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餃子屋の石田



   第 1 節



どうかしているとしか思えない夢を見た。


何もない部屋の何もない床にぼくが仰向けになっている。そして下腹部のあたりに篠岡なつめがまたがっている。篠岡はいつもどおり髪を高めの位置で二つ結びにしているのだけどどういうわけか上半身が裸で、夏服のリボンだけが制服の襟元らへんにきちんと巻かれている。それでいてスカートはちゃんと履いている。両足はたしか裸足だった気がするけれど、そこはあまりはっきりと覚えていない。


篠岡はぼくのことをまばたき一つせずじっと見下ろしていた。その表情は歴史の教科書に載っている平安時代の仏像のそれとよく似ている気がした。もしかすると視線こそぼくに向いていたけれど篠岡はぼくのことなど見ていなかったのかもしれない。ともあれその視線を受けながらぼくもまた平静を装って篠岡をじっと見上げていた。


ときどき映像の視点が自分の外側に移り、ぼくは全体にうすく緑がかった白くてだだっ広い部屋——日曜日の午後の総合病院の一室を思わせる——の真ん中に横たわる自分とその上にまたがる篠岡を、少し離れたところから眺めることになった。少ないなりに質量のある篠岡の胸につい目が行くたび、ぼくは篠岡の表情を盗み見るようにうかがったけれど、篠岡は笑いも怒りもしなかった。その表情は本当に仏像のように一定だった。


夢の中の篠岡はぼくの知っている篠岡とはまったく別人のようだった。けれどもそれはただぼくが知らないというだけで、篠岡にはたしかにそういう側面があるのかもしれない。そしてもしかりにそうだったとしてもそれはまったくおかしなことではない。いちクラスメイトであるぼくから見えている姿なんて篠岡なつめという人間の全体像のほんの一部にすぎないにちがいないと、ぼくはぼんやりと考えていた。


そんな夢に調子を乱されたせいで、その日ぼくは15分も学校に遅刻した。ちゃんと家を出て学校に向かっただけでもほめてほしいものだと思うものだけれど、教室に着くや担任から軽口まじりの注意を受け、しっかりクラスの笑い者になった。



   *



当然ながらあんな夢の話を誰かにするわけもない。みんなエロを肴にバカ騒ぎするのは大好きだし、ぼくも付き合いでそういう場に身を置かざるを得ないことはもちろんときどきある。でもあれはそういうのとはわけが違う、一緒くたにするわけにはいかない。しかし「違うんだ」と説明したところでわかってもらえる話だとはまったく思わないし、わかってもらいたいとも思わない。だからひとたび教室に入ってみんなの輪の中に溶けてしまえばぼくは都合よく今朝の夢のことなんて忘れてしまい、しょうもないバカ騒ぎにたやすくなじんでいく。ぼくの不出来な脳みそもそういうことを可能にしてくれるくらいにはうまくできている。


とは言っても篠岡なつめ本人を目にしたときは話がちがった。いつもどおりころころと表情を変えながら高くて響きのいい声でしゃべる現実の篠岡は夢で見た篠岡とあまりに違って、ぼくはついついそのあまりに大きすぎる違いを確かめようと、教室をひらひらとおよぎまわる篠岡の姿を目で追わずにはいられなかった。そしてやはり、篠岡がまとう夏用のブラウスの下に夢で見たあの細くて真っ白な身体を思い浮かべないでいることなどできなくて、そのイメージが脳裏にフラッシュバックしてくるたび、ぼくは自分自身を責めなじりたい気持ちになりもした。当然のこと、空き時間のたびにくだらないバカ騒ぎをしているクラスメイトたち——ぼくもその輪の中にいるわけだけれど——も篠岡も、そんなことは知らない。ぼくは誰にも知られず世界でただ一人、夢のことなど忘れてしまいたいような、いつまでもそのことについて一人で考えをめぐらせていたいような、矛盾した気持ちをぐるぐると頭の中でとっかえひっかえしている。



   *



1時間目も2時間目も教室での座学だった。ぼくは窓際から数えて2列目一番後ろの自分の席から、廊下寄りの前から数えたほうが早い席で授業を受けている篠岡の横顔をときどき眺めた。授業はいつもどおり退屈だった。篠岡はちゃんと授業を聞いているように見えるけれどどうなんだろう、やっぱり本心では退屈していたりするんだろうか、とぼくは思った。あとで聞いてみようと思って、ノートの端に「あなたは授業に本当は退屈していますか?」と書いた。


