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あずさ弓  作者: 黒飛 翼
第一章 真っ白な少女
2/2

梓弓

山を降りて畦道をしばらく進むと、周囲を塀に囲まれた敷地と併設された駐車場が見えてくる。


塀の中にある巨大な屋敷のような建物が、温泉旅館夜桜だ。


細く息を吐き、俺は踏み出す足に力を込めた。


それから正面の入り口を探す。


夜桜の建物を余すところなく囲っていた塀が、一部だけくり抜かれてアーチを作っていた。木でできたアーチの上に「夜桜」と文字が掘られている。


それで場所な間違ってないことを確信してから、敷地内へ入ろうとしたその瞬間だった。


「あ、あの!ちょっとやめてください!」


敷地内の奥から勢いの強い声が聞こえる。


様子を伺ってみて、俺は「げっ」と顔を顰めた。


どうやら、建物の入り口前でスーツ姿の中年男性と少女が揉めているようだった。


男の方は背を向けているため顔が見えなかったが、頭皮の薄さから察するに五十は超えている。

頬が真っ赤に染まっているので相当酒が回っているのだろう。格好から見るに会社帰りのサラリーマンといったところか。典型的な酔っぱらいオヤジといった感じだ。


一方、少女の方は俺とさほど年が変わらなそうだ。カーディガンの上からでもわかるほど凹凸がはっきりした健康的な体つきをしているが、顔立ちはあどけないので年上にも年下にも見えた。


