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蜥蜴狩り  作者: 惹玖恍佑
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9、二月九日。 独白。

私は寒さに凍えている。降りしきる雪は私のすべてをやがて凍りつかせるやもしれぬ。私の命、私の中をうごめくもの、私の中をどくどくと流れる液体、私のすべてが凍えている。私は、私が生まれた頃のことを鮮明に憶えている。雪の日は何度も経験してきたが、かつて、これほどの雪景色を見たことはない。まだ私がほんの赤子に過ぎなかったあの頃には、ちいさな村のちいさな家のほんのちいさなひと間のなかに暖を灯す人々の姿があった。わらぶき屋根に降り積もる雪の多い夜のことだった。その幼い子どもが火にあたりながら、敷布の上の木の実の数を数えていたのを憶えている。そばには老いた祖母がいた。温かい光景だった。いくつの木の実があっただろうか。ひとつ、ふたつ、と幼子は数えていった。ふとその子は数える指の手を止めて祖母にたずねた。いつつめのきのみはないの?(そうだ。木の実は四つ載っていた)祖母は応えた。四つだけよ。幼子は残念そうにしていたがやがて考え深げな顔をして、おばあちゃんはいくつのきのみがほしい? とたずねた。そうねぇ、たくさんあるといいねぇと祖母は応えた。たくさんて、どのくらい? 幼子は聞いた。数えられないほどあればいいねぇ。祖母は応えた。じゅっこより? 幼子はまた聞いた。うんとたくさんあるといいねぇ。祖母は応えた。じゅっこのつぎはどうかぞえるの? 幼子は聞いた。十一よ。祖母は応えた。じゅういちのつぎは? ばかねぇ、まだそんなにたくさんは知らなくていいんだよ。祖母は優しくそう応えたが幼子は言うことを聞かなかった。おばあちゃんはたくさんかずをしってるの? おまえよりはたくさん生きてきたからねぇ。たくさんてどのくらい? たくさんはたくさんよ。じゅういちよりも、もっとたくさん? おまえが数えられないほどにね。かずはどこまでかぞえたらおしまいになるの? どこまでかねぇ。うんと、うんと、たくさんになるの? さあてねぇ。なんだかふしぎ、かぞえきれないくらいのたくさんがあるんだね。ああ、なんということだろう。あの幼子はそのとき、いま、この瞬間のこの私のことを言っていた。あの子はまさにあのときに、きょうのこの日の私があるのを知ったのだ。私の一部は知らんぷりをして静かに意地悪くあの敷布に載ったのだが、幼子の素直な眼差しは騙せなかった。祖母の優しい答え方を誤魔化すことはできなかった。十一の次は十二、十二の次は十三…私が眠りにつくことをやめたのはいつからだろう? 十三の次は十四、十四の次は十五……ひとは誰も十五の先の遠い遠い遥かな数など数えない。そんな先を思いもしない。だが私はそこに存在するのだ。いまこの瞬間も、私は過去から未来への永遠の記憶の旅の中にいる。私は無限。古い木の実の成る木は私。



私は寒さに凍えている。震えながら私は必死に思い出している。あの幼子が私の痛いほどの悩みに触れたあの日から千五百年も経つ頃だったか。私のそばには死者がいた。死者はあの凍える冬の日、風の強い無情な冬の日、自分の生まれた家に戻った。かつて生き生きと海辺を馳せた力強い漁師の面影はそこにはなかった。疲れ果て、一度は海の藻屑と化し、小魚に皮膚のあちこちを喰われて血まみれにただれたその肢体は腐臭を放ち、全身が己の罪を悔いていた。あのぎらぎらする陽射しのまぶしい夏の日の午後、漁師は人と海の生き物のあいだの掟を破った。獲るべきでない魚を獲り、漁るべきでない漁場を漁った。海の守り人の魚人が漁師を押しとどめたが、血気にはやる漁師は太い銛で魚人の頭を突き刺した。魚人の子どもが泣いて命乞いをしてきたが、漁師は刀でその子の首を切断し、その目玉を取り出し、耳をえぐって喰らってみせた。何も見るな、何も聞くなという意味だった。漁師はただ、ひとより余分に利を得ようとしたのである。ひとに先んじて潮目のいい漁場を漁り、都へ出せば金貨三枚はくだらない肥えた魚を、ひとがたらふく食らえるほどに獲りたかっただけなのだ。しかし、掟によれば、そこは近づいてはならぬ海だった。よこしまな欲に取り憑かれ、海のものと陸のものの契りを破ったその漁師はその晩、魚人の群れに襲われた。手指を食われ、目を潰され、魚人たちの顎でその耳を食いちぎられて海の中へと引きずりこまれた。家族はみな怖ろしさに震え、海に向かってひたすら漁師を返してくれるよう三日三晩さけび続けた。四日目の晩、願いは叶えられ、おぞましい姿と化した漁師は自分の家の戸を叩いた。逃げまどう家族を殺し、ただひとり生かしておいた妻を何度も殴り、二目と見られぬあざだらけの顔にしたあとで漁師は彼女の衣服をはぎ取ると震えが止まらず金切り声を上げている彼女の股をひらかせて、その中に押し入った。何度も何度も漁師は彼女の奥底を突き上げては法悦の雄叫びを上げ、夜明けと共に海の中へと帰っていった。妻は恐怖と暴力のために明け方、死んだ。死んだ妻からは赤子が生まれた。その子はただひとり海のものとの掟を破って生まれてきた者として崇められ、長じて村長となった。そして彼は村の者すべてを生きながら苦しむよう呪い、村の外へ出るのを禁じ、忌まわしき呪いが未来永劫、村の者すべての子々孫々に及ぶよう、日がな呪詛の言葉をつぶやくのを一日たりと忘れなかった。なんということだろう。呪詛の言葉を受け継ぐ者はいまもこの世に存在するのだ。漁師は呪われた死体となったその時に私が見ていることを知った。私はあの漁師の破戒をいさめることも何もせずに、ただ成り行きを見守った。生きとし生ける魚たちよ、海の守りの魚人たちよ、破戒に始まる永遠のさらなるいましめを知った村人たちよ、私を怖れよ、十五の次の遠い遥かな数を数えよ。私は無限。私は永遠。禁じられた海の浜辺は私。