3時間目前の15分休み、篠岡がぼくの机のほうに寄ってきた。なぜか真正面から見据えたときは遠くから眺めているときと違って夢で見たあの篠岡のイメージは浮かんでこない。「おはよ」と篠岡は小さく、しかしはっきり聞こえる声で言った。「今日行ってもいい?」声のトーンが一段落ちた。


篠岡がぼくの家にときどきやってくるようになって4ヶ月ほどになる。なんでもぼくの弾くピアノがお気に召して、最低でも1ヶ月に1回は聴かないと気がすまないようになったのだという。そんなばかなと言われてもそりゃそうだよなとしか言えないような話だとぼくも思うのだけど、実際のところ篠岡はときどきぼくの家の「練習室」——グランドピアノとほぼ空っぽの小さな本棚とろくに水やりもされてないのに元気に育っている謎の観葉植物だけがある8畳の部屋だ——にやってきて、ぼくのピアノを黙って聴いてはそっと帰っていく。そのことはぼくと篠岡、そしてさすがに事情を話さざるをえなかったぼくの母親しか知らない。


「篠岡ってさ、授業ちゃんと聞いてるの?」


ぼくがたずねると、篠岡は「は? 何それ」と言ってきょとんとした表情を浮かべた。


「てか、質問してるのあたしなんだけど。今日行っていいの?」

「いいよ別に。で、どうなの? 授業ちゃんと聞いてるの?」

「意味わかんない。ちゃんと聞いてるよ。」

「退屈だと思ったことは?」

「はぁ? あるにきまってんじゃん、どうしたわけ急に?」


いや別に、とぼくがはぐらかすと、意味わかんない、と篠岡はつぶやいたけれど、それ以上深掘りはしてこなかった。


「とりあえず今日行くね。16時くらい。」

「はいよ。」


そのタイミングでなぜか急に昨晩の夢のことを思い出し、ぼくは無言で机に顔を突っ伏した。ふさがった視界の中、いったい自分は何をやっているのかとふつふつ思えてきて、ぼくの感情はますます混乱した。篠岡は「石田今日ちょっと変だよ」と笑って言い残すとどこかに行ってしまった。ぐにゃぐにゃした意識いっぱいに、篠岡の声の響きが広がって残りつづけた。



   *



家に帰ってシャワーを浴び、着替えまですませたところでチャイムが鳴る。まだ16時まで12分もあるぞと心の中でぶつくさ言いながらぼくは玄関まで出る。母親も父親も仕事で家にはいない。毎回のことではあるけれど、空っぽの家にぼくと篠岡ふたりきりということになる。


ドアを開けると制服のままの篠岡が立っていた。「自転車ちゃんと奥に止めてくれた?」と聞くと、「いつもやってるよ、サルじゃあるまいしわかってるって」と突っ返された。白い額に汗が光り、ほほが軽くほてっている。あんな夢ほんとに冗談じゃないなとぼくは心の中で舌打ちし、練習室先あがっとけ、と言い残して台所へ引っ込んだ。思いのほか強まってしまった語気に少し嫌気がさす。


麦茶とお菓子を2人分用意して練習室に上がると、篠岡は所在なげにピアノのわきに立っていた。カーペットを踏む白い靴下の先が汗か泥かでかすかに変色しているのに視線が行って、ぼくは自分を軽蔑しながら目をそらした。今日のぼくはちょっとおかしい今日のぼくはちょっとおかしい今日のぼくはちょっとおかしいと心の中で3回唱えながら、ぼくは床に飲み物とお菓子をのせた盆を置く。ありがと、と篠岡は小声で礼を言った。


「やっぱり迷惑してない?」


藪から棒に聞かれて、何が、とぼくは反射で返した。


「彼女でもない女子が家に来てピアノだけ聴いて帰っていくとか、ちょっと変じゃん。普通に考えてさ。」


何を今さらとは思ったものの、まぁそれはそうだ。慣れつつあったから考えなくもなっていたけど、前々からずっとこれってかなり変な話だよな、とは思っていた。でも別に迷惑だなんて思ったことはない。「篠岡は言いふらしたりしないし。毎日しかたなくやってることに物好きな観客がひとり付くようになっただけって考えたら、どうってことも。」