「あの、ごめんなさい。私、早く帰らないと行けないので……」


「そんなこと言わずにさあ。三十分だけ!三十分だけ付き合ってよ!ね?」


少女は愛想笑いを浮かべながら、どさくさに紛れて伸ばされた手を振り払っていた。


「ほ、本当に困ります!それに私まだ未成年ですし、お酒飲めませんよ~」


どれだけセクハラまがいの接触をされても、少女は決して相好を崩そうとしなかった。


彼女の考えが理解できず、俺は首をかしげた。


どうして彼女はわざわざ男の相手をしてるのだろう。


どう考えても話は通じそうにないのだから、はっきり断るなり建物の中に逃げ込むなりしてしまえばいいのに。


そう思って俺はしばらく様子を見ることにした。


本当は早く建物に入りたいのだが、騒ぎは建物の前で起きているので避けられそうにもない。


かといって仲裁に入れば、更に話がややこしくなりそうで、迂闊に首を突っ込めない。


だから、理想的な展開は少女が逃げ出すことだ。間違いなく、それが最も穏便に済む方法だろう。しかし彼女は一向に動こうとしなかった。


「そんなこと言って~。本当は行きたいんじゃないの?」


強く拒絶されないことに味を締めたのか、男は少女のお尻にまで手を伸ばし始める。そこで、ついに少女の瞳に露骨な嫌悪感が宿った。


「や、やめてください!人を呼びますよ!」


彼女は語気を強くし、男と距離を取った。


そんな彼女の対応を見て、俺は「あーあ」と頭を抱える。


気丈な態度を見せたのはファインプレイだ。だが、理性のない相手にその対応はまずかった。


「あ?」


初めて抵抗されたことが気に障ったのか、男はドスの利いた声を出した。


「ひとだあ?上等だ!呼んでみろや!」


上機嫌だった様子が一転して、怒鳴り散らす。


少女が短い悲鳴をあげた。


そんな彼女の様子をみて、言わんこっちゃない。と俺は呆れた。


酔っ払いは特にそうだが、判断能力が浮ついた人間に牽制は効かない。この場合、正解なのは何も言わずに人を呼ぶことだったのだ。


しかし今更何をダメ出ししたところで、後の祭りでしかない。


俺は短く息を吐くと、二人のそばに大股で近づいた。


「あの。そのへんにしといたらどうですか?」


「あ……」


少女はもみ合いながらも奥に立っていた俺に気づいていたのだろう。


俺が声をかけると、安心したのか困ったのか区別のつかない吐息を漏らした。


「ああ?」


対して男は背を向けていたため、はじめて第三者の存在に気づいた様子だった。


ダミ声と共にふりむき、俺をにらみつける。


威圧しているつもりなのだろうが、特に何も感じない。


「えっと。嫌がってらっしゃるみたいなので、離してあげてはいかがでしょうか」


いやに丁寧な敬語を用いながら、諭しにかかってみる。願わくばこれで冷静さを取り戻してほしい。


しかしそんな願いも虚しく、俺の言葉はむしろ男の神経を逆撫でしただけだった。


「んだよてめえ。邪魔すんなよ」


若干呂律が回っていない暴言を吐きながら、男は大股で距離を詰めてくる。


こうなるから嫌だったんだ。


俺は嘆息した。


「え、あの……」


不穏な空気を感じ取ったらしい。少女が不安げな瞳で俺たちを見つめている。


俺はそんな彼女に恨めしげな視線を送った。


なんでさっさと逃げなかったんだ。という言葉を込めて。


その間に男は胸倉に手を伸ばしてきた。


少女の顔が強ばる。


そんな彼女を視界の端に捉えながら、俺は掴まれる寸前に身を引き、逆に相手の手をつかんだ。

そのまま苛立ちを込めるように力を入れる。


それだけで男は顔をしかめた。


手を振りほどこうとしているので離してやると、「痛いな!」男性は大きくあとずさり、手をさすった。


俺は再度息を吐く。


なんで新天地に来て早々、こんな厄介ごとに巻き込まれなければいけないのだろう。


いや、ほぼ自分から首を突っ込んだようなものだが。入り口を防がれている上に女の子が脅されていればああするしかないだろう。もし傍観していれば男の手は少女に伸びていたかもしれないのだから。


「危ない!」


少女が切り裂くような声で叫んだ。


見ると、男が形のない怒声を発しながら半身を引いていた。


大げさな予備動作だ。


握りこぶしが俺の顔面へ迫ってくる。


「ひゃあ!」少女が両手で顔を覆った。


凄惨な場面が来ると思ったのだろう。正解だ。


刹那、重量物を引きずる音がなる。


「ああ……」少女の口から吐息が漏れる。


数秒後、少女は恐る恐る覆っていた手をどけると、再び悲鳴を上げた。


「え、ええ?」


続いて困惑し、首をかしげた。


どうやら開けた視界には彼女が危惧したものと違う光景が広がっていたらしい。


「な、なにがあったんですか?」訊ねる声が震えていた。


その目は、うつ伏せに倒れ伏した男の凄惨な姿に釘付けになっている。


さあ、と俺は首を傾げた。


「酔っ払ってるから足元が覚束なかったんじゃないか? 俺のことを殴ろうとして勝手に転んでたぞ」


まるで他人事のように無表情で、俺はいった。


もちろん、嘘だ。本当は拳をかわし、その勢いを利用して倒したのだ。


だが少女はそこについて詳しく聞いてくることなく、「そ、そうなんですか……」と頷いた。


それから彼女の目線が俺に向く。怪訝な眼差しだった。


「どうかしたか?」


「あ……えっと……」


訊ねると、少女は話し方を忘れてしまったように口を半開きにしていた。


それだけで言いたいことはわかった。


あんなふうに襲いかかられたのに、この人はどうして平然としてられるのだろう。なんて思っているのだろう。


怖いなんて感情、随分前に忘れちまったからな。


物言わぬ少女にそう答えてやりたかった。が、余計なことは言わないでおく。


それから少女は呻いてる男に視線を向け、顔を顰めた。


男は敷石で膝を擦りむいたのだろう。ズボンの膝小僧の生地が破れ、だらだらと血が流れている。アルコールが効いているせいで、出血量が多い。小範囲にちょっとした血の池が出来ていた。


