6、五百四十日前、午後。 都内某所。 ベネシュ警部。
やがてジャグスと呼ばれることになるその生き物、実験体二十八号は、最初から暗殺者になるべくして生み落とされた。
政府公認の暗殺者。始末屋。
いや、公認だって? ベネシュは首を振った。政府も第七課も公式に認めるわけがない。だが、一方で、現実に犯罪現場でも、あるいは戦地でも、人間以上の能力を持つヒューマノイドのテロリストたちが増えている。
「S.W.A.Tでも対処できない」
それは政府と治安当局に無際限の権限を与える魔法の言葉である。被疑者がヒューマノイドである場合、まずそもそも「人間」としての裁きが下せるのか、ということが問題となる。騒乱罪であろうと共謀罪であろうと、あるいは殺人罪であろうとも、法は「人間以外」のものへの判断を有していない。
紛争地域での武力衝突や政情不安な外国でのテロに「人間とは言いきれないもの」たちが関わっている、との報道は、十年以上前から増えていた。その多くは元・人間で、サイバネティクスと生命科学の混合体。自分の身体を好きなように改造し、戦闘に最適な形へと作り直した異形の者ども。しかし、そうしたサイボーグたちが非合法活動の主流を占めたのはごく初期の話で、すぐさま人間以外の生物を特殊培養し、そこへ人間の遺伝子を混合させたヒューマノイドが増えていった。
初めて彼らが目撃されたのは中東だったか、それとも東南アジアであったろうか? そもそもテロ自体が二〇一〇年代以降、収まる気配を見せず、中近東、ヨーロッパ、アジア、中南米と、世界的な広がりを見せている。そんな中、ヒューマノイド兵士がいつ現れたのか…ベネシュは憶えていなかった。その頃にはそんな話題はどこか彼方の世界のことで、自分とは関係のない話だと考えていた。
アメリカ空軍やロシア空軍の爆撃を受けても死なない兵士たちが活動している…最初に報じたのは欧米のメディアだった。
なぜ各国の政府でなく、国境を越えて活動する違法集団が、先にヒューマノイドの開発に手を染めたか。
それは、いま現在でもマスコミを賑わす話題である。ひとつには物量にものを言わせて襲ってくる欧米やロシアの軍事力に対抗するため。また、こんな説もある。外国の政府は超人兵士の実験を実施したいのだが、国内のマスコミやリベラリストの声を気にして実行できず、代わりにテロ組織にカネを流して研究を代行させている。さらには、まことしやかなこんな説も消えていない。親テロリズム派には先端科学を研究している者が数多く含まれている、彼らは自分の研究成果を試したいのだ、と。
いずれにせよ、いたちごっこは始まった。
国境を越えて活動する武装グループに対抗するためとあれば、正規の機関も反対派の声を抑え込んで研究を進められる。紛争やテロが収まりを見せない中、生命倫理を重視するリベラル派の声はかき消された。今や各国ではどこも政府承認のもと、極秘の研究が進んでいる。その多くは自分たちが自由に扱えるヒューマノイドを造り、テロリストやゲリラ軍が先に研究していたヒューマノイドとの戦闘に、兵士として送り込むためのものである。
ニューヨーク・タイムズは社説で書いた。
「人類史上初の人類不在の戦闘ゲーム。仮想でなく」
襲う側も対抗する側も、殺し合いを演じるのを人間以外の兵隊に任せきり。
この戦略における最大のメリットは、正規の兵員や警察官の人的損耗がまったく無くて済むということである。
ヒューマノイド兵士たちは戦場や犯罪現場で働くが、公式の戦闘員でも捜査官でもない。死ねば単にそれきりなのだ。誰が死のうと悲しむ者はいない。墓を弔う者とていない。いや、埋葬さえしてもらえない。
戦うためだけの、ロボットよりも使い勝手のいい人造兵士。人工の戦闘員。
莫大な資金が動くようになっていた。
政府もテログループも、どこも開発に血道をあげる。湯水のごとく研究資金が注ぎ込まれる。
ベネシュは事情に通じるにつれ、この仕事に就いたことを初めて後悔するようになっていった。殺し合いのために生み出されるヒューマノイド。古代ローマの奴隷たちですら、まだしも情にあふれた扱いを受けたはずだ。見世物試合に出て勝ち続ければ、ときには市民の位が手に入った。
それに引き換え、例えばあのトカゲはどうだ。
初めから暗殺者になるべく生み出され、育てられ、極秘のうちに被疑者を抹殺するように命じられ、失敗して殺されたとしても誰もその死を悼まない。生き続ける限り誰かを殺し続けなければならぬ宿命。
ベネシュはあのラボで、巨大な水槽を前にして、島崎から説明を受けたときのことを思い出した。
「こいつはなんです?」
「爬虫綱有鱗目。元になったのはカメレオン科の生き物だ。詳しくは私も知らんが、人間のDNAを掛け合わせてある。実験による培養体ニ十八号。我々が開発した対テロ用の、言わば生きた兵器だよ」
水槽の中で幾重にも身体を巻いたチューブに包まれながら、その緑色をした生き物はベネシュに向かってVサインをしてみせた。心なしか笑っているように見えた。
「こちらに反応していますね」
「挨拶しとるんだ。きみも何か言ってやりたまえ」
Vサインをしたその生き物は、ただ口をひらいてベネシュをじっと見つめている。
冒涜だ。
ベネシュの心には、そんな言葉しか浮かばなかった。「この生き物には自我はあるんですか?」
「なんだと?」
「心はあるんですか? 我々と同じような」
「変わった質問だな。どうして、そんなことが気になるかね?」
こいつに与えられる役目は犯人たちを抹殺することだけでしょう? 逮捕も裁判もなしに。そのことをこいつ自身は理解しているんですか? 抗議しようとした刹那、水槽の中の生き物がまた声をあげた。水槽の強化ガラスを超えて部屋に響き渡る声だった。「心なんざわからねぇが、仕事に必要な知力はあるさ。俺に直接きいてくれ」人間のような声に聞こえた。
「気にするな」島崎はその声を無視して、たじろぐベネシュを制止した。「任務に必要な知性を持つよう、脳の成長する速度を制御している。我々が何を話しているかは完璧に理解しているが、感情の発達は抑制されている。人間に対するときのように応じてやる必要はない」島崎はよく見るようにと水槽の中を示したが、ベネシュは思わず顔を背けた。
「見たくないか。まぁいきなりでは無理もない」
静かなラボには研究員が一人もいなかった。「いまの質問だがな」二人きりのせいで気がゆるんだのか、島崎はニタリと笑ってベネシュの反応を見ながら言った。
「意識、とはなんだと思うね?」
「意識?」
「そう。きみは『心』という言葉をいま使ったが、私もこいつを見ていると、よく、思うんだ。意識とはなんだろうかと」
意識。
「自己意識と言い換えてもいい。それはいったいなんだと思う?」
「わかりません…心のことではないんですか」
「私は科学者じゃないが、それは『生きていることを自覚する力』のことだと思っている」
水槽の中の生き物はじっと二人を見つめたまま、動きを止めている。
こちらのやり取りを聞いているのか?