ならいいんだけど、と篠岡はしおらしく言った。家で見る篠岡は教室で見る篠岡と違ってとても静かだ。ピアノの屋根に所在なげに置かれた白い指は細くて長い。篠岡もピアノ弾いてみたらいいのに、とその指を見てぼくはよく思ったりする。


「とりあえず適当に準備運動するから。お菓子でも食べといて。」

先ほどのぶっきらぼうさをフォローするつもりでなるべく丸い口調を心がけつつそう言ってから、ぼくは椅子に座ってピアノの蓋を開け鍵盤と向き合った。息をととのえてそこに指を置くと心が透明になってくる。正直なところ篠岡には感謝している、こんなことが起こらなければぼくはきっと今もピアノがただただ嫌いだっただろうから。そのことが多少伝わる演奏くらいはできればと思いながら、ぼくはいつも指慣らしに使っている練習曲を弾きはじめる。



   *



篠岡の前でピアノを弾いているときは毎回夢を見ているようで、そこにいる篠岡のことさえもぼくはときどき忘れそうになる。篠岡はいちいち曲の終わりで拍手したりもしないし、こちらから求めないかぎり感想を言ったりもしない。ときにピアノの横に立って、ときにカーペットに座り込んで、あるいはときに窓際に立って外を眺めながら、ただ黙って音を聴いている。それはぼくとしてはありがたいかぎりで、だからこそ篠岡が家にやってくるのを許してもいるのだけれど、下手な観葉植物よりずっと部屋に存在がなじむくらい音に没頭している篠岡を見ていると、どうして篠岡はピアノを弾かないんだろうと思ったりもする。


「当たり前じゃん、うちピアノなんかないもん。」

一度たずねてみたとき篠岡はそう言った


「それに百歩ゆずって自分で弾くにしたって、石田みたいに弾けなかったら意味ないし。そんなの何百年かかったって無理でしょ。」


何百年はどう考えたって言いすぎにせよ、篠岡の中に理屈の通った理由らしいものがあるのは確かなようだった。それを聞いてからというもの、篠岡に自分もピアノを弾いてみたらどうだとかいう話をしたことはない。


それでもぼくはどうしても、篠岡がこの部屋でピアノを弾くところを、そしてぼくがその横に立ったりカーペットに座り込んだり窓際に立ったりしながらそのピアノを聴いているところをときどき想像してしまう。そして篠岡が家に来た日は、そのイメージを頭に浮かべながらピアノを弾いている。そのイメージが醸す雰囲気に近づければ近づいただけ、篠岡を、そしてぼく自身を、満足させられる演奏に近づいていくことができるような気がしていたのだ。笑われてしまうような気がして、篠岡にその話をしたことは一度もなかったのだけど。



   *



6曲弾いたところで息が切れて時計を見た。あと少しで16時半というところだった。篠岡はカーペットに座り込んでいたが、ふとぼくと目が合うとおもむろに立ち上がり、窓際に移った。


「すごいね、やっぱ。」

つぶやくように篠岡は言った。

「受験、どうすんの。普通の高校行くの?」


らしくないことを聞くと思った。いつもここではそういう現実的な話はしてこなかった。そのつもりだと答えて志望校名を言うと、そうなんだ、とだけ篠岡は言った。どことなくまだ何か言いたげで、ぼくは続く言葉を待ってみる。


「ピアノで学校行ったらいいじゃん。考えてないの、そういうのは。」

「音大の付属とかってこと?」

「わかんないけど、たぶんそういうの。」


ぼくは少し言葉に詰まったあと、考えてない、と答えた。


「こんなにいいピアノなのに、変なの。」

「変ってこともないだろ。」

「わかんない。わかんないけどさ。」


何があるわけでもないはずの窓の外を篠岡はずっと見ている。ぼくは自分のほうから何か言わなくてはならない気がして「自分が無理だと思っちゃったら無理なんだよ」と言った。篠岡は黙ってふりむいてぼくの目を見た。


