14、二月九日、午前六時二十八分。 港区中央通り公園広場。 藤澤祐希巡査部長。
誰でもいいから連れてこいと言われた藤澤が谷口巡査を連れて戻るまで、十五分とはかからなかった。
藤澤にはなんの手間でもなく、ただ単に、非常線を張るパトカーの群れのそばへ行って皆に聞こえるように、この前の事件のとき呼ばれた者はいるかと怒鳴っただけである。すぐに三本の手が上がり、藤澤はいちばん近くで挙手した、自分より若い警官を引っ張ってきたのであった。
「氏名、階級、および所属は?」ベネシュが聞いた。ベネシュの肩にも、藤澤と若い巡査の制帽にも雪が積もっている。
「谷口勝巡査、所属は第三分署…港区第三分署です」
「よし、谷口巡査。きみは官房副長官殺害事件のとき、いつ現場に来た?」
「発生の第一報を聞いてから五分で急行いたしました。そのときは付近を警邏しておりましたので」
「俺は、あのときは到着が遅れたんだ。着いたときには犯人が逃げおおせたあとだった」
「私も、警部にはお会いしませんでした」
「そうだろう。きみの顔には見覚えがない。なぜ現場を立ち去った?」
「第七課に離れろと通告されました」
「そうか……きみとは今回が感激の初対面になるわけだな。あのときも、建物近くのケーブル坑の入り口があいていたはずだが」
「はい、すぐに、そこから逃げたと思いました」
「きみは中へ入ったか?」
「入りました」
よく無事で戻れたなとベネシュは声をかけてやりたくなった。官房副長官殺害は本来なら初動から第七課の扱うべき事件であったが、第一報は第三分署が受けており、分署は何が起きているのかも分からぬまま、一般の警察官を現場に派遣したのだった。
「入ったのはきみだけか?」
「いえ、私も含めて、ぜんぶで五名、入りました。本道の入り口までですが…」
よく見ると、若い巡査は小刻みに震えている。それが寒さのせいによるものか、それとも、日頃は話すどころか目線を合わせることも許されない公安第七課の警部への恐れから来るものか、それとも何かの恐怖体験を思い出しているためか、そこまでは読めなかった。
「中で何があった。手短に話せ」
「被疑者が逃げるところでした」
「被疑者を見たのか?」
「いえ、はっきりとは…内部は暗くて、その者の姿は遠目にしか確認できませんでした」
「とにかく逃げ去るところだったんだな?」
「はい、相手は重火器を乱射して、我々を遠ざけると…」
「待て。遠ざけただけか?」
「そうです」
「そこは確認しておこう。 確か、こちら側の人的損失は、そのときにはなかったな?」
ベネシュが「怪我人」とも「死傷者」とも言わず「人的損失」と言ったことは、横で聞いていた藤澤の耳に響いた。この人も、本質的には第七課的な考え方を持っている。ベネシュは無意識に、自分が嫌っているはずの第七課長・島崎のような言葉遣いで話していた。
若い巡査は、懸命に思い出しながら答えを探した。
「はい。相手の乱射は威嚇の目的でなされたと思います」
威嚇のための射撃。
それは事実だろうか。今回の場合は、逃げるために十名以上の警備員を殺しているのだ。前のときはなぜ、無用な殺人を避けた?
谷口はひと通り答えると、次の質問を待って沈黙を守った。藤澤も黙っていた。
ベネシュは天を仰いだ。
第七課は機密保持のため、ときおりベネシュのような高級捜査官にも真実を知らせない。
「本当に怪我をしたり、命を落とした者はいなかったのか」
「おりません」
「何を見た」
「何も見ませんでした」
「どういう意味だ」
「つまり、乱射がやんで我々が近づこうとしたときには…」
「S.W.A.Tか第七課が到着したか」
「それもありますが…」
谷口は恐る恐る絞り出す声に、さらにためらいを忍ばせた。
ベネシュはそのためらいに気がついた。
「それもあるが、なんだ? 遠慮せずにきみの見たことを話せ」
「見たことと言いますか…」
「なんだ?」
「…見えなかったことのほうが重要ではないかと思います。我々がたどってきた縦穴以外、その坑道には付近に外部への出口がないはずでしたが…」
「うん、『はずでしたが』?」
「はい、その…私の印象に過ぎないのですが…」
「どうした?」
若い巡査は少し間をあけて、慎重に言葉を選んだ。
「被疑者は銃を乱射したあと、消えました。姿を消した、という表現が適切ではないかと思います」
雪はまだ、しんしんと降っている。
「どこへ消えたか、探したか?」
「いえ、しばらくは危険なため近寄れませんでした。我々が被疑者の動きを警戒しているところに第七課が来て、外へ出ろと言われました」
「そのあと、どうなったかは聞いていないのか」
「聞いておりません」
雪は降りやむ気配がなかった。
消えた犯人。
流れてくる水。
ベネシュにひとつの考えが浮かんだ。
「藤澤巡査部長」
「はい」
「水道局に連絡をとれ。この時間、下水の大量放出を行なっているか、確認しろ」彼はマイクをつかむと、坑道の奥にいるカメレオンに向かって簡潔に呼びかけた。ひとつのひらめきに過ぎないが、確信があった。
「トカゲ、聞こえるか?」