雲鯨の旅路
「……雨?」
頬に触れた雫を指先で拭い、ソフィアは空に顔を向けた。
見上げた先には雨を降らすような雨雲はなく、青い空と太陽が輝いている。だが、ソフィアは雨を降らした存在に気づき、見上げたまま呟いた。
「……雲鯨」
そこにいたのは巨大な鯨の形をした真っ白な雲。それが幾つか青い空を漂っていた。
雲鯨は名前通り、海に住むと言う鯨の形をした雲のことだ。いや、正確には雲かどうかも定かではない。雲鯨は季節が冬に移り変わり始める頃、どこからともなく現れ、決められたように全てが同じ方向へと流れていく。そんな風に、風の流れなどに関係なく一定方向にのみ進む様子は、まるで自分の意思を持っているかのようだ。しかも、海の鯨同様に、背中から潮も吹く。それが時おり地上まで届き、先程ソフィアの頬を濡らしたように雫を落とす。それらの事実から、雲鯨はただの雲ではなく、生物なのではないかという説もある。
「もう、そんな季節なのね」
ソフィアは遥か上空を泳ぐ雲鯨から目を離し、自分が今立っている場所へと視線を戻した。目の前に延びる町の商店街には人々が行き交い、様々なやり取りが行われている。だが、この場に漂う雰囲気は、不思議と気持ちを落ち着かせる空の様相とは異なっていた。
「もう、国境まで敵が来ているようだよ」
「……北の戦地で息子が……」
人々が交わす言葉は悲痛な嘆きばかり。表情も暗く、町全体が重い空気に満ちているようだった。
今、世界は戦争という悲しみに包まれている。世界中の至る所で諍いの火が上がり、こんな辺境の地にでさえ戦火の恐怖は近づきつつあった。
嫌でも聞こえてきてしまう嘆きに、ソフィアも悲しみを覚えてしまう。久し振りに下りてきた町だったが、色々と見て回ることもせず必要な物だけを足早に買い揃え、急ぎ町を後にした。
荷物で重くなった籠を抱え、そこまで緩やかではない坂道を進んでいく。町の整備された石畳の道とは違い、土を踏み固めただけの粗悪な道。重い荷物を持っての歩行は、若いソフィアであってもかなり大変だった。
ソフィアは町から離れた場所にある小高い丘の上に住んでいる。丘には小屋のような民家が数件あるが、今はそのどれにも人は住んでいない。緑に囲まれた丘は空気も澄み、見渡せる景観も素晴らしい。だが、やはり町への往来は不便で、人々はより便利な場所へと生活の場を移していた。そんななかで、ソフィアは町から丘の上に生活の場を移した珍しい存在だった。
ソフィアは丘の最も高い位置にある家へと急いでいたが、ふいに足を止め空を見上げた。彼女の頬には小さな雫が涙のように一筋流れていた。
「何だか、今年は数が多いわね」
茜色に染まり始めた空には、昼間と同じように雲鯨が泳いでいる。だが、その数は昼間と比べ目に見えて増えていた。
雲鯨は約一ヶ月間、人々の頭上を漂う。最初は数頭だが、しだいに数を増やし、多い時で数十頭という大群になる。昼間に見た時は、まだ出始めの一、二頭だったのだが、今はすでに十頭近くいる。
いつもとは様子の違う雲鯨に、なぜだか胸の奥がざわつく。
――早く、帰ろう。ソフィアは止めていた歩みを再び進め始めた。
気持ち、歩みを早め丘を上がり、もうすぐ家に着くという時、なぜかソフィアは再び歩みを止めた。彼女はある場所を見つめ、訝しげに眉間に皺を寄せていた。
自然に溢れているが閑散とした丘の上の小さな一軒家。ソフィアは数年前からその家を借り、今は一人で暮らしていた。丘で暮らす人がいなくなったように、わざわざ丘の上を訪ねてくるような人もいない。……そもそも、ソフィアを訪ねて来るような人間はいないはずなのだ。だが、彼女の家の前には、たしかに人影がある。
入り口の前に立つ一人の男。もしや強盗かと身構えるが、こんなみすぼらしい家に盗みに入るような奇特な強盗もいないだろう。それに、男の様子は侵入経路を探るというよりも、本当にぼんやりと立ち尽くしているだけといった感じだった。一見、不気味な感じはするが、不思議と悪い感じはしない。ソフィアは警戒しつつ近づき、男に声をかけた。
「……あの、家に何かご用ですか?」