男の痛々しい姿に吐き気を催したのか、少女は口元を抑えていた。


「これ、救急車呼んだ方がいいですかね……」


男はいまだに苦しんでいて、一向に立ち上がる素振りを見せない。


だがまあ、ちゃんとうめき声は上げているので意識はある。怪我も見た目ほど深刻ではないだろう。


「大丈夫だろ。それくらいじゃ死にゃしねえよ」


俺は男を一瞥すると、冷たく言い放った。


「死ぬ死なないの問題じゃないような……」


少女が引きつった笑顔を浮かべる。


自分に仇なす存在であろうと、情けをかける、か。


俺にはないピュアな心だ。


そう思ったときだった。


「ちょっと!なんの騒ぎ?」


奥の建物の引き戸がたたきつけるように開かれ、着物姿の女性が出てきた。


女性は息を荒くして周囲を見回すと、「いや本当何があったの!」と叫んだ。


「女将……」


少女が声をあげる。


傍らで俺は、「ああ。やっぱり知ってるのか」と納得していた。


着物の女性──改め高田 真弓さんのことは、俺もよく知っている。この真弓さんこそが夜桜のオーナーであり、俺の下宿を快く受け入れてくれた人だ。


真弓さんは俺の存在に気づいていたようだが、なにも言ってこなかった。代わりに少女の方を向く。


「ひなな。とりあえず店の奥から救急箱持ってきてくれる? 概ね想像つくけど、何があったかはその後で聞くわ」


「わかりました」


少女はうなずくと、小走りで建物の中へ入っていく。


彼女の姿が消えると、真弓さんはまつげが長い目を俺に向けてきた。


「さて、こんな状況だけど、久しぶりね。来人くるとくん」


「お久しぶりです」


俺は小さく会釈した。


真弓さんは頷くと、顔の向きはそのままに、依然として倒れ伏したまま、呻き続けている男に目を向けた。


「これ、もしかしなくてもあなたがやったのよね?」


聞かれて俺は「その人が勝手に転んだんですよ」と肩をすくめた。


ちょっと白々しすぎただろうか。


しかし真弓さんはまるで信じていない様子ではありながらも、「ま、そういうことにしておきましょうか」と頷いた。


それから彼女は男に「お客様、大丈夫ですか?」と声をかけた。


正直気にかけてやる必要はないと思うが、旅館の女将という立場上ないがしろにするわけにはいかないのだろう。


「あ、うう……」


男は情けない声をあげながらなんとか体を起こした。


そして自分の膝からだくだくと血が流れる様を見て、小さく悲鳴を上げた。


そんな風に軽く錯乱する男を、真弓さんが宥める。


それからほどなくして少女が戻ってきて、男は軽い手当ての後に返された。


その際、俺の顔をきつく睨んできたが、何も言わずに帰っていった。


「……で、一応何があったか説明してもらえるかしら。ひなな」


男の姿が見えなくなって数秒、真弓さんが少女にたずねた。


少女はうなずくと、ことの顛末を話した。


仕事が終わって帰ろうとしたところに、入り口前で鉢合わせた客に絡まれたこと。


いくら誘いを断っても折れてもらえず、困っていたところに俺が現れたこと。


そして逆上した男が俺に殴りかかって、盛大に転んでしまったこと。(ここに関して彼女は目を塞いでいたため、俺から聞いたことをそのまま伝えていた)


それら一連の話を聞くと、真弓さんは「やっぱりね」とため息をついた。


「ひなな。一応言っておくけど、そういう時は相手にせず逃げるのよ? ていうか、今日みたいに店が近いなら逃げ込んで来ていいからね?」


「あはは……ごめんなさい」


「別に謝らなくていいわよ。無事だったならそれでいいわ」


殊勝にうなずく少女の頭を、真弓さんがほほえみながら撫でる。


まるで親子のようだ。なんて思いながら、俺はそのやり取りを見ていた。


一無で。二撫で。


三撫で──はすることなく、真弓さんがこっちに視線を移す。


「さてと。改めていらっしゃい、来人くん。それと、うちの従業員を助けてくれてありがとね」

「いえ、それくらいなら全然……」


答えながら、俺は真弓さんの後ろに控えている少女を見る。


目が合うと、彼女は柔らかい笑みを浮かべた。


話の流れでわかっていたことだが、彼女は夜桜で働いているようだ。


それなら、こんな場所に一人でいたことも納得出来た。夜桜は食事処としても営業しているとはいえ、実際のところは居酒屋に近い。だから、若い女性が一人で来るような場所では無い。


「あら、ひななのことが気になる? じゃあ、紹介しときましょうか」


俺が探るように少女を見ていると、真弓さんがそれに気づいて少女を前に押しやった。


「この子は朝比奈(あさひな)ひなな。先月からうちでアルバイトしてもらってるの。今年から高校生だから……来人くんと同い年ね」


「あ、朝比奈(あさひな)ひななです。よろしくおねがいします」


少女──改め、ひななが頭を下げる。


「俺は霞河(かすみが)来人(くると)。よろしく」


答えながら、俺は右手を差し出す。


顔を上げた少女は首をかしげたが、すぐに俺の意図に気づいたようだ。ぎこちない笑みを浮かべながら、恐る恐る握り返してくる。


そうして握手をしながら、俺は『やっぱりか……』と内心ため息をついた。

握られた手にやけに力が込められている。


さっきの出来事が原因だろう。どうやらひななは俺を警戒しているようだった。いや、下手したら恐れられているかもしれない。


成りゆき的にそうなるのは無理ないと思うが……俺がここに住んで彼女がそこで働いているなら、変な禍根は残したくなかった。これから顔を合わせるたび気まずい思いをするのは嫌だ。


そう思って考える。


どうすれば彼女の警戒を解くことができるのか。


手を離すと、今度は真弓さんがひななに俺のことを話す。


名前はもう言ったので、今日からここに住むという旨と、高校も同じだという旨を。


どうやら、あらかじめそういう人間が来るという話は聞いていたのか、ひななはすんなりと納得していた。


ていうか、高校も同じなのか。いや、古川町に高校なんて一つしかないのだから、当然同じになるか。


母が古川町の出身だから、進学面の事情も聞いている。より偏差値の高い場を求める意識の高いやつは、寮に入るなり一人暮らしをするなり、地元を出て遠くの私立学校へ行くらしい。それ以外は、ほぼ全員が地元の唯一の公立高校である古川高校へ進学するそうだ。