「実際のところもっとうまいやつなんか腐るほどいる。うちの学校にだって。」

「わかってるよ、2組の柏木さんのこと言ってんでしょ。」

「そう、柏木。全日本のジュニアコンクールで入賞した、れっきとした天才な。」

「でも、あたしは石田のピアノのほうが好き。絶対そういう人いっぱいいるよ、あたし以外にも。」


ぼくの言葉をさえぎるようにそう言った篠岡の切羽つまった勢いにぼくは一瞬面食らった。でもそのあとで「だとしても、俺はピアノそんなに好きじゃないんだ。たとえば柏木なんかに比べたってよっぽどね」と言ったぼくの口調は自分でも呆れるほど穏やかで平坦だった。実際ぼくはそんなに好きじゃないのだ。一日最低3時間はやれと言われつづけてきた練習も、自分が弾くピアノの音も。


「だから、わざわざそういう学校行ったってしょうがないんだよ。しょうがないって自分で思っちゃってる。その時点でそっちに行く資格ないんだよ。だから普通に高校行って、大学行くなり働くなりする。それで後悔しない自信があるんだ。」

「あたしがこんなに本気でほめてるのに?」

「篠岡には感謝してるよ。」

「だったら。」

言いかけて、篠岡は飲み込んだ。そして「なんでもない」と小声で言った。やっぱりこいつはいいやつだ、とぼくは思った。


しばらくの沈黙のあと、篠岡は「弾いて」と言った。

「もっと弾いて。」


ぼくは黙ってその言葉にしたがい、鍵盤に指をあてがった。なるべくいつもどおりに弾こうと思った。変に篠岡を喜ばせたり、感動させてやろうなんてことは、絶対に思うまいと心に決めながら。






   第 2 節



道はずっと空いていた。ぼくは夜の高速なんて久しぶりだなとわくわくしながら西に向かって車を走らせていた。4年ほど前に仕事用に買った中古の軽ワンボックス。「餃子屋 いしだ」と側部にでかでか書かれたこぎたないバンはおおよそ神奈川の瀟洒な海辺に不似合いだろうなと思いはしたけれど、張る見栄も30年弱の人生の中ですっかり捨ててしまったからどうでもいいといえばどうでもよかった。


篠岡なつめから連絡があったのは1ヶ月ほど前のことだった。



   *



在学中そのやんちゃぶりで名を馳せていた同級生がFacebookで「卒業して15年の節目ということで」というふれこみとともに同窓会の案内をばらまいているのを送信日時から2ヶ月遅れで目にしたとき、ぼくの中にまず浮かんだのは「少なくとも俺は行かないな」というもはや聞かれてもいない返答だった。


中学の同級生なんて話したい相手がろくにいないどころかもはやほとんどが顔も名前もぱっと浮かばない。こっちがそうなら向こうにしたって同じことだろう。互いを忘れ去ったぼくたちは今やおのおのまったく違った人生を送っていて、子どもを1人産んだやつもいれば3人も産んだやつもいるし、地元に根を張っているやつもいればはるか遠くに移ったやつもいる。伸び広がった木の枝と枝が時とともに隔たりの度合いを増しけっして交わることがないように、あまりに違う人生を送る人間どうしはついに相見えることなく終わっていく。それでこそ自然だとぼくには思える。


そんなわけで同窓会そのものにはまったく興味がなかったのだけれど、かつて親しくしたりしなかったりしていた同級生にいったいどんなやつがいたっけ、という出歯亀根性のようなものが少しだけ芽生えて、ぼくは「○×中学校20XX年卒業生」というグループに加わっているメンバーを上から順々に追ってみた。見覚えのある人間もいればまったく見覚えのない人間もいる。中学時代はよくつるんでいたけれど今となってはまったく交流のないやつもいる。ときどき個人のプロフィールページを見てみたけれど、まともに更新されているもののほうがよほど少なかった。他方でせっせと更新されているページもまれにあって、そういうページのほうがかえって自分との遠い距離のようなものを感じさせた。


そうこうして何人目だったか、その整った顔立ちのために学年でも比較的目立っていたあるクラスメイトのページを見ていたとき、その「友達」の欄に見覚えある名前を見つけた。「Natsume Shinōka」。篠岡なつめ。プロフィール写真は学生の頃にでも撮ったものだろうか、画質が悪くて顔がはっきりと見えない。個人ページを見ると、更新は8年前を最後に途絶えている。


