58、二月十一日、午後三時二分。 国立警察病院特別病棟。
オレンジブラウンの暖かみのある床は、そこが特別病棟であることの明示だった。
ここには警察関係者の中でも特に、氏名の公表を控えなければならない者以外、収容されない。
藤澤は通路を歩きながら、コーナーに設置されたテレビに目を留めた。
国会で政府が野党から二件の暗殺事件を伏せていた事実を問われている。追及にはいつにも増して怒号が混じり、それぞれの議員たちはいまにもつかみかからんばかりだった。
これから自分たちはどうなるのだろう、と藤澤は思った。第七課の存在には誰もまったく触れようとしていない。何もかも今のままで済むのだろうか…
雑念を振り払うと藤澤は病棟の端の「C」とだけ表札のある部屋の前に立った。
「失礼します。藤澤です」
ドアがあくと頭に包帯を巻いたコート姿のベネシュがジロリとこちらを凝視してきた。きちんとスーツにネクタイをつけている。藤澤は持ってきた小型の封筒を差し出しながら、こわごわ伝えた。「こちらにいらっしゃるのは知っていました。先ほど連絡員から通達を受け取ったので…警部に真っ先にお見せして、読後は破棄せよとのことでした」
「ご苦労。破棄とは? この場で破るのか?」
「いえ、警部がお読みになったら自分が持ち帰り、シュレッダーにかけるように言われています」
ベネシュはそれ以上聞かずに封筒を受け取ると、中に入っていた一枚の書面を確認し「承知した」とだけ告げて藤澤に戻した。
何が入っているのか、藤澤には見なくともわかっていた。
「通信はまだ回復しないか?」ベネシュが穏やかに聞いた。
「まだのようです。地下のあちこちでケーブルが寸断されていて…変電所も機能不全に陥りましたし…」
「おおい!警部!」室内から藤澤には忌まわしいあの声が聞こえてきた。「客人なら中へ呼んだらどうだい!俺はにぎやかなのが好きなんだ!」
* * *
泣いているのか?
まだ泣いているのか。
きらきらとまばゆい空間の中でまどろんでいる自分を見ていた。
それが夢なのか、現実の出来事なのか…
そんなことは、どっちでもいい。激しい頭痛と共にジャグスは目を覚ました。
あのラボにある慣れた水槽の中ではない。人間の使うベッドの上に寝かされていた。
「おはようございます。やっとお目覚めですね」
見慣れない看護師がそばに立って点滴を替えていた。「もうじき夕方ですけど」
「誰だ、あんた」ジャグスは両手で激痛のする頭を押さえたが、その拍子に左眼になにやら異物が収まっているのを感じ、もう一度、手でなぞってみた。
視界にはちゃんと周りが見えている。頭痛はするが、眼にはなんの痛みもない。「ごらんになりますよね?」と看護師が鏡を差し出した。
左の眼窩には、目玉の代わりにクリスタルの義眼が埋まっていた。
どうなってる? ベッドの掛け布団をはぎとり、看護師が止めるのもかまわず自分の身体を眺め回したが、どこにも傷はひとつもなかった。「気が済みました?」看護師が言って、布団をかけ直した。
「眼球組織だけは再生するのに時間がかかっているそうです。損傷がお身体のほかの箇所よりひどかったので」
クリスタルの眼。
「いや、いい。これはこれで気に入ったぜ」
ジャグスが言うと、看護師は唖然として「そんなものが?」と緑のカメレオンの顔を覗き込んだ。彼女が少しも自分の姿を気にしていないことにジャグスはもう気がついていた。
「この新しい目玉もなかなか洒落てるじゃねぇか。このままで済ませたいが、おそらく七課はそうは、わがままを聞いちゃくれねぇだろうな」
「おわかりでしたら、なにも申しません。あまりお話しになると疲れると思いますよ。二日間、眠ってらしたんですから」
それが、藤澤の来る一時間前の目覚めだった。ジャグスはよく周りを見渡し、部屋の隅に見知った顔がいるのに気づいた。
「あんたも助かったのか」ジャグスが聞いたが、ベネシュはそれを訂正した。
「間違えるな。助かったのは俺だけだ。おまえは数にして三十以上、身体に穴があいて一度、死んだんだ」
「そのまま死なせてくれても、いっこうにかまわなかったぜ。 なにしろ俺は…」
「自分に差し迫った興味がない、というんだろ。おまえがどう考えていようと七課はおまえをそう簡単に手放したりはしないさ」
「おい…」とジャグスは看護師を気にしたが、ベネシュは手を振ってさえぎった。
「彼女のことなら心配ない。七課から派遣されて、機密保持の資格を持ってる」
「よろしくお願いします。これからはあなた専属のメディカルアドバイザーとして勤務することになりました」
「おいおい、勘弁してくれ」ジャグスはベネシュに向かって音を上げてみせた。
「お気に召しません?」看護師が聞いた。
ベネシュはカメレオンと看護師のやりとりを面白がって「こいつは単純明快さを好むんだ。自分の生活が複雑になることを好かんのさ。きみが関わることで日々の任務以外に気を遣うことが増えると思ってる」
「どう思われてもけっこうです。わたし、離れませんから」
「おー、やれやれ」カメレオンは両手を振り上げて残念がってみせようとしたが、再び頭痛に襲われて、やむなく腕を引っ込めた。
「あまり長時間のお話は厳禁ですよ。今後は彼に対する接し方もわたしに聞いていただきます」看護師はベネシュに向かって指を突き出したが、あるひと言にカメレオンが反応した。