そんな母は地元へ出て東京の学校へ進学したらしい。母の場合は学力よりも、薙刀がやりたくて地元を出たらしい。そんな突飛な理由ではあれど、成績がよかったために反対はされなかったそうだ。


結局薙刀は高校を出たらやめちゃったけど、そのおかげで修学旅行に来た父と出会えたのよ。と嬉しそうに話していたのをよく覚えている。


対して俺はそんな母とは真逆のことを行ったわけだが、もしやこれが俺の運命の出会いなのだろうか。


なんて馬鹿なことを考えてみる。


運命の出会い云々よりも、俺はまずひななの警戒を解かなければならない。


「えっと……俺たちって同年代なんだよな?」


ちょうど真弓さんとひななの会話が途切れたころを見計らって、俺は口を開いた。


「そ、そうですね」


「だからまあ、その……なんだ。そんな必要以上にかしこまる必要はないと思うんだ。だから楽にしてくれ」


「……へ? あ、はい」


ひななはキョトンとした顔でうなずいた。


ああ……ダメだ。


もし自分が言われた側だとしても、そんな反応になるだろうなって思うような言い方になってしまった。


人と仲良くなろうと歩み寄ることに慣れていないせいで、そんなぎこちない言葉しか出てこない。


次の言葉を探して、ぐるぐると思考する。


そんな俺を見て、真弓さんが突然吹き出した。


「そんな言い方だと伝わらないわよ。来人くん」


「……え?」


「要は、あなたがここで暮らすなら、ひななとは頻繁に会うことになるんだし、仲良くしましょう。って言いたいんでしょう?」


「……そういうことです」


まるで心の中を見透かしたような言葉に、俺は首肯した。


不器用すぎて変な言い回しになったが、つまるところそういうことなのだ。


「ほら、来人くんがこう言ってくれてるんだから、ひななも堅苦しい態度はやめたら? 彼とはタメなんだから、敬語も使わなくていいと思うわよ」


さらに、俺が言おうとしていたことを先回りして言われてしまう。


そう。どっちかというと、俺はバルコニーで出会った少女のようにぞんざいな態度で来てくれるほうが嬉しいのだ。


もちろん、普段から誰に対しても丁寧な言葉遣いをしてるなら別だが……違うのなら堅苦しい言葉遣いはやめにしてほしい。


「わかりました。そういうことなら……」


真弓さんの言葉にうなずくと、ひななは再び右手を差し出してきた。


直前に自分がしたことなのだから、その意図はすぐに分かった。俺は迷わず手を取る。

まだ若干強い気はするが、今度は余分な力は伝わってこなかった。


「よ、よろしくね。クルくん」


言いながら、ひなながにぱっと笑顔を浮かべる。


そんな彼女の言葉に、俺は首を傾げた。


「く、クルくん?」


誰だそれは。と周囲を見回してみるが、今周りには俺含めて三人しかいない。


「もしかしなくても、俺のことか?」


「うん。来人くんだから、クルくんかなって思ったんだけど。ダメだったかな?」


「いや、ダメじゃないけど……急だったから驚いただけだ」


本当に急に呼び始めるもんだから、つい気づいてないふりをしてしまった。


ただまぁ、呼ばれてみて悪い気はしない。


というか、あだ名をつけられたならこっちもつけるべきだろうか。


朝比奈ひななだから……ひなちゃん? ひなひな?