篠岡なつめ、と名前を頭の中で繰り返すうち15年前の記憶が自然と掘り起こされてくる。なぜかピアノを聴くためだけに元々さして親しくもなかったクラスメイト——それも異性——の家にたびたびやってくるようになったという点を除けば、どこにでもいそうなごく普通の女子だった。結局あのよくわからない関係は受験期を迎えると少しずつほころびはじめ、卒業とともに完全に途絶えた。最後に篠岡の前でピアノを弾いたのは卒業式の3日ほど前のことだったと記憶している。春の甘ったるい匂いが混じりはじめた空気のなかで、自分たちがそれぞれ別の道を行こうとしていることを、ぼくらは言葉にしないながらはっきりと予感していた。


篠岡なつめ。どこかで元気にしているのだろうか。8年前の夏を最後に更新の途絶えたページを開いたまま、ぼくはしばらく考えるともなく考えていた。



   *



それから1週間も経たずして、篠岡のほうから連絡があった。驚かされたけれど、思えば最初から篠岡なつめとはそういう人間だった。


「元気? 久しぶりにFacebookを開いたら名前が目に入って、どうしてるかなと思って連絡してみました。」


言葉少ないメッセージを繰り返し読みながら、15年分の空白が必要最低限以上の言葉を飲み込ませたのだろうとぼくは想像した。ぼくだって万が一自分から連絡する勇気が湧いたとしてもそうしていただろう。ましてやぼくにはその勇気すら湧かなかったわけだ。思えばあの意味不明な関係の発端をつくり出したのも篠岡であってぼくではない。


しばらくのやりとりを経てぼくたちは15年ぶりに会うことになった。神奈川の事務所兼自宅まで来ないかという篠岡の申し出を受け、ぼくは店の定休日の前夜、店じまいのあとで営業用の中古のバンを発車させた。ほかの人間からの誘いだったら疑いもしただろうが、あの篠岡のことだからと思うとわりあいすんなり受け入れられてしまったのだった。


夜道をドライブするのは実に久しぶりで、ぼくの気分は穏やかに浮き立った。光るビルや規則正しく後ろへと駆け抜けていく常夜灯、大型車の色とりどりのランプを横目に、ぼくはBGMもかけず車を走らせた。低いうなりのような音だけが立ち込める夜をくぐり抜けながら、ぼくは今の篠岡について思いをめぐらせずにはおれなかった。自分が年とともに良かれ悪しかれ変化してきたように、篠岡も15年前とはすっかり違っているだろう。メッセージに書かれた言葉の風合いから察するに、ぼくなどよりずっといい歳のとり方、成熟のし方をしているにちがいない。


結局ぼくは高校時代の途中でピアノをやめた。1年生の早い段階でアルバイトを始め、2年生の終わりかけから周りに先んじて大学受験に向けた勉強をし、のらりくらりとピアノから逃げつづけた。そのうち母親もついに愛想を尽かしたのか、ピアノに関してぼくに何やかやと言うことはなくなった。ぼくは奨学金を借り、高校時代に貯め込んだアルバイト代と大学入学後のアルバイトの稼ぎを使って一人暮らしをしながら地元から離れた大学に通った。それ以降一度としてピアノは弾かなかった。


篠岡のほうはどんな大人になっているのだろう? どうしようもない大人にだけはなっていてくれないでほしいとぼくは祈った。醜いエゴだとわかっていても祈らずにはいられなかった。15年経っても変わらないものがあると信じたままでいさせてほしい。そうでなくては、記憶の底に沈んでいた思い出をわざわざ掘り起こす意味がどこにあるというのか。



   *



高速を降りてから道は一気に暗く静かになった。旧式のナビに従って、ぼくは篠岡から送られてきた住所をめざしていく。緑が多いところらしく、あちこちからにぎやかな虫の声が聞こえる。ときどきコンビニを見かけたけれど、時間帯もあって客はほとんどいないように見えた。


目的地にたどりつくまで、高速を降りてから25分ほど車を走らせた。そこにはのっぺりとした白くて高い塀に囲まれて、見るからに立派な家がそびえ立っていた。ぼくはひとまず門の前に車を停め、軽く息を整えてからインターホンを押した。


返事があるより先に、ドアの鍵の開く音が夜の闇に高く響いた。


「石田?」


呼ばれた瞬間、軽いめまいのような感覚におそわれた。記憶の底に沈んでいたのとまったく同じ声の響き。地元を遠く離れた海沿いの街にいながら、一気に遠い過去へと引き戻された気がした。距離があって姿はほとんど見えなかったけれど、それはたしかに篠岡なつめだった。


