12、二月九日。午前六時二十分。 港区中央通り地下ケーブル坑内。 ジャグス。
ジャグスは水溜まりの匂いを嗅いでみた。
臭く、すえた匂いがする。
下水だった。
* * *
しばらく腕組みをして考えていたベネシュは藤澤を呼ぶと、先日の官房副長官暗殺事件のとき、きみは呼ばれたかと尋ねた。
「いえ、自分は別件の捜査に借り出されておりました」
「では誰でもいい。いま非常線の周りに並んでいる連中の中から、官房副長官事件のとき、現場に立ち会った警官をすぐ見つけてこい」
「はあ…しかし……」
「なんだ」
「機密保持の観点はよろしいのでしょうか? 一般の巡査たちには警部と直接お話する権限がありません」
「かまわん、俺が許可する。すぐに探せ」
* * *
ラルジャンは息を殺して水の流れてくるほうを見ていた。もう間もなく始まる。予定より三時間以上、遅れている。
* * *
ジャグスも考えていた。
この水溜まりとなって少しずつ流れているのは、間違いなく下水の水だ。これはどこから来た?
この緑の生き物の思考力は、知能指数テストによれば、ほぼ人間並みであるとされる。情緒よりも知性が先に発達するよう、生理的なプログラミングを受けている。それは対人間の「捜査活動」を行うために必要であったため構築されたこの「怪物」の脳の特徴である。ラボは生物学の粋を集めて、ジャグスの思考力が感情抜きでものごとを考えるよう設計をほどこした。情緒を差し置いて知力だけが先に人間並みになるように。計画通り、このカメレオンの脳は誕生から現在に至るまで、着実に成長している。しかし、
…こういうときには、人間以上のAIレベルの思考力が俺には要求されると思うがな。ジャグスは細く流れてゆく下水の水を観察しながら、自分を造った人間たちの不手際を心の中で指摘した。いっそのこと、なぜロボットにしなかったのかね? 緑のカメレオンは自分を生み落としたラボの計画のある種の「甘さ」を心の中で皮肉った。
心の中で?
俺にはいったい「心」があるのか?
いや、そもそも「心」とはいったい何だい?
それはジャグス自身がくりかえし抱いてきた疑問である。いや、果てしのないジョークである。自分の大脳皮質は成長を続けている。それは情緒を抑えて知力を優先するよう企てられた、非人間的な計画の産物である。だが実は、計画者たちの予想を裏切るスピードで、ジャグスの思考力は「完全さ」を求めて発達を続けていた。いまや、誰にもこの緑の爬虫類の思考の姿を判別することはできない相談になっていた。
いま、俺の「知性」はともかくとして「情緒」は果たして人間並みか?
ジャグスに初めて会った者はみな、この爬虫綱有鱗目に属する生き物が、いったい人間並みに考えることが出来るのかどうかを考える。ジャグスにはそれが可笑しくてたまらなかった。どいつもこいつも似たような反応ばかり返してきやがる。
いや「可笑しさ」だって?
俺が「可笑しさ」や「馬鹿馬鹿しさ」を理解するようになったのは、いつ頃だ?
それはジャグスが記憶する限り、クリータスと共に訓練を受けていた頃のことである。ジャグスにとっては知性以外に芽生えた、最初の情緒的経験であった。
知性と感情が合わさることが本物の思考だというのなら、俺の思考は果たして人間並みなのだろうか?
いろんな人間からしょっちゅう疑念をぶつけられるので否応なしに考えさせられるが、本当のところ、ジャグス自身には、それは限りなくどうでもいいことだった。俺は特別な仕事をこなす、ただ、それだけのために生み出された。呼ばれて借り出され、そして殺す。ただ、それだけのこと。
これまでに正式な任務は二回。きょうで三回目ということになっている。だがベネシュにも話せない殺しはほかに山ほど請け負ったことがある。公安第七課第五部は警察上層部にも知らせずに内閣からの依頼を受けて活動することがしばしばある。何かがあるたびにジャグスは呼ばれた。一番人気だった。
呼ばれて借り出され、そして殺す。
ただ、それだけのこと。
ジャグスは、公平に見て、自分に人間のような憐れみの感情が欠けていることを知っている。それだけでも俺が人間と同じ扱いを受けない理由にはなるな。あの警部に言ってやればよかったか。自分の意識は人間的に見るなら欠陥品である。そう考えると逆に「人間のように」思いきり笑ってみたくなるのだった。ジャグスがこれまでにたくさん読んだ本の中には文学や戯曲もあったが、それらの意味は分かるものの、いずれもつまらぬ叙情がだらだらと綴られている馬鹿げた文章の羅列としか思えなかった。森鴎外の『高瀬舟』、シェイクスピアの『マクベス』。死にたがる弟はさっさと殺してやればいいし、ダンカン王を始末したければさっさと済ませればいいだけの話である。なぜ殺したあとまで悩まなければならないのか。
殺しが快感であるかどうかも考えたことがある。
それもジャグスには縁の無い話だった。
世の中にはときに変わった人間がいて、そいつらは自分の仲間である同じ人間をなぶり殺すことに喜悦を感じたりするらしい。むろん彼らには憐れみもなく、したがって後悔を覚えることもないのである。その一点は俺と同じだ。だが、楽しみのために殺すというのが理解できない。無駄な殺戮。いや、そもそもジャグスには「殺意」というものが無かった。殺しの瞬間について、ある者は快楽と言い、ある者はそれを狂気と呼ぶが、ジャグスには最終的に必殺の銃弾を放つときですら「相手を殺す」という感覚が無い。指示を完遂する、というのがいつもジャグスの考えていることだった。
では、指示が無ければ?
指示がなくなれば、俺は自分が何のために存在しているのかを考えることになるだろう。
殺すために生きている。
殺伐とした、意味のない生かもしれない。
だがそれは「生きるために生きている」だけの者と、果たして何が違うのだ? 日々の食事と家族や仲間や友人、恋人への友愛を糧に喜びと悲しみを得る。そんな些事への関心がなくなれば、人はただ、生きるために生きているだけの存在になるだろう。しかしそれは戦場に置かれた兵士がそもそもの戦争の目的すら曖昧になり、ただひたすら敵を殺す以外のことが何も考えられなくなった状態で前へ前へと突進し続けるだけの生き物と化すことと、いったい何が違うだろう。非人間的で不条理な任務のみのために生み出されたジャグスは、必然的に仕事のない時間の中では我が身の不条理を分析する癖を持つようになっていた。
これから出会う相手はおそらくヒューマノイドである。人間の警察官では相手にならない。
だから俺が行く。単純明快な行動原理。
人間どもは文明の力で自ら退治しようのない敵を生み出し、解決ではなく回答の消去のために再び文明の力を用いて俺を生み出した。
見つけて、殺す。
ただ、それだけ。
「聞こえるかい、警部」
ベネシュを呼び出しながら、ジャグスは死んだクリータスのことを思い出していた。