なんだろう。甘ったるすぎて気恥ずかしいぞ。というか、俺がそんなあだ名を連呼するのは絵的にきつい。


なにか、いい感じの呼び方はないものだろうか。


朝比奈の「朝」をとって、アーサーとか? ……わかってる。自分で言っててそれはありえないなと思ったよ。


そんな風に葛藤していると、ひななが何かに気づいたように「あっ」と声をあげた。


「クルくんは私のこと、好きに呼んでいいからね。呼びやすい呼び方でいいよ」


どうやら呼び方に難儀していることに気づかれてしまったようだ。


「そっか。じゃあよろしくな。ひなな」


向こうが名前をあだ名にしているのだから、俺もせめて名前で呼ぶことにする。


すると、こころなしかひななが嬉しそうに笑った気がした。


「さて、意気投合したところで一つ頼まれてくれるかしら。来人くん」


会話がひと段落したタイミングを見計らって、真弓さんが口を開く。


なにをですか、と俺は訊ねた。


「ひななをね。送ってあげて欲しいの。長旅で疲れてるのに悪いと思うんだけど、心配だから」


「それくらい、全然構いませんよ」


なんだそんなことか。と思いながら、俺は二つ返事で頷いた。


確かに疲れてはいるが、体はほとんど動かしていないので全く問題ない。


むしろ、この後時間があったらランニングに行こうか、と考えていたくらいだ。


無論、ひななを送るなら走れないが、夜の散歩だと考えればいい。


「というわけで、良かったわねひなな。超強力なボディーガードがついたわよ」


「あはは。頼もしいです」


真弓さんが冗談めかしたようにいうと、ひななは屈託のない笑みを浮かべた。


それから俺の方を見て、申し訳なさそうな顔になる。


「でもクルくん、本当にいいの? 私の家、結構遠いけど」


「別にいいよ。ずっと座ってたから体力は有り余ってるし」


遠いといっても所詮バイトで通えるような距離だ。せいぜい二キロちょっと、多くて三キロくらいだろう。


俺はいつも早朝と夕方にその倍は走ってるので、全く問題ない。


無論、ひななを送り届けるのが目的なのだから、走ることは出来ないが。それなら単純に楽になるだけの話だ。


そう伝えてやると、ひななは「すごいね」と感心しつつ、「それなら大丈夫だね」と笑った。


「じゃあ、お願いします」


「おう」


話が決まると、俺たちはさっそく夜桜の敷地を出た。


俺は以前入試のためにこの街に来たことがある。


だから駅から夜桜へ、そして夜桜から古川高校へ行く道は覚えている。


だが、ひななが通ったのは俺がまるで知らない道だった。


「結構狭い道を通るんだな」


俺は前を行くひななに声をかける。


夜桜前の歩道をすぐに抜けて、俺たちは田んぼに囲まれた狭い道を通っていた。


その道がどれくらい狭いかというと、並んで歩けば落ちてしまいそうなくらいだ。


正直なところ、他に道があるだろと思ったが、案内してもらっている立場なので何も言わない。

まさか、ひななが嫌がらせでこんな悪路を選ぶとは思わない。


「うん。ここ通ると近道だからね」


ひななは歩きながらこちらを振り向く。


その様子からして、彼女はこの道を歩き慣れてるのだろう。だったら俺は安心してついていくだけだ。


「でも、ごめん。多少遠回りでも、もう少し通りやすい道のほうがよかったかな」


「いや、いいよ。これも一種のトレーニングだと思えば苦じゃない」


「ならよかった」


もうすぐで大通りに出るからね。とひななは前を指す。少し奥に出口が見えていた。


「なにかスポーツとかやってるの?」


ひななは背後の俺に届くように、大きな声で尋ねてきた。


急な質問に俺は首をかしげる。


「やってないけど、どうしたんだ急に?」