間近まで近づいてもソフィアの存在に気づかなかった男は、背後からの声に酷く驚いたように肩を跳ねらせた。呼吸を整える素振りを見せた男が、深く息を吐き出しながらゆっくりと振り向いた。
「…………あ」
小さくこぼれた声。それは、二人の口から同時にこぼれたものだった。
男は知らない人だった。なのに、彼の顔を見た瞬間、ソフィアの胸には言葉では言い表せられない感情が溢れ、吐息のような声となって出てきてしまった。見知らぬ男に抱くはずのない感情だと分かっているのに、消えることなく広がっていく想いに突き動かされ、ソフィアはもう一度声をかけようとした。
「あの、あなたは……」
男はその問い掛けに応えるように、微笑んだ。しかし、はっきりとした言葉が出る寸前に、男は倒れてしまった。
「えっ!? あのっ、大丈夫ですかっ」
困惑するソフィアの声に応えることもなく、男は完全に意識を消失させてしまっていた。
しばらく声を掛け続けたが、男が目覚める様子はない。このままにしておくこともできず、かといって自分よりも背丈の高い男を運べるかも怪しい。どうするべきか悩んだ挙げ句、引きずってでも運ぼうと抱えてみれば予想外に軽く、細腕の女でもどうにかベッドに運ぶことができた。
ベッドで眠る男に、大きな怪我などがある様子はない。呼吸も安定しており、熱もない。ならば、なぜ倒れたのかと考え、思い至ったのが空腹だった。しばらく何も口にしていないのならば、あれだけ身体が軽かったことも頷ける。ソフィアは自分の食事も兼ね、スープを作り部屋に運んだ。すると、広がる香りに誘われたのか、男が目を覚ました。ソフィアはスープを勧めると、静かに部屋を出た。
「すみません。ご迷惑をお掛けしてしまって」
食器を戻しに部屋から出てきた男が、開口一番に謝罪をソフィアに向けた。食卓の椅子に座り休んでいたソフィアは、丁寧に首を横に振る。
「いえ、構いませんよ。……それよりも、家に何かご用でもあったのでしょうか?」
勧めるよりも前に、当たり前のように向かいの椅子に座ろうとした男の態度に一瞬眉をひそめたが、ソフィアはそれに対し何か言うでもなく男に訪問の理由を訊ねた。
「あ、実は、ここに住んでいる方にお逢いしたくて伺ったんです……」
「私にですか?」
「そう……です」
男の言葉はどうも歯切れが悪い。それもあり、男に対する印象に怪訝の色が濃くなってしまう。しかも、最初の時に感じた想いが、なぜかこうやって話をしていると全く湧いてこないのだ。見ず知らずの人間なのだから当たり前のことなのだが、今、目の前にいる男が初見の印象とは違い、全くの別人のようにも感じてしまう。
そんな心境の変化もあり、警戒を増しながら話をしていたのだか、やはり不思議と男からは嫌な感じはしない。ソフィアは自身のことでもあるに関わらず、自分がこの男に対してどのような印象を抱いているのか分からなくなってしまっていた。
そんな時、男がとんでもないことを言ってきた。
「あの、突然で申し訳ないのですが、しばらくここに住まわせてもらえませんか?」
「えっ? ここにですか?」
女の一人住まい、しかも初めて会った女の家に住まわせてくれと申し出る大胆さに、言葉を失ってしまう。こんなこと断る以外の選択肢なんてない。ソフィアは間髪入れずに拒否を突きつけようとするが、小さく開かれた口から出てきたのは思いがけない言葉だった。
「良いですよ。どうせ、部屋も余ってますから」
それは本来の意に反した、申し出を受け入れるものだった。
「本当ですか。ありがとうございます」
自分の発言に驚くソフィアだったが、言ってしまったものは仕方ない。それに、安堵したように綻んだ笑顔を見てしまうと、何も言い出せなくなってしまうのだった。
◇ ◇ ◇
見知らぬ男との生活を始めて、数日が経った。
男はハンスと名乗ったが、それ以外のことを話すことはなかった。何か訳ありなのは明白で不審ではあるが、ソフィアは深く追求するようなことはせず家に置いていた。
「土はこれくらいで良いわね。じゃあ、種を蒔きましょうか。……あら? どこに……」
家の裏にある広い畑の一角で、鍬を手にしたソフィアがそばに置いていた籠の中身を漁る。
「あ、もしかして家に忘れたんじゃないですかね? 俺、取ってきますよ」
