37、二月九日。 ジャグス。
どこまでも永遠に続くかと思われるその穴を落下しながら、ジャグスは一度、気を失った。
気がつくと、そばにはクリータスがいた。
「クリータス?」
艶のある毛並みの、あのグレイハウンドの顔が微笑んでいた。
「また会えたな、ジャグス。君にお別れを言う機会がなかった」
「どうなってる? あんたは死んだはずだ」
クリータスは仕立てのいい東洋風の襟のある礼服を着こなしていた。背後に上品なテーブルと椅子が数脚おかれており、テーブルの上には、なにやら紅茶のセットと鉢植えがある。
そこは小鳥たちの舞う庭園だった。柔らかな日が差し、真っ白な回廊を照らしている。そばには泉があり、風もなく穏やかな天気のために、水底までが見通せた。魚たちが気持ち良さげに泳いでいる。
「どうだね? 恐怖を味わったかね?」グレイハウンドは優しく聞いた。
ジャグスはこの状況を判断すべく頭を働かせてみたが、すぐに無駄な考えは捨てようと決心した。
俺はあの奈落に落ちて死んだのか?
それならそれでいい。生きてるならそれでもいい。相変わらず、俺は自分の生き死にに興味がない。
「本当かね?」クリータスが心を見透かしたかのように聞いた。
「なんだと?」
「ついさっきまで君は『死にたくない、生き延びてやる』と思っていたのではないのかな? いままた、違うことを考えているようだが、自分の生き死には、本当にどうでもいいかね?」
「なぜ、俺の考えていることがわかる?」
グレイハウンドは気品に満ちた笑みを浮かべた。ジャグスはぎろりと相手を睨むと「クリータス、おそらく人間ならあんたの微笑みを『慈愛に満ちた』とかなんとか言うだろう」
「ふむ」
「だが、俺にはあんたがなぜ微笑むのか、その意味が理解できない」
「それも本当かな? 君はこの数時間のあいだに、まるで何かのスイッチが入ったかのように、自分の中に様々な奇妙な感情が渦巻きはじめたことに気づいていないか?」
「嘘じゃない。あんたの言うことはわからない」
「情緒未発達…か」クリータスはそう言った。
「ここはなんだ? 俺はいま、追われてるんだ」
ジャグスは現実に立ち返ろうとしたが…
グレイハウンドは質問に答えず、テーブルの上のカップを手に取り紅茶を注ぎながら、自分の言葉をゆっくりと反芻した。
「情緒未発達。ときおり人間の中にもそんな者が生まれてくることがある。そのような子どもは何かが欠けているとされる。彼らは果たして、君のように、自分の運命に関心を持たぬだろうか?」
「何が言いたい?」
「まぁ掛けたまえ」
テーブルの上の鉢植えを指してクリータスは言った。
「これはシクラメンだよ。知っているかね? 別名をブタノマンジュウとも言う。無粋な名だが、この花の姿かたちをよく捉えた名前だとは思わないか?」
ジャグスは三六〇度見えるその目であたりを見渡したが、やはり眼に映るのは平和な庭園風景だけだった。
「この花の造形をどう思う?」
「クリータス、俺はいま、生きるか死ぬかの場面なんだ」
「実に不思議なかたちだと思わないかね? 人間の想像力では、とてもこんな複雑な生々しいかたちを生み出せない」
「クリータス、やめてくれ」
「恐怖を味わったか?」グレイハウンドの黒い鼻は、心持ち、光っていた。
ジャグスは一瞬、考えた。
「味わったさ。恐怖なら、味わっている最中だ」
「よかった。では、君には少なくとも自己に対する執着が芽生えたことになる」
いったい何がどうなってる?
緑のカメレオンは自分が怪我をしておらず、脱いだはずの黒革のコートをまた着ていることに気がついた。
何もかも理解できぬままに問答に応じた。「本能的に死を避けようとしてるだけかもしれないぜ?」
「違うな。君は命を奪われたくないと思考したのだ。それは本能とは違うよ。君は命というものがかけがえのないものだと知りつつある」
クリータスは生きていたときよりずっと生き生きして見えた。
「生命工学の生み出した俺たちに、そんな台詞は意味があるか?」いま、ジャグスは反論を投げかけながら、こんなことは馬鹿げてる、一刻も早くここを脱出しなければと、それだけを考えている。
「いや、どんなかたちで生まれようと、何が欠落していようと、命の不思議ほど、我々を魅了するものはない。そして、命の不思議に迫ることのできる言葉などない。命ほど畏れ多いものはない。君にそれを伝えたかった」
「俺に?」
「見たまえ、このシクラメンを。この精妙な造形美にどれほどの言葉が正対できるね? そしてほら、こうして花をむしろうとすると…」
不思議なことが起こった。
シクラメンはクリータスの指を逃れようと身をかわした。
「この花は考えているのだ。命を奪われたくないのだよ。我々も人間も、命の素晴らしさを文学的に表現する。命とは愛だ、命とは恵みそのものだ…いろいろ言われるが、そう、かつて君が言った通り、そんな言葉には意味がない。そんな文学的修辞は本物の命の前ではすべて色褪せる」
ジャグスは聞いていなかった。これが夢なら、覚めた瞬間、俺は銀色野郎の標的になる。
クリータスはかまわず、カップの紅茶を上品にひと口すすった。
「恐怖を味わった君には、ひとつ覚えておいてもらいたい。生命の不思議はどんな賛美も揚げ足取りも超えて立つのだ。自然のままに生まれたシクラメンも、君や私のように実験室で生み出された突然変異種も、そしてあるいはすぐに君が知るだろう壮大で異質な命も、それらすべてが言葉では表現できない命の重みを具現化する存在なのさ」
「クリータス、時間がないんだ」
「あわてるな。せめてこの一杯くらい、飲みたまえよ」
ジャグスは焦ってクリータスが差し出したカップを見たが、やがて観念してそれを受けとると、ひと口飲んだ。
「待て、クリータス」
「なんだね」
「思い出したぞ。あんたは自分や俺が祝福されて生まれてきた命ではないと言って嘆いていた。いま言ってることとは話が違うぜ」
クリータスはまた微笑んで「気づかれたか。そこがまさに私と君を分けた線だよ。私は祝福される命という文学的修辞にとらわれすぎて、そのせいで自分の命を縮めてしまう羽目になった。だが君は」
グレイハウンドはカップを置くと、緑のカメレオンの鱗に覆われた手を握りしめた。
「君は文学的修辞に関心を持たない。命の不思議を飾り立てた言葉で隠してしまうことがない」
ジャグスは急速に眠気に襲われていた。
「…クリータス、…おまえ、紅茶に何を入れた?」
「命の不思議の本当の姿を見ることができるのは、君のように強靭な精神を持つものだけだ」
「クリータス、紅茶に何を…」
「だからこそ、君のその目で確かめてくれ。本当の命の誕生がいかに奇怪で醜悪で、そして華麗な美しさに満ちているか…」
もう立っていられなかった。ジャグスは倒れこむようにその場にくずおれた。
「忘れるな」クリータスの声が耳に残った。「君が味わった死の恐怖は、単に死ぬことへの恐れではない。君は命そのものを畏怖することを知ったのだ」
私は二人のやりとりを聞いていた。哀れなるクリータスよ、安らかに眠りたまえ。罪深きジャグスよ、命の本当の意味を知り、生き延びよ。十五の次の無限に続く数を数えよ。
私は無限。あのグレイハウンドの言葉は私。