「生きていることを自覚するとき、それはどんなときだろうかな? 分からんかね…苦しんだり喜んだり、ときには泣き叫んだりして、我々は己の命の扱いにくさに四苦八苦する。けだものや鳥にもそんな複雑な喜怒哀楽があると思うか? 学者には興味深い質問だろうが我々の仕事にはどうでもいい。私ならそれを『意識』と呼ぶ。こいつにいくら考える力があろうとも、気にする必要がないというのはそのためだ。人間に特有の不可解な情緒。こいつはそんなものに縁がない。そこまでの高等生物ではないんだよ。だから、気にするな。小蝿がちょろちょろ飛び回るのを叩き潰しても、我々は『命をひとつ台無しにした』とは思わんだろ?」
冒涜だ。
再びベネシュは心で叫んだ。
「なぜ、ロボットを使わないんです? こんな生き物を作る理由がどこに…」
「人間の、ときに行き当たりばったりとも思える破滅的で情緒的な行動に対処するためだ。現在の人工知能では、テロリストや犯罪者の自殺行為を伴う襲撃の不可解さに『合わせて活動する』ことができんのだ」
「しかし、こいつは『心』を理解していないんでしょう?ロボットと変わりないじゃないですか。なぜ…」
「巻き添えをともなう自殺行為は文化的な意識の産物だが、同時にそれは生物ならではの『不可解な』最後の手段だ。考えてみたまえ、生物は皆、その活動に多かれ少なかれ『不可解さ』を持っている。メスグモが交尾に来たオスを食い殺してみたり、カッコウが自分で自分の産んだ卵を温めずにほかの鳥にそれを任せたり…ワケがわからんだろう? そして人間は、自らの命と引き換えに多くを殺したりもする」島崎は水槽のガラスを指ではじいた。
「しかし、ワケがわからんというだけの理由でカミカゼ流儀のテロリズムを放置しておけるかね? ある宗派の教義を研究すれば理解できるというような簡単な問題じゃない。そもそも、どんな殺人だって生物学的に見れば不可解だ。同類同士が縄張り争いをするでもなく、雌を取り合うためでもなく殺しあう。困った事にロボットの場合は人間の不可解さを前にすると止まってしまう。同じ人間でさえ理解しがたい自殺行為を伴うようなテロを、今の人工知能は完全には解析できんのだ。だが、こいつらなら、人間の反射的で突発的な行動に疑問を感じたとて、解析できずにフリーズすることもない。それに…」
島崎は水槽から離れると、こともなげに笑ってみせた。「値段のこともある」
「値段?」
「いまは生物研究のほうがロボット工学より進んでいるんだよ。スーパーコンピューター並みの人工知能を小型化して最高度の犯罪心理学を教え込むより、この連中を作るほうが、いくらか予算が安上がりに済むのでな」
この第七課課長のくぐもった声は水槽の中に届いているのかいないのか…中の生き物はじっとこちらを見つめたま、動かない。
「改めて言おう」島崎はベネシュの困惑を気に留めなかった。「こいつは言わばきみの相棒だ。開発に基礎研究から関わった学者のひとりが言っていた。言語的な知能を獲得するよう、大脳皮質の成長に細工をほどこしてあるので、脳の成長のその過程で人間の意識に似た心的反応を持つようになるかもしれんとな。くりかえすが、それでも人間に比べれば感情に溺れすぎることはない。いや、そもそも感情とは何かをこいつは理解していない。従って敵を殺すことをためらわない。理想的な暗殺者だ。こいつの思考力は今回の作戦の役には立っても、よもや障害にはならん。そう仕込んである」
そして二十八号はラボから出され、極秘のうちにベネシュの相棒となった。
否も応もなかった。
グロテスクな対テロ戦争の片棒担ぎ。それは警察官の仕事だろうか。
その日、ベネシュと共にラボを出たジャグスは、できる限り人目に触れぬよう立てこもり犯たちの占拠するビルに派遣され、ものの一時間も掛からずに、三人の爆弾犯を「始末」してみせたのだった。