「ありがとうございます。たぶん、机の上にあると思うんで」
ハンスは軽快に返事をし、駆け足で家に戻っていった。
ソフィアの家の裏には以前の家主が耕した広い畑がある。彼女の生活は基本的に自給自足の質素なものだ。この畑で野菜を育て、町への買い出しは足りない物を月一程度で向かうくらい。女一人で、これだけの畑を管理するのは大変だが、今はハンスが率先して手伝ってくれ、非常に助かっていた。
ハンスは本当に働き者だった。畑仕事もそうだが、家の修繕などもしてくれる。手早く仕事が進んでいく様に、頼りになる男手に感嘆し、感謝をしていた。だが、その一方で首を傾げることもあった。
女であるソフィアに比べ、ハンスは体格も良く、こなす仕事量も多い。食事も自分の倍は食べるのだろうと、ソフィアは普段よりも多めに食事を用意していた。しかし、ハンスは驚くほどに少食で、いつも小さなパンを一枚と、スープを二、三口で終わるのだ。野菜だけはいくらでもあるので、遠慮しなくて良いと言うが、ハンスはこれだけで満足だと言い、決して多くをとることはなかった。それなのに、最初の日以来倒れることもなく、毎日ソフィア以上に精力的に仕事をしているのだ。
「ハンスさんって、不思議な人よね。……それにしても、遅いわね」
家はすぐそば。おそらく出したままになっているはずの種も、すぐに見つかるはず。それなのに、ぼんやりと考え事をする時間ができてしまうくらいになっても、ハンスは戻って来ない。もしかしたら、出していたというのは勘違いで、種が見つけられないのかと、ソフィアは鍬を置き、ハンスの後を追った。
「あ、ハンスさん」
表の入り口に向かおうと家の角を曲がった矢先、ハンスと出くわした。
「……あの、何を……見てらっしゃるんですか?」
ハンスの手には種の入った小袋が握られていた。それなのに畑に向かうことなく足を止め、小さな庭の一角を見ていた。
「あぁ、すみません。ちょっと、この花壇が気になって。……ここには花を植えないのですか?」
庭には小さな花壇が幾つかあり、色とりどりの花を咲かせている。しかし、あまり手入れがされているようではなく、雑草も伸びている。特に、ハンスが見ていた場所は花もなく、乱暴に掘り返された状態の土が顔を覗かせているだけだった。
「え、ええ。そこには、何もありません。ハンスさん、そんなことよりも、早く畑に戻りましょう。種蒔きも大変なんですよ」
立ち止まっていたハンスを、ソフィアは捲し立てた。普段のおっとりとした様子とは一変した姿は、何かを必死に隠し、他人をその場から離したいという感情に見えた。
ソフィアはハンスに対し、決して悪い感情は持っていなかった。しかし、彼の行動を見ていると胸の奥がざわつくき、理由の見えない不快を感じることが多々あった。
先日も自分が食事を作ると言い出し夕食を作ったのだが、その食事にソフィアは胸を締め付けられ、涙が出そうになった。不味いとか毒によってもたらされたものではなく、記憶によってもたらされたものだった。なぜ彼が、と問い掛けそうになったが、聞くのが怖くなり口を噤んだ。
それだけではない。いつだったか、何かを探していたハンスは、そばにソフィアがいるにも関わらず、彼女に訊ねることなく台所を物色し始めた。すると定めたように彼は床下倉庫の扉に手を伸ばした。それを見たソフィアは慌てて止め、何を探しているのか訊ねたが、なぜかハンスははっきりとしたことは答えず、言葉を濁したのだった。
ハンスはソフィアの何かを知っている。そして、それを曝け出そうとしている。それが不快だった。まるで、心の奥に土足で踏み込まれているようだったから。
そもそも、ハンスという男は何者なのだろう。名乗った際も少し考える風で、本名なのかも怪しい。ただ、今は戦争中で、戦地から逃げてきた兵士だということが考えられる。脱走兵の話はこんな辺境の町でも聞くことがある。それならば、自分を語らず、自分を偽ることも理解できる。戦争からの逃走は、いわば国賊とも言えるから。
