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蜥蜴狩り  作者: 惹玖恍佑
7/67

7、二月九日、午前五時三十二分。 港区中央通り移民保安省付近公園広場。 ベネシュ警部。

(資料:第七課部外秘メール:一)

『被疑者、逃亡の恐れ』

宛:藤澤祐希巡査部長




・閣僚謀殺の被疑者は移民保安省裏手の地下ケーブル坑より移民省敷地内へ侵入の模様。

・脱出にも同じケーブル坑を利用したものと見られる。

・ケーブル坑が都内中心部へ直接通じていることもあり、逃亡を看過した場合は更なる人的被害拡大の恐れあり。

・以上、読後、破棄のこと。

・余計な情報を入れぬこと。




いま、ベネシュとジャグスは移民省の敷地そばにある公園広場に立っている。


ここは移民省付近に張られた非常線から百メートルも離れていない。


雪はまだ降り続いている。ベネシュもこれほどの大雪は、この国へ来て以来経験したことがない。彼は家でひとりで待つ涼太を案じ、そして故国に暮らす親兄弟のことを少し思った。


今年は、俺の故郷にも雪が降ったろうか。


広場の中央寄りにあるケーブル坑の入り口は、普段なら縦三メートル、横ニ・五メートルの鋼板で蓋をされているが、それが強い力であけられた跡があった。奥には長くて暗い縦穴が続いている。

「ここへ逃げたって?」

ジャグスが中を覗きながら聞いた。


ベネシュはそれには答えずに、ねじ曲がった入り口の蓋を指して尋ねた。「そうとうな力のある奴らしい。おそらく腕力をサイバネティクスで強化している。おまえひとりで倒せるか?」

ジャグスも負けじとベネシュの問いには答えずに、分厚い鋼板の蓋を両手でつかむと力を込めてみせた。端が少し折れ曲がった。「なるほど」ベネシュは感心もせずにつぶやいた。


大雪の中、二人の姿は十メートルも離れたらかすんで見えることだろう。


「なぜ、ここへ逃げたと分かった?」またジャグスが聞いた。


開け放たれた開口部から、雪がケーブル坑内に降り注いでいる。


「発表はされていないが、この事件が起きる前に、先週、官房副長官が殺されているんだ。おまえは知っているか?」

「ああ、聞いてるぜ」開口部を覗き込んでいたジャグスは、立ち上がると頭と肩に降り積もった雪を払いのけた。不満そうに喉を鳴らす。

「そのときは俺は呼ばれなかった」

「俺が反対したんだ。だが犯人にはまんまと逃げられてな。公式には今も捜査中ということになっているが、我々の失態だ。今回も侵入の手口が同じなんだよ」

「同一犯だと?」

「上の奴らも俺も、そう見ている」

「警部」

藤澤がベネシュの横の生き物を恐々見ながら寄ってきた。


「どこへ逃げるか、やはり予測はつかないようです。第七課はこれ以上の応援は出せないと言ってます」

「それはさっき俺も聞いた。連絡網が混乱してるな。引き続き待機しろ」

緑のカメレオンがぎろりと若い警官を見つめる。藤澤は急いでその場を立ち去った。


「最初に俺を呼んでおきゃぁいいものを」ジャグスは独特の長い指で自分の喉を掻きながら、誰に言うともなくつぶやいた。「川俣長官は死なずに済んだかもしれねぇぜ?」

ベネシュが深いため息をつく。「あるいはな」

「どうして呼ばれなかったのかねぇ?」

「俺が反対したからだ」

「それはいま聞いたさ。どうしてかと言ったんだ」


ジャグスのくるくると動く両眼がベネシュに焦点を合わせた。凝視する目つきだった。

「どうしてだい?」


降り積もる雪の中、ドミニク・ベネシュは自分がひどく孤独に思えた。この国では、俺はひとりきりだ。別れた妻、涼太の存在、アジア各地で出会ってきた気の置けない仲間たち…。そうした人々が遥か彼方に遠ざかり、何もかもが嘘のように感じられた。いま、俺のまわりにはこの緑の化け物のほか、誰もいない。


「トカゲと組みたくないからだ」


島崎第七課長はこの緑の生き物のことを俺の「相棒」と呼んだ。ベネシュは黒革のコートに身を包んだカメレオンから目をそらすと、またあのラボを思い出してみた。こいつとは生涯かけても「相棒」にはなれそうもない。


緑のカメレオンはまるで楽しんでいるかのように口もとを歪めて、キキキと喉を鳴らしてみせた。これがこいつにとっては笑うという動作にあたるのだろう。最初の出会いのとき、島崎は否定していたが「笑える」ということは、こいつには感情があるのだろうか?


長い尾がしゅるっと雪をはじく。コートの下で背びれが動くのがわかる。

「警部、あんた、おもしろい人だねぇ。今のはあんたの本心か?」

「なんのことだ」

「トカゲと組みたくない、てのはさ、本心かい、あんたの」

「疑う理由があるのか? 嫌いだと言ってやったんだぞ」


また、キキキと喉が鳴る。


「いや、ありがたいと思ってね。俺はこんなナリだろう。普通の人間は気味悪がって近寄らない。寄ってきても人間的に扱ってはくれない。俺はいつも、事務的に指令を下されるだけだ。『嫌い』てぇのは少なくとも人間並みに扱ってもらった証拠だからな」