「車、どうしたらいい?」

せり上がってくる感情を抑えようとして声がこわばるのが自分でもわかった。ガレージ開けるからそこに停めちゃって、と言った篠岡のほうは変わらず落ち着いた口調だった。ぼくは返事をして再び車のエンジンをかける。なだらかな勾配のある道を少し下っていくと、乗用車なら3台は入りそうなガレージがあり、すでに1台、家の立派さに比すればちぐはぐとも言える平凡なセダンが停められていた。


車を停め、ガレージを出て道を門のほうへと戻っていく。ほどなくして門の内側から人影が現れる。まっすぐこちらに歩いてくる。ぼくも足を止めずに進んだ。中間地点で二人して立ち止まった。


「迷わず来れた?」

ほほえみながら篠岡は言った。髪型や服装はすっかり年相応だけれど、面影ははっきりと残っている。その表情は15年前と比べて角の取れた感じはあったけれど、たしかに篠岡のそれだった。一応ね、と返しながら、ぼくは自分の中に泡のように湧き上がる色とりどりの感情を味わっていた。


わざわざ遠くからありがとねと言い、篠岡はおもむろに歩き出す。ぼくもその後をついていくかたちで歩き出した。ずいぶん自分の身長が伸びたことを、篠岡のつややかな長髪を後ろから見下ろしながら、ぼくは今さら知ったかのように実感した。15年経ったんだ、とあらためて思わずにいられなかった。



   *



案の定それは大した豪邸で、古くはあったけれどそれがかえってエレガンスを引き立てているとぼくには思えた。縁あって安く融通してもらったのだと篠岡は言った。「スタジオを兼ねた住まいを持ちたくて物件を探してるんだけどいいところがないんだって言いふらしてたら、ちょうどいい話があるって教えてもらったの。」大人が3人横並びになってもまだゆとりのありそうな立派な階段を上がりながら、ぼくは吹き抜けの広間を上から下まで何度も見渡さずにはおれなかった。


通された2階の広い一室も、飾り気はないながら立派な部屋だった。外に面した壁の一面は全部がガラス張りの窓になっていて、眼下すぐには真っ黒い雑木林が、その向こうには暗い夜の海が広がっていた。部屋の真ん中には窓に寄せるかたちでオリーブ色の布張りのソファーと真っ白なローテーブルが置かれていた。反対の壁際では空気清浄機が静かに自分の仕事をこなしていた。そして奥では、1台のグランドピアノがじっと場所を占めていた。


前衛的なSF映画に出てくる宇宙船の一室のような空間だった。何もかもが違うはずなのに、その雰囲気はぼくの実家の「レッスン室」——今となってはどんな使われ方をしているのかも把握していない——とどこか似ていた。


「もうピアノは弾いてないの?」

ソファーに座るようぼくにうながしながら篠岡は訊く。高校に入ってからわりと早いうちにやめてしまったんだと言うと、篠岡は少し寂しそうに笑いながら「そうだよね」と言った。そして部屋の奥で眠るように静まり返っているピアノのほうに顔を向け、「あのピアノ、もともとこの家にあったものなの」と言った。


「石田が来ることが決まってから、調律師の人に来てもらってできる限りで手を入れてもらったの。絶対弾いてくれないとも限らないかもって思ったから。きっともう石田はピアノ弾いてないだろうとも思ったんだけどさ。」


そこまで言って篠岡は少し黙った。その後でぼくに何か飲むかとたずねた。酒以外ならなんでもと答えると、篠岡はぼくに少し待つよう言い残して部屋を出ていった。篠岡がいなくなるとぼくは本当に遭難中の宇宙船に取り残されたような気持ちになった。


一人で座っているのも落ち着かなくて、ぼくは立ち上がって恐る恐るピアノのほうに近づいてみた。実物のピアノを目の前にするのは本当に10年以上ぶりだった。


年季を感じさせないほどに、それはよく手入れされたピアノだった。埃もかぶっていないし、傷らしい傷もついていない。蓋に指をかけてみて、すぐ離した。絶対に弾くまいと意固地になっているわけではなかったけれど、距離感のようなものがまるでわからなかった。篠岡にそんなうろたえたところを見られるのも嫌だった。ぼくはピアノから離れ、ソファーに腰を下ろし、篠岡が戻ってくるのを待った。