「待ちな。いま、なんて言った?」
「なにがでしょうか」
「いや、あのな…俺はこれまで人称で呼ばれたことがねぇんだよ。みんな俺を指して言う。『これ』とか『こいつ』とか、『それ』とかな。『彼』なんて言われたのは初めてだ」
「じゃあ慣れてください。なんにでも始まりはあります」
くれぐれも長話はしないように、と言い置いて、看護師は出ていった。
* * *
それが一時間前のことだった。
藤澤が戸口に立ったままなので、ベネシュは聞いた。「まだ何かあるのか? 通達は読んだぞ」
「いえ…ただ…」
怪訝そうに首をかしげるベネシュに藤澤は敬礼し「お帰りになるのをお待ちしております。何があろうと、自分は警部の部下であると思っています」そして、きびすを返すと足早に去っていった。
病室はまた、ベネシュとジャグスだけになった。
「あんたと居ても座が盛り上がらねぇ。つくづく、つまらねぇ人間だな」
「この前は俺のことを『おもしろい』奴だと言ったぞ。どうとでも言え。俺はお前のご機嫌とりじゃない」
「退屈しのぎに教えてくれ。俺が人間様の使うベッドに寝かされてるのはなんの冗談だ?」
「軍情報部に貴様の存在がバレた。七課が開発段階から貴様のすべてを管理していると主張してるが、軍の横槍で、あるいはおまえはこれから先、軍の所属になるかもしれん。劣悪な環境下で飼われているのも問題視されてな。七課は虐待はしていないと主張するのに大わらわだ」
「なるほど、それで急にトレーナーが付いたり、ベッドが用意されたりかい。へへ」
「いずれにせよ、おまえには莫大なカネがかかってる。七課が元を取ったと思うまで、おまえは死ねないんだ。何度でも蘇生される」
「あの守銭奴の銀色野郎はどうなった?」
「砕け散って何もわからん。背後関係も不明のままだ」
季節外れの一匹の蝿が飛んでいた。
カメレオンはベネシュに言うでなく、独り、つぶやいた。
「あいつは二重の問いかけを残していった」
「二重の問いかけ?」
「…いや、なんでもねぇ。ただの愚痴さ」
命とは何か? 意識とは何か?
二月九日以前には簡単に答えを出すことができたはずのつまらない問いだった。あともどりは、もうできない。ジャグスは蝿を目で追った。
「冷えるな、ここは。それになんだか臭ぇ」三六〇度回転する目で部屋を見回してみると、通路と同じくオレンジブラウンに塗られた綺麗な壁は、たしかにその場に漂う匂いとは異質なものとして見えた。
「ヒーターがつかない理由はわかるだろう。おまえとあの銀の若造とが暴れまわったせいで、そこら中、停電だらけだ。低体温症になる奴が激増しているとかで、救急はフル稼働してる。下水管がどこかで破裂しとるから、この病院でもトイレも使えん。給水車が都内中を走り回ってる。いま、どこでも電気と水の件が最大のニュースだ」
ジャグスは上を向いて言った。
疲れていた。
「ケーブルをめちゃめちゃにしたのは俺じゃねぇし…」
蝿も元気なく飛び回っている。
「変電所へ誘導したのは、あんただぜ」
窓のブラインド越しに午後の陽射しがベネシュを照らしだしていた。
蝿の羽音は病室の外をストレッチャーが運ばれてくる足音にかき消された。その足音も通りすぎていく。
「警部」
「なんだ」
「前から聞こうと思ってたんだが…」
「だから、なんだ」
「あんた、ほんとは人嫌いじゃねぇのかい?」
「なに?」
「怒るなよ。ただ、そう思っただけさ…」
「なぜそう思う。俺には結婚歴があるし、息子のことをなにより一番に思ってる」
「違ったか…」
蝿の羽音以外、また病室は静かになった。
「いや…ただ、なんとなく、あんたが俺ばかりじゃなく誰に対してもぶっきらぼうなのは、人嫌いのせいじゃねぇかと思ってさ」
「なんとなくそう思う」という厳密性を欠いた感傷的表現は、二月九日以前ならジャグスの口をついて出るはずのないものだった。
ベネシュはジャグスを見ずに答えた。「人づきあいが下手なのは認める。それを人嫌いのせいと思うなら、それでもいい。トカゲも好きにはなれんがね」
「へっ」ジャグスはこつこつと自分の左の義眼を叩いた。
「まだ言ってやがる。俺はトカゲじゃねぇってのに」
「おまえこそ間違えてるぞ」
ベネシュは煙草を取り出したが、病室には灰皿が無いことに気がついて、火をつけずに一本を口にくわえた。
「いま、通知が来てな」
「ほお。なんの?」
「俺は警部を降格になった」
間があいた。
ジャグスはじっとベネシュを見た。
ベネシュもじっとジャグスを見た。
カメレオンはクックと喉を鳴らすと「へへへ…つまり、こういうことかい」自分の中から経験したことのない感情が溢れてくるのを感じ取った。
「この俺様はトカゲじゃない」
「そして俺は警部じゃない」
もはや、こらえきれなかった。
ジャグスは笑った。
生まれて初めて心の底から喜びが湧いてきて、とめどなく笑い声となって吹き出した。へへへ…ひひひひひ…はは、ははは…
「こいつぁいい。まったくすげぇ…」
ははははは!ジャグスは一人で爆笑しながら、クリータスに心の中で挨拶を送った。
いや、「心」だって? 俺の中に心があるのか? あるとも。俺は知っている。クリータス!あんたに会いたい!俺はいま、真からの喜びに溢れてる!
ベネシュは「ふん」とつぶやいてニヤリとしたが、一向にジャグスのほうを向こうとはしなかった。