「人間的に扱ってもらいたいのか」

緑の生き物はまた笑ったように見えた。

「自分から求めようとは思わねぇ。今も言ったがこのナリだからね。俺を避けたがる奴の考えはわかる」

「気持ちのことか…」

「違う。気持ちがどうこうはわからねぇ。考えがわかると言ったのさ」


納得したかい? カメレオンは三たびキキキと喉を鳴らした。


まるで、こいつは会話を楽しんでいるかのようだ。ベネシュは目の前に立つこの全身が鮮やかな緑の鱗に覆われた生き物の顔をじっと見た。彼の嫌悪感は、この暗殺者の姿かたちに発しているものではない。彼は自分が低俗な差別感情とは無縁の男だと知っている。いや、知っているつもりである。その彼の目に、瞬間、ジャグスは哀れに映った。こいつは自分の境遇を嘆いているのか? だが奇妙なことに、このカメレオンの今の発言が恨みがましく言われたものとはベネシュには思えなかった。島崎はこのスーパー暗殺者が感情を持たないと言った。だとするとベネシュの観察は的確で、こいつは嘆いているのでなく、本当にただ面白がっているだけなのかもしれない。恨みや憎しみとは無縁な生き物。生命工学の生み出したあだ花。悲嘆はなく、だからこそ無情に犯罪者を抹殺できる。誰にとっても殺しの道具としてしか用のない化け物。自分で、そのことを理解しているのだろうか。ベネシュはふと疑念にかられた。島崎はこの生き物の脳に細工をほどこして、感情面の発達を遅らせてあると言っていた。


だが「笑える」ことと同様、なにがしかの物事を「面白がる」ことができるというのは、この怪物にも、やはりどこかに情緒が芽生えている証ではないのだろうか。


「おまえって奴がよく分からん。おまえには人間と同じ『意識』はあるのか?」

「なんだって?」

「心はあるのか、と聞いたんだ」

「なぜそんなことが気になる?」

「おまえと話していると、ときどき、人間の部下と話しているような錯覚に陥る。判断力があり、笑い、焦り、怒り、悲しむことのできる『心ある人間』と話しているような気分になる」

「それが何か大事なことかね?」

「おまえは気にしないのか?」

「へへへ」ジャグスが彼の前にぬっと顔を突き出してみせる。ぐりぐりと動く目がひとつに焦点を合わせる。「もしその通り、俺に『心』なんてものがあったら、俺はあんたやあの課長から人間並みの扱いを受けることを期待していいのかね?」また、キキキと喉が鳴る。本当に面白がっているのだろうか。


ジャグスは静かに語りかけた。「まぁ考えてもみな。あんた、小鳥を飼ったことはあるかい? 別に小鳥でなくともいい。猫でもいいんだ。猫や小鳥を可愛いと思う気持ちはあるかい?」

「あたりまえだ」

「その猫や小鳥に名前をつけるだろう?」

「ああ」

「そして、家族の一員として可愛いがる。そうだな?」

「それがどうした」

「へへ。よく考えな。あいつらの脳は俺の十分の一も無い。だのにあんたはそいつらに名前をつけて『まるで人間のように』家族の一員として可愛がる。そこまではいいさ。だが、その猫がある日立ち上がって言葉を話しはじめると『こいつには俺と同じ心があるのか?』と疑いを持つってわけだ。そういうことだろう?」緑のカメレオンは言葉を発することを楽しむかのように饒舌だった。「逆に聞こう。あんたら人間には肌の色で相手の優劣を決めたがる奴がいるらしいじゃねぇか。あんたは一応、白人の部類だろう? この国へなぜ来た? この国で生まれた奴らを下に見たことはねぇのか?」

「なんの話だ。関係があるのか?」

「いや、つまりさ」カメレオンは彼の目の前で片手をひらひら動かしてみせた。それは出来のいいロボットの動作のようにベネシュには見えた。あるときは人間的に見えたり、あるときは機械のように見えたり…。俺の感想はくるくると動くんだな。ジャグスは言った。「あんたは誰か、生まれの違う、肌の色の違う他人を見て、ああこいつは俺と同じ人間としては扱えない、そう感じたことはねぇのかい?」

「なに?」


何を言おうとしているのか。俺にはどんな差別感情もない、と言おうとしてベネシュの心中にはふと、ためらいが生じた。


最初に出稼ぎのために赴いた中国の地…東南アジアでの体験。多くは汗臭く悪臭のするなかでの最低生活だった。外国人労働者として働きづめの毎日。豊かな中国人や満たされたアジア人がやりたがらない重労働を請け負わされた。風呂へ入ることも洗濯することもままならない日々が続いた。汚辱にまみれた経験だった。仲間たちはみな親切だったが、ベネシュの心は満たされなかった。一度でもそのような境遇が文化的に遅れた地域の、遅れた風習に左右されたものだと考えたことはなかったか?


「もし仮に」緑のカメレオンはまた身体を揺すって雪を払った。「あんたが誰か生まれの違う他人のことを『同じ人間じゃない』と考えたことがあるんなら、俺がひどい扱いを受けるのも無理はねぇ。同じ人間同士のあいだでさえ、同じ『心』を持ち合わせているに違いないもの同士のあいだでさえ、見下す奴とこき使われる奴がいるようではな。つまりそいつは俺のせいと言うよりも、ヒトって生き物が誰しも持つ『さが』ってやつのせいだとは言えねぇか? 『文化』と言い換えてもいいぜ。この相手は自分とは生まれが違う。だから自分と同じ扱いをすべきではない、てな? 俺に感情があるのかどうかとは、まったく関係のねえ話じゃねぇか」


この緑のカメレオンはいっぱしの哲学者だ。ベネシュはそう思ったが、口に出してはひと言いっただけだった。


「皮肉屋だな、貴様」

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