彼は時々とても辛そうな顔をすることがある。過酷な戦争を体験した苦しみなのだろうが、それとは別の悲しみや苦しみもあるようにソフィアの目には映っていた。それが自分に向けられたものでるようなのに、日ごとに様相を変化させ、全く別人と対峙しているような錯覚を覚えることもある。それでいながら、心も身体も穢れを知らない無垢な一つの存在……、そんな風に見えてしまうこともあった。
日ごとにハンスという男が分からなくなる。このまま、この男を家に置いていても良いのだろうかと疑問を抱く反面、追い出すのは心苦しくもある。そんな相反する感情がひしめき合い、彼女の心はどうにかなってしまいそうだった。
そして、とうとう限界を迎えた。
「ハンスさん。その部屋には入らないでください」
険のある声に、ハンスが身を竦める。ハンスは、ただドアの前に立っていただけだった。それなのに、ソフィアは珍しく声を荒らげハンスを咎めた。
「屋根裏部屋がご不満ですか?」
「いえ、そうじゃありません」
ソフィアの怒声に、ハンスは必死に首を横に振る。自分の行動に、決して深い意味などないと言わんばかりに。しかし、ソフィアの怒りは治まらない。
ドアの向こうは空き部屋だった。それにも関わらず、ハンスには狭い屋根裏部屋を宛がっていた。これに悪意などない。なぜなら、この部屋はソフィアにとって誰にも触れさせたくない空間であり、自身も触れたくない空間だったから。
「……ソフィアさん。少しだけ付き合ってもらえますか」
何を言っても、感情を昂らせた今のソフィアには届かない。そう悟ったのか、ハンスは了承を得ないままソフィアの手を取ると、強引に外へと引っ張り出した。
「ソフィアさん、あれを見てください」
「……? 雲鯨が何ですか?」
外に出るなり、ハンスが空を指差す。そこには、一時期よりも数を減らした雲鯨が青い空の海を優雅に泳ぐ姿があった。
「ソフィアさんは、雲鯨を見てどう思います?」
「どう、って……。特に、何も……」
彼は突然何を言い出すのだろ。と、横に立つ男を怪訝に思いながら、もう一度空を見上げる。すると、あれほどいきり立っていた感情が、水で冷やされていくみたいに落ち着いてきた。
「雲鯨は雲でも生物でもありません。魂なんです」
「……たましい?」
「正確には魂を安住の地に運ぶための器。雲鯨の中で多くの魂が一つに溶け合い、眠っています。ですが、魂は時々目を覚まし、地上を見つめて涙を流すことがあります。もう一度、あの人に逢いたい、声が聞きたい、抱きしめたいって……」
気持ちは落ち着いたが、彼の話は理解が追い付かず、ソフィアはただ聞くだけになっていた。
「その涙を雲鯨は地上に降り注がせます。そして、強い想いが溢れた時、雲鯨は僅かな期間だけ魂に仮の肉体を授け、地上に降ろします」
空の雲鯨を見つめ語り続けていたハンスが、地上のソフィアを見つめる。
「俺はソフィアさんに逢いに来ました。正しくは、俺と同じ雲鯨の中に溶け込んでいた彼女の魂が……」
そう言うなり、ハンスの表情が変わった。男性的な雰囲気が和らぎ、女性的な柔らかさを纏った優しい笑顔に……。その変化に、ソフィアは両手で口を押さえ、声ではなく涙を溢れさせた。
「……ごめんね、ソフィア。すぐに逢いに来れなくて」
ソフィアはハンスの中に現れた女性の存在に驚愕した。だが、その驚きはすぐに溢れんばかりの歓喜に変わり、勢いよく抱きついた。
「リーザッ! リーザなのねっ」
触れているのは硬い男性の身体なのに、女性のふくよかな柔らかさを感じる。そして、なつかしく、大好きな温もり。ソフィアは肌に伝わる感覚に喜び、大粒の涙をこぼしていた。
「どうして貴女の姿じゃないの? どうして、すぐにリーザだって言ってくれなかったの?」
愛しいリーザの胸の中で、ソフィアは次々と疑問をぶつける。
「本当にごめんなさい。この姿は仕方ないのよ。魂だけの私たちは、雲鯨の中で溶け合っていて、記憶も同じように溶け合っているの。この姿は誰かの記憶が作り上げた姿なの。……だから、怖かったの」
「怖かった?」
「うん。この姿は女のものではない。しかも、貴女が好きだって言ってくれた金色の髪でもない。この姿で私だって名乗っても、貴女は信じてくれないのではと思って。それどころか、拒絶されてしまうんじゃないかって……。それが怖くて、貴女の姿を見た瞬間に私は記憶の奥に閉じ籠ってしまった……」