「や、体鍛えてるみたいだから、なにかスポーツとかやってるのかなって」


なるほど、そういうことか。


確かに体を鍛えてるならそう思うのが普通だ。


だが、俺は体育の授業以外では生まれてから一度もやったことはない。スポーツは。


「いや、やってない。俺が体を鍛えてるのは趣味みたいなもんだよ」


もしくは、習慣か。


小さい頃から続けてきたランニングや筋トレが、俺にとってはもはや生活の一部になってしまっている。


俺にとってトレーニングは入浴と変わらないものなのだ。


「高校に入ったら、なにか部活に入ったりはしないの?」


そう聞かれて、俺は唸る。


正味、俺は中学までスポーツは遊びの延長、なんて思ってたので部活にも入ってこなかった。

だが、せっかく新天地に来たのだ。そんなひねくれた偏見は捨てて、なにか始めるのも悪くないかもしれない。


できれば球技とか物を使うやつじゃなくて、肉体だけでできるスポーツがいいな。


単純に走るだけの陸上とか、あるわけ無いと思うけどカバディとかな。


まだどんな部活があるかもしらないのに、妄想だけ膨らんでいく。


俺は陸上部でハードルを飛び越える自分を想像していた。


「剣道とかいいんじゃない?」


ふと、なんの前触れもなく飛んできたその言葉で、俺は足を止める。


「……クルくん?」


「どうしたの?」ひなながこちらを振り向く。


「あ、いや。なんでもねえよ」


慌てて首を振ると、俺はひななの左隣に並び立った。


いつのまにか大通りに出ていたので、道幅が広くなっていたのだ。


「つーか、なんで剣道なんだ?」


「んー? ただ、なんとなく似合いそうだなって」


「なんとなくって。根拠なしかよ」


「うそ。ちゃんとあるよ。理由」


それは? と訊ねる前に、ひななが俺の右腕を掴んでくる。


そのまま手触りを確かめるように、ペタペタと触りだした。


生地越しに伝わる細すぎる指の感触がくすぐったい。


「急にどうした?」


「あはは、ごめん。腕、すごいがっしりしてるなーって思って」


「そりゃまぁ、腕立てとかも欠かしてないからな」


試しに力を入れてみる。


すると、ググッと筋肉が盛り上がって、ひななが「わっ」と驚いた。


「こんなに腕の筋肉すごいんだから、剣道の才能ありそうじゃない?」


「いやいや、腕力と才能は別もんだろ。俺に才能なんてねえよ」


右手は掴まれてるので、フリーの左手を振って否定する。


「そうかなあ?」


首をかしげるひななに、そうだよ。と念を押す。

別に筋肉なんて、極端な話、つけようと思えば誰だってつけられる。ちゃんとタンパク質をとって、時々休息を挟みつつ、がむしゃらに積み重ねていけばいいのだから。

無論、身長とか骨格は個人差が出るが、よほど小さかろうが大きかろうが、どちらもやり方次第で長所にも短所にもなる。


だから、才能なんてのはそういうのじゃなくて、もっと技術的な部分を言うのだ。

例えば野球なら、なんとなくで玉にバットを当てられる能力。サッカーなら、自由自在にボールを操る能力。剣道なら、相手が打ち込む瞬間を完璧に見切れる心眼と、そこにカウンターを合わせる当て勘だ。


才能がある人っていうのは、はじめからそういう力を少しでも持ってる人のことを指す。そして、そういう力があまりに優れてる人を天才と称するんだ。俺にはそんな才能はない。


「ちなみに、剣道に右腕はあんま関係ねえぞ」


「へ?」


「……なんでもねえ。それより、そろそろ離してもらっていいか? すげえ歩きづらい」


目を摘むって小さくかぶりを振り、キョトンとした顔のひななに離れてもらうように頼む。腕を取られてると歩きづらいのもそうだが、そろそろ大通りに出てしばらく経つ。通る車やすれ違う人も増えて視線が痛くなってきた。


