3、二月九日、午前五時三分。 港区中央通り移民保安省付近。 藤澤祐希巡査部長。
降りしきる雪が勢いを増す中に立ち、巡査部長・藤澤は何度もポケットから携帯電話を出しては、【重要事項通達】とタイトルの付いたメールを見た。
『重要事項通達』
担当指揮者の到着を確認してのち、許可を得て公用車の発信機より車輌ナンバー付きの返信を返すこと。追って子細を伝える。
それだけだった。差出人すら表示されていないが、公安第七課長からのものであることは分かっている。俺のこのアドレスに暗号化されたメールを送ってよこすのは、第七課のトップだけだ。
藤澤が公安のテロ対策第二部に配属されたのは、もっぱら暗号の送受信に関する筆記試験の成績が優秀だったせいである。少なくとも藤澤自身はそう信じていた。
しかし、配属以後、いままでに一度も上とメールなど交わしたことはない。
通信は盗聴され、かつ、たやすく解読される恐れがある。
だから公安は極力、Eメールを使わないし、交信もしてこない。電話でやりとりをするのは非常用回線の使用が許されている警部・警視クラスの者だけである。藤澤のような末端の人間は、普段はごく当たり前のパトロール警官として所轄署に詰めている。連絡は基本的に人から人へ口頭で行われ、メモを取ることすら禁じられている。今回は例外中の例外だった。
誰かが暗殺されたことを藤澤が知ったのは、三時間前だった。アパートの管理人兼班長はベテランの女で、彼を叩き起こすと無駄口を聞かずに指示を告げた。「呼ばれてるわ。すぐ準備して」彼女の言葉数が少ないのは単に「それ以上は知らされていない」というだけの理由によるものだった。ほどなくして来た初めての暗号化メールに藤澤は驚いたが、解読してみると末尾に『読後、破棄のこと』とあり、簡潔に閣内の重要人物が謀殺されたことが記されていた。
これが二度目の犯行である可能性にも簡単に触れられていたが、最初の事件のときにはなぜか藤澤にはお呼びがかからず、噂を耳にしただけである。所詮、下っ端とはそんなものかと思っていたので、初の緊急連絡に藤澤の胸は抑えようもなく高鳴った。
雪のために人を介した連絡が困難なこと、警察庁全体が捜査に協力体制を確保していること、既に移民保安省のビルの周りは『必要な人数の』警官が取り囲み、交通規制が敷かれていること等の箇条書きが書かれていた。移民省? 馬鹿げてる。そこまで書けば誰が死んだのかは誰でも分かる。だが最初のメールはそれだけで、十分後に来た次のメールの内容は、ただ即刻、移民省に急行し、交通規制の責任者に識別番号を告げて警備に参加し、その後の連絡を待てというものだった。
二通のメールにはどちらにも『余計な情報を入れぬように』との念押しもあったが、藤澤は好奇心がおさえきれずにテレビを観た。どこの局も何も報じていなかった。
公安はじまって以来の報道規制。いや、正確には二度目の。藤澤が知っている限りでは。だが、これほどの事態だ。いずれは発表せざるをえない。
大雪を覚悟して現場に急いだが、まだ夜明け前で道路は閑散としているにもかかわらず、予測より十五分以上、到着がおくれた。これでは朝が来て車の列ができるにつれて、大渋滞になるだろう。警備の責任者に識別番号を告げて規制の輪に加わる。この大雪では防寒着も役に立たない。すぐに支給品のコートを貫いて凍てつく寒さが襲ってくるぞ…。案の定、体感温度は刻一刻と、痛いほど下がり続けた。こらえる自信が失せはじめた頃やってきた一人の連絡員は、暗殺犯が十数名の警備員とともに長官を殺して立ち去ったと短く告げた。「何名ですか?」藤澤は聞いてみた。
「言ったろう。確認できているところでは十数名がやられた」相手は苛立たしげにくりかえすだけだった。
「いえ、違うんです。やられた数でなく、犯人グループの人数です」
藤澤が聞くと、一瞬、会話の間があいた。でしゃばるなと怒られるかと思ったが、連絡員はしばらくためらってから「…誰にも言うなよ」
「もちろんです」
「ひとりだ」
「え?」
「単独犯らしい。それ以上は俺も聞いていない」
「たった一人で十数人を殺して逃げたというんですか」
「重火器で武装していたらしい。それ以上は聞くな。本当に箝口令が敷かれているんだ」
「しかし、重火器で武装していたら、そもそも建物に近づけないでしょう。どうして…」
「だから聞くなと言うんだよ。ある筋に言わせると、中東では有名な暗殺者らしい。俺たち公安の下っ端までが駆り出された理由だ。上は絶対に逃すまいと考えている」
口頭による伝達の危険は《ひとの好奇心》である。末端にいる者は知りたがる。末端にいる《自制心の利かない者たち》は余計なことまで話したがる。
「前の、あの事件との関連は確かですか?」
「それも聞くな。メールにあった通りだ。公式には捜査中だ」
非常事態は二人の好奇心を刺激していた。「どこへ逃げたか、分かっているんですか?」
「だいたい見当はついてるらしい」
「捕縛できますか?」
「…ここだけの話だが、誰も捕縛するとは言っていない」
「どういうことです?」
「もう聞くな。俺もしゃべりすぎた」それだけ言うと、連絡員は立ち去った。
生死を問わず。
命令が出ているのだ。藤澤はますます好奇心をかき立てられたが、そうなると公安第七課でも特に専門部署の第五部の出番ではないかとハッと気づいた。
生死を問わず。
いや間違いない。
俺たち制服警官には、よほど身の危険を感じたときでもない限り、被疑者の射殺どころか、発砲さえ許されていない。ではS.W.A.Tならどうか。いや、S.W.A.Tが出動したとは、あの連絡員は言ってなかった。
S.W.A.Tでも対処できない?
それなら第五部が出てくるわけも分かる。別名、科学部。だが警官たちの間では、俗称のNSAのほうがよく知られている。米国の諜報機関と同じ。No Such Agency、「そんな部署は存在しない」。
怪しげな噂がいくつもあった。
第五部の仕事を調べようとする記者は、どこの社の者であれ、飛ばされるか事故に遭う。
第五部が捜査にかかわると被疑者は消える。
第五部には拷問が許可されている。
どれも信憑性には乏しかったが、ひとつだけ、確からしいという話があった。
第五部には正規の警察官は属していない。
「藤澤巡査部長」ベネシュから声がかかった。正式に現場の指揮を任されたベネシュは、藤澤より三十分以上早く到着して、指揮車の中に詰めていた。