だだっ広い部屋に一人でいると、ものの5分がものすごく長く感じられる。なんとなくそわそわしだしたころ、篠岡は背の高いガラスピッチャーとグラスを2つ、それから軽食を載せたトレーを持って帰ってきた。慎重にかがんでトレーをテーブルに置く篠岡を見ながら、ぼくは急に自分の置かれている状況が奇妙に思えてきて、そのことをそのまま口にした。篠岡はふふっと笑って、中学のときとおんなじだよね、と言った。


篠岡がグラスに注いでくれたジャスミンティーは、よく冷えていて本当にうまかった。香り高い液体がつるつると体内を通り抜けていくのを感じるうちに、少し呼吸が軽くなった。身も心もが思ったよりこわばっていたらしい。どうやら向こうにもそれは伝わっていたのだろう。

「元気だった?」

篠岡はようやくぼくに尋ねた。ぼくはうなずき、ピアノは弾いてないけど、と付け加える。そして、篠岡も元気そうだねと言うと、それなりにね、と笑った。


「本当はもっと早く連絡したかったの。ふと思うタイミングはいっぱいあったんだけど、毎回踏ん切りつかなくって先送りにしちゃった。なんかダメだったんだよね。時間がたてばたつほど、中学のときに自分がやってたことがどんどん理解不能に思えてきちゃって。」


じっさい理解不能なんだけどさ、と付け加えて冗談めかした篠岡に、ちょっとわかるよ、とぼくは言った。


「怖かったわけじゃないんだけどね。会って近況を話し合うだけでもきっと楽しいし、たぶんそれでも十分成り立つとは思ってた。でもやっぱりどうしても連絡できなかったの。美しい思い出は思い出のままに、なんて言うと陳腐すぎるけど、実際会ってみて『変わっちゃったな』なんて一瞬でも思ったらやっぱり嫌だなって。」


そこまで言って、篠岡はジャスミンティーのグラスを手に取り、口につけた。ぼくは言うべき言葉を探した。率直に言って、篠岡がぼくのことを考えていてくれたようには、ぼくは篠岡のことを考えていなかったと思ったのだ。ぼくの中で篠岡とのことは中学を出た瞬間から「思い出」としてカテゴライズされてしまって、もうそこに手をふれることもないのだろうと、思うともなくずっと思っていたから。


「篠岡にはずっと感謝してた。」ぼくは言った。

「あのわけのわからない関係にぼくを導いてくれて、飽きずにピアノを聴いてくれて。俺は救われてたよ。あんなに幸福な時間ってほかになかったと思う。わけはわからなかったけどね。」

篠岡は目を伏せてほほえんだままじっとぼくの話を聴いている。


「嬉しかったんだ。自分のやってることに意味がないわけじゃないんだって思えて。どうせやめるピアノだって確信だけは捨てられなかったけど、それでも篠岡のことだけはがっかりさせたくないって思ってた。期待に応えようとすることさえ裏切りになるだろうって気がしてたよ。それくらい本気になれてたと思う、篠岡が隣で聴いてたときは。」

「意味があったんだね、石田にとっても。」

ぼくはうなずく。「俺にとってこそ意味があったよ。」


ならよかった、と言って篠岡は顔をほころばせた。そしてしばらく沈黙が流れた。


ふと「ちょっと待ってて」とだけ告げて篠岡は立ち上がり、部屋の外に出ていった。そしてすぐに戻ってきた。両手に黒い革張りのギターケースをたずさえていた。


「石田のピアノを聴きにいくようになってから、従兄からお古のギターをもらって少しずつ練習しはじめたの。内緒にしてたけど。」


ケースから取り出されたギターはいかにもものが良さそうで、手入れもよく行き届いている。しゃべりながら、篠岡はおもむろにチューニングを始める。


「お金のこともあるしピアノは無理だって最初から思ってたけど、なんでもいいから音楽をやりたいって思ったの。石田のピアノのせいでね。だから今の私がある。それは絶対に一度は伝えなくちゃって思ってきたし、その決心がついたから連絡したの。」


