8、二月九日、午前五時四十分。 港区中央通り移民保安省付近公園広場。
送受信機の大きさは賭博に使うサイコロほどのものだった。
スピーカーとマイクを兼ねたそのキューブが、切れにくいシリコンのベルトの中央に付いている。「こいつを首に巻け」ベネシュはそれをジャグスに向かって放り投げた。
「貴様のケーブル坑内での行動を俺が聞く。中へ入ったら連絡を怠るな。本当はカメラ付きのものを頼んだが、坑内は暗くて、おまけに工事のとき使った偏光質の壁材が残されているせいで、光を送っても乱反射するそうだ。スターライト式のビデオカメラも役に立たん」
ジャグスは応えた。「どのみち、これから地下へ潜るんだぜ? 音声だって電波が届かなくなるだろう?」
「心配するな。地下工事の記録は調べてある。穴を掘りすすめるたびに地上との交信のために至るところ中継機を設置しておいたらしい。記録通りなら、おまえがどんなに深く潜ろうと追いかけられる」
「へへへ…それに、もともと俺の身体には発信機が埋め込まれているしな」
「そうだ。記録が正しければ、坑道のあちこちにある中継機はおまえの体内から出る信号も伝えてくれる。上手くいけばな」
「ひとつ、聞いてもいいかい?」
* * *
ラルジャンは、どうすべきか迷っていた。
危険は感じていなかった。警官たちは追ってくる無謀を犯すはずがないし、S.W.A.Tが出動してもまだ自分を見つけるには時間がかかる。
だが、彼はいま、待ちくたびれていた。
もう一度、秘密の出口をあけてみた。
やはり、なんの変化も起きていない。
海岸へ出て脱出するには、どうしてもここから水の流れをたどっていく必要がある。なんの目印も誘導もなしにこの迷宮に潜り込めば、いくら彼でも迷子になる。
いつまで眺めていても、水は少しも流れてこない。
時間がかかり過ぎていた。
* * *
ジャグスはぎろりとケーブル坑の底を覗きこんで言った。「公安に第一報が入って、もうかれこれ四時間以上だろう? 俺が呼ばれてからそろそろ一時間だ。犯人はとっくに逃げちまっているんじゃねぇか?」
ベネシュはこの緑の怪物と対峙して、いま初めて自分が微笑んでいるのを知った。「その恐れは少ない。官房副長官の殺害事件から我々も学んだ。今度は事件発生後、約六分でここから半径ニキロ以内のすべてのケーブル坑出口に監視がついた。奴が出てきたという報告は、まだない」
「中で何をしてるのかねぇ?」
「わからん。だが、何かトラブルが起きているのかもしれん」
* * *
こんなことは完全に予定外だった。ラルジャンはもう一度出口をあけて、中を見やった。
やはり水は流れてこない。
迷宮に迷うことを覚悟で中へ踏み込むか。
それはあまりに無謀だった。
* * *
三六〇度四方を別々に見回せる二つの目が、上方からベネシュを凝視している。ベネシュの身長は一メートル八十五なのだが、ジャグスの二メートル以上ある巨体は彼に威圧感を与えずにはおかなかった。「なんだい。俺にマシンガンでも持たせようてのかい?」
「気に入らないか。相手も重火器で武装しているんだぞ」
「一年半前の立てこもり犯どもは、サブマシンガンのイングラムを持ってたな。だが、俺は」言いながらジャグスは黒革のコートの胸元に腕を忍ばせ、ゆっくりと銃を取り出した。「これだけで奴らを片づけた。今度もこれで充分だ」
「ルガーP08か」
「このまえ知った話だがね、ゲーリングも同じものを持ってたそうだぜ」
「だからどうした」
「つっけんどんになるなよ。ただヒトラーに次ぐ稀代の悪党もこれを頼りにしてたって話さ」
「そんな年代物のどこがいいんだ」
「最初に銃を選べと言われたとき、いろいろ試してみたんだ。コルト…ベレッタ…グロックにブローニングにワルサーにパイソン…ダーティハリーのマグナムもあったな。だが、俺はいちばん俺の手に馴染むものを選んだんだ」ジャグスのしなやかな手は外側に二本、内側に三本の指が相対して向かい合わせに生えている。木の枝などにつかまりやすいよう進化した、カメレオン科の特徴ある手先である。そのジャグスの大きな手がルガーの細いグリップを柔らかく包み込んだ。ベネシュの肩越しに空を狙って空撃ちする。「やめろ」ベネシュは大声で止めた。「怒るなよ、誰も狙ってやしねぇ」ジャグスはまたキキキと笑って、二発目を撃つ。ルガーのトグルが、この銃の「尺取虫」というあだ名どおり蝶番のように折れ曲がり、ガンと音を立てて後方へスライドする。「やめろというんだ」「怒るなって。予行演習さ」
「奴の重火器にそんなものでは対抗できんぞ。おそらく光子弾を打てる機銃を持ってる」
「ほう? なぜわかった?」
「穴だらけの現場には空薬莢が一発も落ちていなかったんだ」
* * *
ラルジャンは、いたずらに時間が過ぎていくのをただ待っていることに焦れていた。
もう一度、秘密の出口をあけてみる。やはりなんの変化も起きていない。さっきから何度おなじことをくりかえすのか。
苛だたしげに急ごしらえのドアを閉めようとした、そのときだった。
彼の眼が一筋の水の流れを感知した。
光子弾の速射を可能にするため、彼の頭部からは余計な肉体の部位がはずされている。彼の眼となるものは、顔の前面に感度の良い小型カメラがひとつ。それだけで充分だった。
偏光質の壁材が張り巡らされているため、遠くを見ようとすると視界が歪む。しかし、いま、眼前数メートル先にちょろちょろと流れてくるものを見間違うはずがない。
消え入りそうな細い水の流れが、ただ一筋。
もうこれで充分だ。出口をあけて、彼は中へ飛び込んだ。
* * *
ジャグスはいくつもの弾倉をコートの右ポケットに詰めると、もう片方のポケットには、自分が「お宝」と呼ぶカーキ色の、子どもの手のひらに収まるほどのプラスティックのボトルを数本、詰め込んだ。最後にまたルガーを胸元に忍ばせてケーブル坑のはしごに手をかけ、ひと言つぶやく。「はじめようか」長い尾がくるりとはしごに絡みついた。
カメレオンは、ためらいなく頭を下向きにしてはしごに手をかけると、長い尾を絡めながら、手際よく縦坑の底へと降りていく。
ベネシュは黙ってそれを見送った。
雪降るなか、緑の身体の生き物が黒のコートをまとって、闇の坑内へと入っていく。