57、二月九日。 ジャグス。
そのきらきら光る無数の升目に囲まれた空間にクリータスはいた。
グリッドは互いになんの支えもなしに宙に浮いており、しきりとゆらゆら揺れて、それぞれがときおり、思い出したように配置を交換しながら動いている。
クリータスはまたしても、仕立てのいい東洋風のガウンを着ていた。流れるような衣服のシルエットと、その上から首を出すあいかわらず毛並みのいい整ったグレイハウンドの面立ちが、鏡のような床に映り込んでいる。
そばには白色に光るシクラメンの花が咲いており、煌めきながら静かな音を放っていた。
「ジャグス、ここは君の来るべきところではないよ」
「クリータス…」
「私の希望は、あるいは叶えられたと言えるだろうか? あの銀色の男は最後に、君に命の不思議を託していったね」そう言うとグレイハウンドは毛艶のいい手を輝くシクラメンに添えてみせた。シクラメンは柔らかくそれを受け入れるかの動作で揺れた。
「クリータス、俺は死んだはずだ…」
「さて、それが命の不思議というやつだ。これを見たまえ、ジャグス、この花は生きているのか、枯れているのか…果たして君はいま、死んでいるのか、生きているのか…」
グレイハウンドは微笑んだ。ジャグスが憶えている通りの、いつもと変わらぬ微笑みだった。
二人の声は空間を揺れ動くグリッドに当たり、跳ね返り、様々な音色に変化して辺りに響いた。そのたびにシクラメンも揺れ動くのだった。
ジャグスは自分の身体を見た。
またしても脱いだはずの黒革のコートを着ていた。身体中を探ったが、数十発の光子弾を浴びたはずの傷はどこにもなかった。左眼を触ってみたが、そこには目玉が確かにあった。
「クリータス、どうなってる?」
「君はここに来るべきではない。しかし、最後に私の間違いを君だけには正しておきたいと思ってね。私は我々が祝福されて生まれてきた命ではないと言った」
「ああ、言ったな。それで?」
「間違いがわかったよ。正しかったのは君だ。命に対する祝福など、生命という基礎の上に、あぶくのように浮かんだ文化からの声援に過ぎない。人間がいかに命の芽生えに祝意を示したつもりになろうと、そんなものは真実の命があげる呻き声に小さな花を添えるささやかな飾りに過ぎない。舞台上を駆け巡り全身で演じきる踊り手に対して、自らはなんの辛さも体験せずに拍手を送る観客の声のようなものかもしれん。命の誕生に我々や人間のような卑小なものの祝福も蔑視も関係ないな」
これは夢か。
断末魔の俺の最後の夢か。
それならそれでもいい。乗ってやろう。
「クリータス。あんた、まるで俺様のような皮肉屋になってるぜ」
「そうかね? 君とより親しく交情がかわせて嬉しく思う」
「俺も意見が変わったよ」
「ほお? 聞かせてくれ」
「命ってのは、やっかいなもんだ」
「なぜ、そう思うようになった?」
「人ひとり殺るのにさんざん苦労したせいかな。最後は俺の負けだった。なぁクリータス」
無数のグリッドが二人を四方から囲むようにゆらゆらと揺れ動いてはそれぞれの配置を交換し、反射する光にまたたいている。
「聞いているよ。なんだね」
「生きてるって、いったいどういうこったろうな? 第七課の命令も政府の思惑も、どこぞのテログループの謀略も関係ねぇ。クリータス、俺には生きてることの意味がわからなくなった。そんなこと考えたこともなかったぜ」
「言ったろう、君はある面ではまだ子どもみたいなものなんだ。いや『そうだった』と言うべきかな。いまや、君の情緒面の発達は正常な軌道を取りつつある。君は『生きている己』を意識するようになった。知力だけでも感情だけでも自己意識は成り立たない。自己懐疑が必要なのだよ。生きることへの自己懐疑はなにより大切なものだ。それを忘れずにいてほしい」
そう言うとクリータスは、足を動かさずに、ゆらゆら動くたくさんのグリッドの奥へと離れた。
「待て、クリータス。まだ聞きたいことがある」
「私は伝えるべきことを伝えたよ。生きるとは何なのか? 命の不思議とは何か? 文化を超えて、どうか、考え続けてくれたまえ」
「待ってくれ! まだあんたには聞きたいことが…」
ジャグスの問いはクリータスに届かなかった。
「考えーー続けてーーくれーーたまえ」
ガウンを着込んだグレイハウンドは、光輝く空間の中に反響する最後のメッセージを声として残すとそのままグリッドの奥へと小さくなって消えていき、ジャグスはたったひとり、白色のシクラメンと共に、きらきら光る空間に取り残された。
生まれて初めて、涙を流していた。