ぼくはなめらかに光るギターとその上を慣れた様子ですべる篠岡の手指を目で追いながら、夢見るような気持ちでいた。


「あとで弾かせて。今の私を石田に見てほしい。身勝手かもしれないけど、気の済むようにさせてくれない?」


わずかに潤んだ目で笑いながら篠岡は言った。ぼくはもちろん、と応じてうなずいた。篠岡の身勝手は今に始まったことじゃない。ぼくはその身勝手にかつて救われていたし、今もきっとそれは変わらないのだ。



   *



篠岡のギターに耳を傾けながら、ぼくは久しぶりに音楽というもののすばらしさを存分に感じた気がした。あとで聞いたところ、篠岡は今やかなりの成功を収めている気鋭のミュージシャンなのだということだった。実にさまざまなところで手がけた楽曲が使われていたり、大きな舞台でもしょっちゅう演奏していたりしているらしかった。そんなことをぼくはてんで知らなかったわけだけれど、それはここ数年のあいだぼくが餃子ばかり焼いていたせいで、素直にそう弁明すると、篠岡はむしろ楽しげに笑いながら「それでこそ石田だわ」と言った。


結局そのあと、ぼくはピアノの前に座らされた。15年弱ぶりに弾いたピアノは本当に下手くそで、ぼくは自分で思わず笑ってしまったし、篠岡も遠慮なくげらげらと声をあげて笑っていた。指が多少ほぐれたところで勘は全然戻ってこなかった。それでも、他の誰かの前だったら感じていたにちがいない気恥ずかしさや情けなさみたいなものを、篠岡の前ではほとんど感じることなくすんだ。


夜通しぼくたちは語り合い、音楽で遊び、喉が渇いたらジャスミンティーを飲んだ。話は尽きなかったし、ギターの音色はいつまでも心地よかった。飲み物はつねに香り高くそしてよく冷えていた。掛け値なしに最高の夜だった。


そんな夜のあとでも、朝は必ずやってくる。窓の外の空が白みだすと、ぼくらはお互いおのずと言葉少なになった。潮時と見て、名残惜しさを抑えつつ家を発つことにした。「餃子食べに行くね。楽しみにしてるから」と篠岡は言った。


外に出ると空気はまだひんやりしていたけれど、すでに太陽が地上を炙るように強く照らしはじめていた。まぶしい光にぼくは思わず目を細めた。ぼくはガレージまで送ると言ってくれた篠岡にともなわれながら、またしばらく会うことはないんだろうな、という漠然とした予感を味わっていた。それはたしかにもの哀しい予感ではあったけれど、けっして苦しいものでもつらいものでもなかった。


いつか今日のことが遠い記憶になった頃、閉店まぎわのぼく以外誰もいない店にふらっと篠岡が現れ、ぼくが餃子を焼き、篠岡が黙ってそれを食べる日が来るだろう。おそらく、いや必ず。BGMもない閉店後の店内で、ぼくは篠岡がじっくりと餃子を味わうのを眺めるのだ。あるいはぼくがピアノを弾くかもしれない。今は持っていさえしないピアノをどういうわけか持つことになって、篠岡が餃子を食べるかたわらぼくはそのピアノを弾くのだ。やっぱり中学のときみたいにはいかないな、なんて言い訳しながら。そして夜明けとともに篠岡は店を去り、ぼくらはまた長いあいだ別々の道を歩んでいくことになる。……


そんな夢想をしながらぼくはガレージまでの道を歩いた。篠岡は何を考えていたのだろう? ぼくを送ってくれるあいだ篠岡もぼくも終始無言で、最後まで尋ねることはしなかった。


車のエンジンをかけ、薄暗いガレージからまぶしい路上へと進み出ながら、ぼくは窓を開けて篠岡に手を振った。そしてもう一度「ありがとう」と声に出して伝えた。篠岡は「こちらこそ」と言って笑った。ぼくは窓を半分だけ閉め、車を発進させた。


サイドミラーに映る篠岡は、振り返した手を下ろして後ろで組み、こちらをまっすぐ向いてじっと立っている。ぼくはその姿を確かめるたびに、また会う日までちゃんと生きなくちゃな、と思った。そして、窓を開けてもう一度手を振りたい衝動を何度も抑えた。車は前進しつづけ、篠岡の姿は限りなく遠ざかり小さくなっていった。

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