は休めるということにもなる」
近衛隊長は真顔でそんなことを言ってから、ふっと笑った。何も余計な気を回すなと言うのだろうけれど、ユファスの方では曖昧な笑いを浮かべるにとどめた。
「お前がどこかの兵士であったという話は聞いていたが」
ファドックはユファスをじっと見て言った。
「捨てたものを再び取るのか」
それは詰問ではなく、ただの質問だった。ユファスは返答に躊躇った。その短い問いは、幾つものことを尋ねているように思えたのだ。
「――ひとつ、いいですかファドック様」
近衛隊長は促すようにうなずいた。ユファスは一秒目を閉じ、それを開いて声を出す。
「ティルド。あいつ、どうです」
「そうだな……」
兄が問いたいことを理解して、ファドックは腕を組んだ。
「訓練を受けているだけはある。基礎には問題がなく、筋もいい。だが、少し視野狭窄になるところがあるようだ。まだまだこれからだろうが」
「その『これから』が心配なんです」
ユファスは嘆息した。
「当人が思っているより喧嘩っ早いところがあるから、余計な争いを生まないとも限らない。即断即決も悪いことじゃないけど、落ち着かせることも必要だ。――あのですね」
彼は深呼吸をして、続けた。
「僕がここを離れたら、トルスは怒ると思いますか」
「怒るだろうな」
ファドックはあっさりと言った。
「だが、怒らせておけ」
料理長の友人である男の言葉にユファスは笑みを浮かべる。
「そうしようと思ってます。僕は弟の隣で、剣を取ることに決めたんです」
そんな訳で、ユファスは調理の仕事を終えてから、こっそりと剣の訓練を開始することとなった。
と言っても、秘密にしようとしていたということではなく大っぴらにしないという程度の意味だ。
料理長トルスにはきちんと話をした。トルスはさんざん彼を罵倒したけれど、どうしても行くというのならとめる権限はない、などと言って熟練になった料理人が去ることを認めた。ユファスは恩人であるトルスに心から謝罪をしたが、そんなものは要らん、出ることになるその日まで仕事を疎かにしなければそれでいい、というのが恩人の返事だった。
ユファスに再稽古をつけることにした承知した近衛隊の副隊長イージェンが、面白がってそれを簡単に近衛隊長に「密告」した日から幾日か経つと、ムール兄弟はいつの間にか、近衛隊長、及び副隊長直々に稽古をつけられることになっていた。
普通で考えれば、なかなかに有り得ないことだ。
ユファスは兵ではないのだし、ティルドに至っては余所の街の兵である。いったいどんな軍隊や近衛隊が、わざわざ料理人やら余所の兵士に訓練をつけるというのだ?
もちろん、彼らはそれを職務のない時間帯に行っていたし、王城の許可も得ていた。ティルドはティルドで厨房の手伝いをするようになってきていたから、全くの部外者ではないとういうことになったが、それでも普通に考えれば――少なくともエディスンでは有り得ないと、ティルドは思った。
それを為させたのは、アーレイドという街がここ何代も戦乱を知らぬ平和な街であると言うことと、近衛隊長兼護衛騎士にして伯爵位の継承者であるというソレス近衛隊長の特殊性だったかもしれない。
ともあれ、ティルドはエディスンでは一対一の徹底した指導などしてもらったことはない。彼の技能は目に見えて上がっていった。
そして剣の稽古を積めば積むほど、少年の心は落ち着くどころか、必ずこれを魔女につきたててやる、という方向に向かった。
兄は弟に馬鹿な真似はよせというような説得をすることを諦めていたが、弟はそう簡単にはいかなかった。少年は何とか、兄に旅立ちをやめさせようと思っていたのである。
行くの行かないのと言うやりとりはきりがないようにも思えたが、やがて分はティルド少年にとって悪い方に動いていった。
というのも、兄は五年間の空白期間をものともしないように現役である弟に追いつき、追い抜いたかのようだったからだ。
「何だよ?」
弟の視線を受けて、ユファスは戸惑った顔をした。
「別に」
「悔しいんだろ」
イージェンはにやりとして言った。
「ついこの前までおたおたしてた兄貴が、あっという間に自分を抜いたから」
「別にっ、悔しくなんか」
少年は言ったが、表情は言葉を裏切っていた。
「ティルド、僕はこれでも一応、お前の倍くらいは経験があるんだ。あのままエディスンにいればお前の上官だったかもな」
「くそっ」
そんなふうに言われたティルドはつい、剣を取る。
「もう一度だ、今度はやられねえぞ、ユファス!」
この調子で稽古は続いたが、それはせいぜいが初級から中級と言った段階で、彼らのどちらも、冗談にも剣の達人とは言えなかった。
ユファスはそれをよく判っており、ティルドも認めたくはなかったが判っていた。
それでもティルドは自らの気持ちを違えずにおり、そうなれば兄も、また。
「あの、さ、ユファス」
稽古を終えた夜は、兄弟のどちらもくたくただった。風呂――この城には使用人専用の風呂があった――のあとで寝台に倒れ込みながら、ティルドは兄に声をかけた。
「何だ?」
「俺さ」
彼は寝台から身を起こす。
「レギスまで戻ろうかと、思ってる」
「そう、か」
それはつまり、再出立を決意したと言うことだ。兄は理解して、うなずいた。




