5、五百四十日前、午前十時半。 警察庁公安第七課第五部課長室。 ベネシュ警部。
一年以上前のこと。
都心でプラスティック爆弾を二発破裂させた被疑者三人組が、銃を持ってオフィス街のビルへ立てこもる事件があった。
S.W.A.Tとの合同捜査になると考えたベネシュを、第七課の課長・島崎が呼び出した。第七課のトップとはそれが初対面だった。
「S.W.A.Tは使わない」島崎は簡単に告げた。でっぷりと太って、眼鏡の奥の目だけが光っている。
「では、被疑者をどうします?」
「それについては、きみに見せたいものがある。まず、これにサインしてくれ」
小さな字がびっしり詰まった数十枚の書類がクリップで留められていた。
「読み返すことは許されていないのでな。サインする前に、できる限り読んでくれ。サインしたが最後、書類はきみの手もとに渡ることはない。読むなら今しかないぞ」
「これをぜんぶ読め、と?」ざっと見たところでは、三十ページ以上ある。
島崎は醜く笑って「形式だよ。この国ではなんでも形式を重んじる。きみもそろそろ覚えておけ。ハンコはいま、持ってないな?」
「持っていません」
「では、こちらで適当に押しておく。読んだか?」
「なにを言ってるんです。無茶な」
部屋は必要以上に暑かった。
どこから入り込んだのか、一匹の小蝿が二人の間を往復するように飛んでいる。
ぷーん…
島崎はじろりとそれを睨むと不快そうに手ではたき落としてひねり潰した。手を払ってからベネシュのほうを向き、
「だからそれは形式なんだ。論より証拠だ。サインしてしまえ。見てもらったほうが早い」
「見るって何を?」
「いや、『見る』というより、一応は『会う』と言ったほうが正確だな。これからラボへ案内する。いま大急ぎできみの認証カードを作らせているから五分待て」
「さっぱり分かりません。『見る』とか『会う』とか、なんのことです?」
「今回は被疑者を逮捕はしない、ということだ。私と総理は、ジャグスを使うことで意見が一致した」
「ジャグス?」
「二十八号だよ。いいから来たまえ」
そこは冷え冷えとした、異様に静かな空間だった。専用エレベーターに乗り、地下四階へ。コンクリートの壁に囲まれた通路の行き止まりに「ラボ」と呼ばれる飼育室のドアがあった。
厚さ四十センチの鋼板で作られているラボのドアは、島崎が二人分の認証カードを照合機に差すと、まるで魔法のように静かに、しかし機敏にすすす…と動き始めた。
「断っておく」ドアがひらききるのを待つあいだ、島崎はベネシュのほうをじっと見て「きみには選ぶ権限がない。ここへ来たことは決定事項だ。これから会ってもらうのは、いわばきみの相棒だ」
手術室と見まごうラボの内部に、いくつもの巨大な試験管のような円筒形の水槽が並んでいた。ベネシュはそのひとつの前に立たされた。「まだ始まったばかりの実験でな。こいつを使うのは、今回が二度目だ」
「よう」とその生き物は、水槽の中から完璧な人間語でベネシュに声をかけてきた。
* * *
仰天して雪のなかに尻餅をついた藤澤が、あんぐりと口をあけている。
ベネシュは近づいて言った。「巡査部長、ひとを遠ざけろ」
ゆっくりとジャグスは背面のドアから這い出ると、長く優美な尾をずるずると引きずりながら辺りを見回した。降り積もる雪に特殊な五本指の後足と引きずられる尾の跡がきれいに筋を残していく。三六〇度の視野を持つその目がベネシュを見つける。「よう」
あのときとまったく同じだ。ベネシュは思った。こんなものを創り出した第七課と政府とこの国を、ベネシュは心の底から軽蔑した。ジャップども…あの水槽の中を見たときの率直な感想は、嫌悪の念以外のなんでもなかった。
「一年半前の立てこもり事件以来だな」ジャグスと呼ばれるその生き物は、完璧な発音で話しかけた。
爬虫綱有鱗目。実験による培養体ニ十八号。
身長ニメートルを超すその巨体を黒革のコートが包んでいる。立ち上がったジャグスは、別々に動く両目で周囲を見渡した。
「おまえには会いたくなかったよ、トカゲ」
ベネシュが応じたその相手の首には、巨大なカメレオンの顔が載っていた。