まぁ、痛いといってもほとんどはチラチラと見られるくらいなので、突き刺さるほどではない。少なくとも煙たがられるような視線じゃないのは確かだ。


ただ、一つだけ明らかに違うのが混ざってるのだが……多分、ひななは見られてることにすら気づいてないな。


それなら、わざわざ教える必要はないだろう。


「あ、ごめんごめん」


ひななはハッとしたように声をあげると、俺の腕から手を離す。


さて、彼女が離れたことで変な視線は減ったけども、一つだけギラギラと押しつけるような視線はまだ残っていた。


その気配に気づいたのは剣道の話が出たあたりだ。それ以前か、少なくともその瞬間からずっと、俺たちをつけている奴がいる。


もしかしたらたまたま行き先が同じで、目の前を歩いている男女がイチャついてる(ように見える)姿を見せられて睨んでいるだけかもしれないが。


さて……どうしたものか。


別に実害はないのだが、そんなふうに敵意を向けられるのは不愉快だ。


とりあえず、次の曲がり角を曲がるときにさりげなく姿だけ確認しよう。


ここで大胆に振り向いてもいいが、ひななは視線に気づいてなさそうなので、そのままにしておきたい。


そう決めたところで、ひななが「そういえばさ」と話しかけてきた。


「クルくんってどこから来たの?」


訊ねられ、俺は「福岡」と短く答える。


するとひななは小さく声を出して、大げさに驚いてみせた。


「福岡って九州じゃん。すっごく遠くから来たんだね」


「ああ。新幹線で来たからすげえ時間かかっちまった」


正午になる少し前に博多駅について、そこから到着するまで軽く五時間以上。到着する頃には日が暮れるほどの長旅だった。


ひななが、あれ? って感じの疑問符を浮かべる。それだけで言わんとすることはわかった。


「飛行機は使わなかったの?」


「飛行機な……」


つぶやくとともに俺は頭をかかえる。


古川町は東日本の境目に位置する。


九州からそんな場所に行くのなら、飛行機を使うのが一般的だろう。実際に入試のために来たときは飛行機をつかった。


その時は三時間もかからずについたっけ。


新幹線を使うより二倍近く早かったはずだ。


だが、わかってほしい。必ずしも時間がかからないから、楽だとは限らないことを。


「飛行機はな……苦手なんだ」


苦虫を噛み潰したような気持ちで言葉を吐き出す。


すると、ひなながニヤッと笑った気がした。


「怖いの?」


からかうような語調で聞かれる。


俺は「違う」とかぶりを振った。


「怖いんじゃなくて苦手なだけ。乗れない事情があんの」


「もー。エイプリルフールは午前中までだよ?」


「いや、ほんとに嘘じゃないから」


そういえば言ってなかったが、今日は四月一日である。


高校の入学式が八日にあるため、ちょうど一週間前に合わせて来たのだ。


本当は中学を卒業したら真っ先に地元を出たかったのだが、真弓さんに春休みシーズンは忙しくなるから、なるべくギリギリにして欲しいと言われてそうなった。


と、話が脱線してしまったが俺は本当に飛行機が怖いわけじゃないんだ。


だからそんな、うんうん、わかってるよ。そういうことにして欲しいんだね。みたいな微笑をやめてくれ。ひななよ。


「飛行機って、飛ぶ時とか耳の奥が圧迫される感じになるだろ。あれが本当に苦手でさ」

巷では耳がキーンとなる感覚といわれてるようだが、俺からすれば頭の中に高圧ガスを入れられてるような感覚だった。


しかも気圧が変わるせいだろうか。飛んでる最中も吐き気を催すほど頭痛が酷くて、何度もトイレにお世話になった。


しかも航空券を往復で買ってしまったため、同じ苦行を二度も経験した。


あれは本当に地獄だった。今までの人生でトップ5に入るくらい苦しかったかもしれない。


そういうわけで、俺は金輪際飛行機は乗らないと決めたのだ。そう説明したのだが、ひななはピンときてない様子だった。


「そうなの? 私、飛行機乗ったことないからわからないんだよね」


ひななが小首を傾げる。


まぁ、あの感覚は実際に体験しないとわからないだろう。もっとも、まるでへっちゃらな人が大半みたいだが。


その後、なんとかして飛行機の辛さを納得してもらったら、流れで趣味の話になった。


先に趣味を語ったのはひななだった。


どうやら彼女は裁縫が好きらしい。


その中でも特に洋裁が得意なようで、ミシンと手縫いがどう違うとか、この前隣町に遊びに行ったとき、可愛い生地を見つけて衝動買いしてしまったとか、そんな話を熱弁していた。