私は寒さに凍えている。私は温もりを求めて灯りを探す。そしてやっとのことでたどり着くのだ。そこは慈愛にあふれた集いの場である。怖ろしき漁師の死から五百年も経たころだろうか。あの騒がしき店には人々の活気があった。狭い路地に延々つらなる色とりどりの照明のもと、酔客が身を屈ませて通るその一画は区の名士たちのお気に入りであり、文士、絵師、音楽家、俳優、舞台や映画の演出家たちのお気に入りでもあった。そこは油臭い厨房と化粧臭い控え室を除けばこの世の華をすべて集めんとする卑欲のこだまする大部屋であり、ちぎれそうな肩紐ふたつだけの下着姿で男たちをもてなす女どもの笑い声の絶えぬちょっとした楽園であった。その日はあの小柄な区長の誕生日で、女どもはてんでに果実酒の栓を抜き、おどけ合い、男どもにも仲間にも酒をかけあい、笑いあって歌を歌った。紙吹雪が舞い、皆が風船のついた笛を鳴らして興をそそった。それは議会においてはひたすら真面目に仕事をこなし、家庭に帰ればややもすると除け者あつかいを受けることに慣れているこの初老の区長の祝い事として、精一杯の優しさに満ちた祝宴であった。その奥にひとりの頭の禿げた中年の男がいた。きれいに髭を剃り、仕立てのいい服を上品に着込み、爪を整え、てかてかの顔にローションを塗り込んでいた。男は宴のなかに入らずに、ひとり静かに盃を傾けて満足そうにしていたが、やがて力強く立ち上がると音楽家たちを制止して踊り狂う女たちを少し大きな声でなだめ、輪の中央に割って入った。皆さん、と男はその風態からすれば意外なほどの張りのある声でおごそかに告げた。今日ここに区長の誕生日を祝うため、私たちは集いました。ゆっくりと男は話しはじめた。私たちは最初から彼を支援したわけではありません。目立たない男です。飛び抜けた手腕はありません。能力のない男です。この街の歴史の中に埋もれていく男です。私たちが覚えていられることはただひとつ、そう言って彼は区長のほうに振り向くと手を差し出して握手を求めた。彼はこの街のために戦ってくれました。この店の存続を保証してくれたのです。店内にどよめきが走った。男も女も賛意の吠え声をあげた。区民無視のいかめしい都政がこの路地の取り壊しを議題に載せた、それを真っ向から否定してくれました。口笛と歓声。女どもは次々と区長に駆け寄り、その小柄な体を抱きしめると彼の唇と言わず頰と言わず何度も何度も心のこもった口付けを寄せた。ひとりの文士が彼の肩をつかむと大きく揺すった。区長は顔を真っ赤にして下を向いていた。この店とこの街を守り抜いた彼に拍手を。禿頭は言いながらもはや目を潤ませていた。この街は、この店は文化です。この街の歴史そのものなんです。潰してはいけない。いつまでも続くのです。続かせるんです。彼ほどそのことの大切さを知っているひとはおりません。どよめきがいっそう強く沸き起こると女どもは下を向いたままの区長のネクタイをほどき、シャツを剥ぎ取り、彼を引きずり回してズボンを奪い、自分たちも下着を脱いでこの小さな男にのしかかった。文士も絵師も演出家たちも自分の服を放り投げてこの饗宴に加わった。音楽家たちはいつ終わるとも見えぬこの宴のために腕もちぎれよとばかりに演奏し、そこかしこで裸の胸と胸がこすれ合った。女どもは次々に内気な区長に襲いかかり、その首を羽交い締めにすると、唇をこじ開けては舌を差し込み、彼の唾液を搾り取った。禿頭は泣いていた。ああ、なんということだろう。この禿頭は「いつまでも続くのです」と言ったとき、私の秘密に近づいていた。店が取り壊され、街が消え去り、地ならしをされてもそれでも消えぬものがあるかどうか、私はまたしても意地悪くこの愚か者どもを試してみたが、少なくともひとりは私の仕掛けた罠にどうやら気がつき、かいくぐってみせたのだ。どくどくと私の中を流れる液体さえも凍りそうなほど凍てついた今日のこの日に、あの日のあの店の狂瀾を思い出して私は懐かしさに震えている。郷愁とは受け継がれる限りいつまでも終わらない記憶の伝達である。愚かなる女どもよ、愚かなる男どもよ、私を怖れよ、私をさいなめ、私の秘密の上で踊れ。十五の次の遠い遥かな数を数えよ。私は無限。私は永遠。私は彼方への羨望。あの店を照らす温かい灯りは私。

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