「そんなっ! 信じないわけないわっ。だって、私、ハンスさんを見た時、すごく懐かしい気持ちになったの。どうしてだろうって思ってたけど、あれはリーザだったからなのね」
ソフィアの中で、全て合点がいった。あの花壇も、元々はリーザが世話をしていた。あの空き部屋も、リーザが生活していた部屋。ハンスが気にかけていたものは、全てがリーザに関わりあるものだった。それなのに、リーザの死が受け入れられなかったソフィアは、事実に触れたくない気持ちだけが先立ち、ハンスにきつく当たってしまっていた。
理由が分かり、気持ちが軽くなっていく。そして、ソフィアは思い出した。
「ねえ、リーザ。春に貴女と浸けた果実酒が飲み頃なの。一緒に飲みましょうよ」
「ええ、そうね」
ソフィアは涙を拭うとリーザの手をとり、家の中へと戻っていった。
懐かしそうに室内を見渡すリーザを、いつも自分が座っている席の向かいに座らせると、ソフィアは台所の床下倉庫から果実酒の瓶を取り出した。透き通った赤い液体が、陽射しに照らされ揺らめき輝く。
「綺麗な赤ね。それに薫りもすごく良い」
リーザはグラスに注がれた果実酒を光に透かし、鼻先に運んび甘い薫りを堪能する。
「リーザの指示通りに浸けたんだもの。失敗なんてしないわ」
楽しそうにするソフィアをリーザは笑顔で見つめ、コクリと赤い果実酒を飲んだ。
「……美味しい。ソフィアとこのお酒を飲むことができて良かったわ」
グラスから口を離し、リーザが幸福に満ちた吐息を漏らす。
二人は久し振りの時間を楽しんでいた。会話は止まず、赤い果実酒はどんどん量を減らしていく。時間はあっという間に過ぎ、窓から射し込む陽射しは陰り始めた頃、ふいにリーザは口を噤み窓の外に顔を向けた。
「ソフィア。私は行くべき地に向かうわ」
「――――っ! いやっ! 行かないでよ、ずっと私の傍にいてよ」
幼い子供のようにイヤイヤと、ソフィアが我が儘を言う。リーザは母のように宥めるが、ソフィアの訴えは勢いを増していく。リーザの姿がしだいに霞んでいることを恐れて。
「ソフィア、貴女は生きている。過去に縛られたまま留まっていては駄目。前に進むの」
「リーザッ!」
泣きすがるソフィアの頬に、透き通った手が添えられる。
「ねえ、ソフィア。私は幸せだったわ。短い間だったけど貴女と暮らせて、貴女と時間を共にすることができて。そして、今も幸せよ。貴女の想いが伝わってくるから。……だから、貴女にも幸せになってほしいの。お願い……」
微笑みを浮かべ消えていく姿。その姿は、ハンスという男ではなく、ソフィアが愛したリーザという女性の姿だった。
「リーザ、……リーザ。行かないでよ……」
一人残されたソフィアは天を仰ぎ泣き続けた。
◇ ◇ ◇
リーザが去り、数日が過ぎた。その数日の間で、ソフィアの世界だけでなく、人々の世界も大きな変化を見せていた。
戦争が終わったのだ。
この報せに、世界中は沸いた。麓の町も歓喜に溢れ、以前のような賑わいを取り戻しつつあった。
人は強い。心が沈み、くじけそうになっても、やり直していく力を持っている。切っ掛けや時間は必要だが、笑顔は戻る。
そして、それはソフィアも同じだ。
ドアに鍵を掛け、大きな鞄を持ったソフィアが前に進む。二、三歩進んだところで歩みを止め、くるりと振り返り、数年暮らした家を見上げた。リーザと共に家族から逃げ出し、暮らし始めた丘の上の家。幸せと悲しみが詰まった大切な家。ソフィアは家に別れを告げると再び歩き始めた。
ソフィアは前に進む決意をした。過去に縛られるでもなく、逃げるでもなく、自分のための新しい未来を探すために。それで、先ずは町で住み込みの仕事を始めることにしたのだ。
「……雨?」
道を進み始めたソフィアの頬に、小さな雫が落ちる。見上げた先には青い空が広がり、今年最後の一頭であろう雲鯨が雄大に泳ぎ潮を吹いていた。
ソフィアは雲鯨を見上げ、祈りを捧げる。
「雲鯨。どうか、大切な人たちを無事に安住の地へとお運びください」
「そして、地上の幸せを見守っていてください」
【終わり】