残念ながら、俺には一ミリも理解できない世界だったが、よほど好きなんだろうということは伝わってくる。


そんな彼女に申し訳ないと思いつつ、俺は「すまん」と話を遮った。


急に話を遮られたというのに、ひななは嫌な顔一つせず「ん?」と俺の言葉に耳を傾けてくれる。


「お前んちはここから近いか? あと何分くらいで着く?」


「へ? あと五分くらいだと思うよ。次の道を曲がってすぐだし」


五分……か。


「それなら、悪いけど送るのはここまででいいか?」


「え、い……いいけど。ごめん。やっぱり遠かった?」


ひななの表情が一瞬驚いた後、しゅんとしたものになる。


「そういうわけじゃないんだが、すまん。すぐ部屋に戻ってやんなきゃいけないことがあって……」


言い終わった後に、心の中で手を合わせて謝る。


「いや、全然大丈夫だよ! クルくん、ここまで送ってくれてありがとうね」


「ああ。本当にすまん」


「ううん。用事があるなら仕方ないよ。それじゃ、またね」


「おう。またな」


仕方ないと言いつつ、本当はもっと話したかったのだろう。目が名残惜しいと語っていた。


パタパタと駆けていく背中に手を上げて見送る。


ひななは曲がるまで一度も振り返らなかった。


彼女の姿が完全に見えなくなると、俺は息を大きく吸う。


嘘をついた罪悪感ごと押し出すように、深く深く吐き出す。


そして、俺は後ろを向いて、来た道を引き返した。


すれ違った通行人の視線を無視して通り過ぎる。


ちなみに当然といえば当然だが、ここに来るまでなんのトラブルにも遭わなかった。


つけられてる気配や、敵意を感じることはなかった。


ただし。それはひななに対するものだけ。


ひななに手を掴まれたあたりから、視線の矛先は一貫して俺に向いていた。


今からその視線の主をあぶり出す。


向こうも睨むだけで終わるつもりは無さそうだからな。


わざわざ下手な嘘をついてまでひななと別れたのは、そいつに彼女の家を特定させないためだ。害を被るのは俺だけでいい。


少し引き返すと、俺は道を逸れて裏道へ入る。


突き当たりの角を曲がって、足を止めた。


人の気配は一切ない。


あるのは俺ともう一人。


ここなら大丈夫か。


「さっきから尾け回してんじゃねえよ。なんか用でもあんのか?」


その角に向けて、声をかける。


最初の数秒は反応がない。


もう一度、今度はさらに大きく声をかけようとしたが、その前に誰かが出てくる。


「……おまえ」


そいつは、ギラギラと迸った目つきで俺を睨む。


出てきたのは、夜桜の前でひななに絡んでいた男だった。


「何か用でもあんのかって聞いてるんだ」


声色を低く、殺気を込めて尋ねる。


男は答えない。


しかし、答えがなくとも目的は察している。


さっき俺に倒された報復。いわゆるお礼参り、というやつだろう。何度も遭遇してきたことだ。


「弁償しろ」


「は?」


「お前のせいでスーツが破れたんだぞ! 弁償しろ」


男は目を鋭くして、ビリビリに破れたスーツの生地を指す。裂け目から覗く膝頭に、幾枚もの絆創膏が貼られていた。


高かったんだぞ。と男は怒鳴る。


それに対し、俺は「弁償?」と肩をすくめる。


「やだね。そっちが勝手にコケて破ったんだろ」


「違う! お前が足を引っ掛けたんだろうが!」


「仮にそうだとして、先に殴ってきたのはそっちだろ?」


「そんなん知らんわ!」


「それなら俺だって知らねえっての」


まだ酔ってんのか?


あまりの棚上げ具合に一瞬そう思ったが、足取りや発音がしっかりしてるから違うのだろう。


恐らく、冷静になった途端に怒りが沸いてきて、そんなときに偶然俺を見かけたから頭に血が登ったのだろう。


そのまま怒りに任せて、一言文句をいってやろうと追いかけてきたといったところか。


先に出たはずの男が俺たちを見つけられたのは、ひななが近道とやらを通ったからかな。


もとから俺を探してた可能性もあるが、こいつは俺がひななを送るつもりだったことは知らない。だから偶然の可能性が高そうだ。


まあ、あくまで推測でしかない以上、真偽の程はわからんが。


いずれにせよ、いい年した大人が情けない。


俺は嘆息した。


男はギャーギャーわめきながら詰め寄ってくる。


そして俺の胸ぐらを掴んだ。


「大人舐めんなよガキが」


酒くさい息がかかって、俺は顔をしかめる。


「ガキに意味わかんねえ難癖つけんのが大人かよ」


震える手をぎゅっと握りしめ、言い返す。


男が手に力を込める。


俺の服の襟元が伸びそうだ。というか今、ビリって音がした。恐る恐る見てみると、破けてはいないが、首周りがヨレヨレになってしまっていた。


弁償しろって迫る割に、人の服ダメにすんのかよ。


言動と行動が矛盾するってのはこういうことなんだろうな。


と、俺が呑気に考えている間も、男は歯をぎりぎりと食いしばって俺を睨みつけていた。


楕円の形を描く唇の中から黄ばんだ歯が覗いている。きたねえ。


まあいいさ。わざわざ胸ぐらを掴んで服を伸ばしてくれたおかげで大義名分は出来た。


だからもう──我慢しなくていいか。


握っていた拳を解き、手首を上に返す。


その手で俺は、男の顎をかち上げた。


「かっ!?」


首を伸ばしきった男が苦悶の声を漏らす。


俺は男の顔から首を精一杯遠ざけていた。俺のほうが頭一つ分背が高いせいで、変なもんが飛んできそうだったからな。


返す手で男の胴を押す。胸ぐらを掴んでいる手はすでに緩んでいたので、簡単に距離を取れた。


「あっ……えっ?」


男はだらしなく口を開けて、ピクピクと陸にあげられた魚のように身体を震わせていた。


なあ。苦しいだろう。顎に衝撃をもらうのは。


人体ってのは意外ともろくて、顎を殴るだけで軽い脳震盪を起こしてしまうのだ。


今目の前で無様に尻もちをつく、この男のように。


「先に襲いかかってきたのはそっちだからな。覚えてねえとは言わせねえぞ」


なんて言っても、多分聞こえてないと思うが。いや、正確には理解できない、か。


まあいい。どっちにしても、正当防衛で済ませる口実ができたのだから、それで十分だ。


「……帰るか」


詰まっていた息を吐き出して、俺はあるき出す。


顎への掌底。俺が与えられた不快感をチャラにするには足りないが、これ以上やってしまえば正当防衛の域を超えてしまう。


万一病院に厄介になるような怪我でもさせようものなら、色々面倒なことになる。これくらいが、向こうが泣き寝入りしてくれるちょうどいい塩梅なのだ。


こっちは脅されたうえに服までダメにされたのだから、向こうも非は自分にあるとわかっているはずだ。……流石にわかってるよな。


まあ、まだ突っかかってくるなら相応の対応をするしかない。気は乗らないが。


「あ、ま……て」


すがるように伸ばされる手を蹴り飛ばす。


とっさにやってしまったが、これくらいは問題ないだろう。

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